福島県浜通りの飛行場跡 1  2016.02                    [TOP]  [寄り道]  [飛行場リスト]


 原町飛行場  (南相馬市)

  江戸時代、この辺りは雲雀ヶ原と呼ばれる原野で、中村藩は周囲を野馬土手で囲い、放牧場として馬を放し飼いにしていた。 
  有名な「相馬野馬追い」発祥の地でもある。
   
  維新後は地元の資産家に払下げられて開拓が行われたが、入植者はほとんどが小作であった。
  その後、大正初期から昭和初期にかけて何度か陸軍飛行場の誘致が行われていたが、
  ついに昭和11年(1936)11月、雲雀ヶ原臨時飛行場が開設された。
   
  すぐに飛行場が拡張されることが決定。
  地元住民らは突然役場に集められ、「飛行場敷地として買収されることになったので、期限までに立ち退くこと。移転先は自力で探すように」
  と、有無を言わさぬ通告を一方的に受けたのだった。
  こうして原町飛行場が完成し、昭和15年(1940)6月、熊谷飛行学校原町分教所としてパイロット養成が始まる。
   
  末期には特攻隊の訓練基地になり、ここで編成されたのちフィリピンや沖縄方面の作戦に飛び立って行った。
  昭和20年(1945)の2月、8月にアメリカ海軍艦載機に爆撃され、基地は破壊された。
   

 
敗戦後、2年が経過した原町飛行場の様子。
飛行場の範囲を大雑把に囲んでみた。
特に滑走路はなく、随時風向きに合わせて離着陸していたとのこと。
重爆撃機の運用も可能な規模で、実際に九七式重爆撃機が演習していた。
 
敷地の北側に白く見えているのは原町紡織である。
昭和20年8月にアメリカ海軍艦載機による攻撃を受けて炎上した。
そのすぐ西側を通る直線道路は明治になって開削された馬場街道で、
飛行場拡張の際にずっと西側に換線された。
 
原町森林鉄道・馬場線は旧馬場街道のやや南側を並走していたが、
やはり換線されて新馬場街道との併用軌道になった。
 
国道6号は現在、県道120号浪江鹿島線に、
馬場街道は県道49号原町浪江線になっている。
 

 
・昭和22年(1947)
 
この項では施設が集中している南部にスポットを当てる。
正門から入ってすぐ先にあったロータリーが、この写真にも写っている。
そのまま進むと南側に本部があった。
戦後は学校として再利用していたとのこと。
その入り口にもロータリーがあったはずだが、撤去されたのか見られない。
さらに東へ直進すると第一格納庫に到着する。
撮影当時にはまだ建屋が残っていたようだ。
他の格納庫には建屋が見られない。
 

 
・昭和38年(1963)
 
軍関連の建物は撤去され、格納庫群もコンクリートの敷地のみになったようだ。
第一、四格納庫跡を貫いて道路が通っている。
 
戦後は引揚者などの入植が行われたため、
飛行場跡は宅地化、耕地化が進んでいる。
 

 
・昭和50年(1975)
 
本部があった辺りは耕地化が進み、格納庫跡もかなり薄くなった。
圃場整備されたが民家の数は特に増えてないように見える。
 

 
・平成25年(2013)
 
現在の姿。 
幸か不幸か、前掲写真とそれほど変化がない。
土地区分も敗戦直後からずっとそのままのようだ。
原町市街地から離れたところにあるせいか、
業者による開発の波にまだ晒されてないのだろう。
 
そのお蔭で遺構の残存率が高い。
以下に図示し、リスト化しておく。
     
 
A   正門の門柱が左右一対残っている。
B   水路脇に軍界標が残っている。
C   雲雀ヶ原神社(航空神社)の入り口を示す標柱に弾痕がある。
     
  南側にコンクリートの基礎が並んでいる。
  コンクリート敷きの地面が当時のまま残っている。
  コンクリート敷きの地面が一部残っている。
  道路沿いにコンクリートの基礎が並び、
    東側の民家内にコンクリート敷きの地面が一部残っている。
  南北両側にコンクリートの基礎が並んでいる。
 

 
A
正門跡。
銘板には「元原町陸軍飛行場正門」とあるので後付けである。
奥に見える交差点がロータリーがあったところで、
今でも角が丸い平面形になっている。
     

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