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十六橋水門 |
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安積疏水を設計したのは、明治政府が招いた「お雇い外国人」のひとりで、オランダ人技師団の長であったファン・ドールンである。 |
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彼のお蔭で安積開拓は成功をおさめ、疏水を利用した水力発電所が地元の工業発展の礎となり、 |
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今日でも農業用水としてだけではなく、上水道の水路として大切に運用されている。 |
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地元の人々は今でもドールンを恩人として敬愛しており、水門付近には彼の銅像が建立され、大切にされている。 |
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------ 以上が地元住民は誰でも知ってる定説であり、学校でも副読本などで教育している内容である。 |
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100年以上そう信じられ、そう教えてきた。 |
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しかし、この定説に異議を唱える論説も存在する。 |
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■「毎日新聞」福島版 1954年9月10日 「安積疏水の歴史書直しか」 (未読) |
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県の重要文化財専門委員会々長・八代義定氏への取材を元に書かれた60年前の新聞記事である。 |
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副題に、「山田氏が実測か ドールン氏は助言だけ」とある。 |
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「山田氏」とは山田寅吉のことで、幕末に公費でヨーロッパ留学して土木や建築を学び、帰国後は内務省の土木技師として活躍した人である。 |
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記事の中で八代氏は、@ドールンが郡山に滞在したのは数日しかなく、そんな短期間で実測設計を終えるのは不可能。 |
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A現存する「実測図」は日本式で描かれており、ドールンの作図とは思えない。 |
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以上を根拠として、従来の「設計者はドールンである」との説を否定している。 |
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また、古老の口伝から「設計実測は山田寅吉であろう」と結論付けている。 |
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■「安積野士族開拓誌」 高橋哲夫 歴史春秋社 1983年 |
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著者の高橋氏は県近代史研究者で、県文化センター館長も勤めた。功績により県文化功労賞を受賞している。 |
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本書では、「もともと専門研究者の間では、この新聞報道の史実が正論として受けとられていた」と、 |
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上記報道を、"特に新説というわけでもなく、以前から知られていた事実だ"、と改めて肯定し、 |
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「いつの間にか歪曲された史実がひとり歩きし、虚像が実像にとってかわってしまった」と嘆いている。 |
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そして、「大部分は山田寅吉や南一郎平ら日本人技術者によって作成された」と八代説を追認し、 |
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「ドールンは測量・設計に目を通し、監修・指導した上でGOサインを出したに過ぎない」と述べている。 |
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後述する藤田龍之氏によると、高橋氏は上記以外の著作、「安積開拓と安積疏水
総合調査報告」(県立博物館編)や、 |
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「安積疏水百年史」(安積疏水土地改良区編 1982年)でも繰り返し「日本人説」を主張しており、 |
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特に土質工学研究発表会における高橋氏の特別講演の内容が、学会誌である「土と基礎」に掲載されて以降は「日本人説」が定説とされ、 |
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その後、「土木工学ハンドブック」をはじめ、数々の文献に引用されるようになった、としている。 |
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その結果、新聞記事が予告した通り"歴史が書き直された"ようで、以下の百科辞典でも「ドールン説」が疑問視され、 |
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「日本人説」が史実として掲載されるようになったという。(後述の矢部洋三氏による) |
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「このような入門誌に『日本人説』が十分に検証されないまま掲載されることで、それが通説化してしまうことを恐れる、と矢部氏は懸念している。 |
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■「体系・日本の歴史・第12巻 開国と維新」 石井寛治 小学館 1989年 (未読) |
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■「日本の歴史・第17巻 日本近代の出発」 佐々木克 集英社 1992年 (未読) |
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石井氏は経済学者、歴史学者で、東京大学名誉教授。専門は日本経済史。 |
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佐々木氏は歴史学者で、京都大学名誉教授。専門は日本近代政治史。 |
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第三安積疎水橋梁 |
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以上の一旦書き直された「日本人説」を、"誤認である"と否定し、 |
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"設計したのはドールンである"、と一次資料に基づいて真っ向から反論する論説が登場する。 |
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■「殖産興業と地域開発」 共著 柏書房 1994年 |
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・「殖産興業政策研究と安積開拓」 矢部洋三 |
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毎日新聞に対しては、「八代氏の"一人芝居"を十分に取材せずに記事にしただけ」、とバッサリ切り捨て、 |
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高橋氏についても、「十分調査せずに新聞記事を鵜呑みにした」と手厳しい。 |
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さらに、両氏が誤認に至った経緯も推測している。 |
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「安積疏水志」(明治38年(1905))編纂者である織田完之が編集ミスを犯してしまい、 |
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明治12年(1879)1月にドールンが石井省一郎土木局長に復命書(基本設計)を提出した件を、誤って「明治13年」の項目に入れてしまっため、 |
