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福島県双葉郡の双葉町と大熊町の間にある広い台地は長者ヶ原と呼ばれていた。 |
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海に面した高台ゆえに水の便が悪くて耕作には適さず、ススキと潅木ばかりの広大な荒野であった。 |
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昭和15年(1940)4月、その長者ヶ原に陸軍が飛行場を設置することが決定し、 |
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住民11戸を移転させた上、着工した。(予算は68万4650円) |
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工事は業者の他、地元住民も動員して行われ、昭和16年4月に完成している。 |
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通称、磐城飛行場とか長者ヶ原飛行場などと呼ばれていたが、 |
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昭和19年に軍が作成した「飛行場記録」(防衛研究所・戦史研究センター所蔵)では、磐城陸軍飛行場となっているとのこと。 |
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(海軍説もあったようだが、誤りということになる) |
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昭和17年春、宇都宮飛行学校磐城分校が発足し、60機ほどの練習機(通称・赤トンボ)が配置されてパイロットの養成をしていた。 |
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昭和20年2月には磐城飛行場特別攻撃教育隊として独立し、学徒動員の学生を対象に「特攻」の訓練もするようになった。 |
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しかし同年7月に軍は訓練を中止。 |
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空襲から練習機を守るため、近隣住民を動員して南西に6kmほど離れた夜ノ森公園に機体を移動させた。 |
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桜並木の下に入れ、枝を切って機体に被せて隠したと言う。 |
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その翌月の9日、10日、アメリカ海軍艦載機の攻撃を受けて飛行場は壊滅し、そのまま終戦を向かえた。 |
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そのとき艦載機のガンカメラが撮影した映像が、動画投稿サイトに上げられている。 |
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堤康次郎による製塩事業は長くは続かなかった。 |
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広大な塩田を不要としない低コストな製塩法が開発されたり、海外から安い塩が輸入されたりしたのだ。 |
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長者ヶ原の塩田は昭和34年(1959)に廃止され、一帯は再び荒野と化していった。 |
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広大な土地を持て余した堤が泣き付いた相手が、衆議院議員でかつて福島県知事をしていた大竹作摩であった。 |
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(堤も元衆院議員で、昭和28年には議長を務めた経歴がある) |
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その時大竹は、堤が所有する長者ヶ原が、日本最初の原子力発電所の建設候補地のひとつであることを伝える。 |
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(ちなみに、当時の東電社長・木川田一隆も大竹議員も福島県の出身で、旧知の仲であった) |
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塩田敷地を投げ売りするつもりでいた堤は、当然のことながら変心。 |
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原発建設地が長者ヶ原に正式決定すると、売却価格の吊り上げ工作に腐心し、昭和39年(1964)に3億円で売り渡す契約を結んだ。 |
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3万円で払い下げを受けてから15年後、無用となった荒地を1万倍の価格で転売することに成功したわけである。 |
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