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12年7月に山田寅吉が復命書(実施設計)を提出した件の方が先に記載されてしまい、実際の順序とは逆になっていること。 |
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また、当時の最先端技術は、技師が現地を訪れることなく設計できるレベルに達しており、 |
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現地滞在日数が短いことを根拠に「ドールン説」を否定するのは稚拙である、と厳しく批判している。 |
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さらに山田に関しては、「ドールンが書いた基本設計に基づき、材料の選択や経費の算出などを行っただけ」、としている。 |
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・「猪苗代湖疏水(安積疏水)の設計にはたしたファン・ドールンおよび山田寅吉の業績」 藤田龍之 |
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藤田氏の反論は一次資料に基づいたもので、専門的にして長文かつ詳細。よって非常に難解なのであるが、なんとか要点だけ抽出してみる。 |
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明治12年、石井局長に提出した復命書こそが、ドールンが最先端技術を駆使して導き出した、疏水設計の主要部分である。 |
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それは、ドールンの指示で設置した水量標から得られる測量の数値さえあれば、現地を訪れなくても算出可能であった。 |
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以上の設計は来郡した明治11年時点では既に完成しており、着工にGOサインを出すためだけに現地を訪問したに過ぎない。 |
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ちなみにドールンは、四次方程式を用いて沼上隧道の断面積を算出している。 |
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山田が安積疏水に関わったのは半年ほどと短期間で、彼はこの期間(明治12年6月)に現地を訪れている。 |
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明治13年に提出された復命書は来郡前に既に完成しており、 |
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その内容は、ドールン提出の復命書などから材料・工費などを算出したものであった。 |
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ドールンも山田も測量には参加してないが、それは必要がないからであって当然のことであり、 |
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前述したように、測量の数値さえあれば設計し得る技術を2人は持っていた。 |
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南は土木の実務経験はあるものの専門教育を受けたことはなく、設計に関与したとは思えない。 |
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技術者ではなく、文官として派遣されたと推測される。 |
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以上を当時の資料を元に指摘し、反論としている。 |
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この本に対して、高橋氏を代表とする「日本人説」側からの再反論の有無を、私はまだ知らない。 |
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安積疏水道橋 |
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余談になるが、ここで「日本の川を甦らせた技師デ・レイケ」(上林好之)などを参考に、ドールンに関する記述を拾い上げておく。 |
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彼は1837年、農村の牧師の家に生まれた。工業高校を卒業後、同年代の生徒より5年遅れて王立アカデミーの土木工学科に入学する。 |
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そのため、5歳年下のエッシャーと同級生になった。 |
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後にお雇い外国人の第二陣として来日することになるエッシャーは貴族出身のエリートで、アカデミー卒業後は内務省土木局に入った。 |
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一方、ドールンも成績は優秀だったようで、技師の資格を得ると卒業後は国の技官として採用され、 |
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オランダ領東インドのジャワ島へ鉄道建設現場の技師として派遣された。 |
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帰国後は国内の鉄道建設に従事していたが、出世コースから外れたことを悟った彼は、 |
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教師になるための資格を取って退職し、オランダの地方都市にある高校の数学教師になった。 |
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その後、復職して運河開削の現場に派遣され、そこでお雇い外国人の第二陣として来日することになるデ・レイケと知り合う。 |
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ちなみに、ドールンは正式採用ではなく臨時雇いだったため、このプロジェクトが終われば解雇されてしまう立場であった。 |
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明治新政府からオランダに対し、土木技術者の派遣要請があったのが、その頃であった。 |
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しかし土木局内から募集してみたものの、上級技師陣の中で日本行きを希望する者はひとりもいなかった。 |
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そこで、土木局で主任技官をしていたデイルクスが推薦したのが、甥でもあるドールンだった。 |
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技師として優秀であり、外国での勤務経験もあるドールンを適任だと考えたのであろう。 |
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しかし著者である上林氏は、ドールンを「元々鉄道の専門家であり、治水関連の設計に関わった経験はほとんどなく、 |
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特に築港技術については大学で教わった程度の知識しかなく、 |
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エッシャーやデ・レイケのような治水現場での実務経験もなかった」と厳しく評している。 |
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野蒜築港の失敗を暗に批判しているのであろうか。 |
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なお、ドールンが何を思って日本行きを決断したのか、の記述はない。 |
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ちなみに、少年時のエッシャーは、徳川幕府が派遣した使節や日本から来た留学生に会っており、日本に大変興味を持っていた。 |
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日本政府が土木技術者を探していることを知った彼は、旧知のドールンに日本行きを請願したが、既に枠が埋まっていた。 |
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しかし、第二陣としてデ・レイケらと共に念願であった訪日の希望が叶うことになる。 |
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これほどの情熱を持って来日したエッシャーであったが、主体的な活動ができないことに失望し、契約期間が終わるとすぐに帰国してしまった。 |
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