福島県浜通りの飛行場跡 2  2016.02                    [TOP]  [寄り道]  [飛行場リスト]


 磐城飛行場  (双葉郡大熊町)

  福島県双葉郡の双葉町と大熊町の間にある広い台地は長者ヶ原と呼ばれていた。
  海に面した高台ゆえに水の便が悪くて耕作には適さず、ススキと潅木ばかりの広大な荒野であった。
   
  昭和15年(1940)4月、その長者ヶ原に陸軍が飛行場を設置することが決定し、
  住民11戸を移転させた上、着工した。(予算は68万4650円)
  工事は業者の他、地元住民も動員して行われ、昭和16年4月に完成している。
  通称、磐城飛行場とか長者ヶ原飛行場などと呼ばれていたが、
  昭和19年に軍が作成した「飛行場記録」(防衛研究所・戦史研究センター所蔵)では、磐城陸軍飛行場となっているとのこと。
  (海軍説もあったようだが、誤りということになる)
   
  昭和17年春、宇都宮飛行学校磐城分校が発足し、60機ほどの練習機(通称・赤トンボ)が配置されてパイロットの養成をしていた。
  昭和20年2月には磐城飛行場特別攻撃教育隊として独立し、学徒動員の学生を対象に「特攻」の訓練もするようになった。
  しかし同年7月に軍は訓練を中止。
  空襲から練習機を守るため、近隣住民を動員して南西に6kmほど離れた夜ノ森公園に機体を移動させた。
  桜並木の下に入れ、枝を切って機体に被せて隠したと言う。
  その翌月の9日、10日、アメリカ海軍艦載機の攻撃を受けて飛行場は壊滅し、そのまま終戦を向かえた。
  そのとき艦載機のガンカメラが撮影した映像が、動画投稿サイトに上げられている。
   

  戦後は米軍に接収されることもなく、仙台財務局の管理下にあった。

写真はその時期に撮影されたもので、長者ヶ原一帯はなぜか真っ白に映っている。

そこから真西に向かって延び、常磐線の南で国道に接する道は、

飛行場建設の際に新設された軍用道路だろうか。

現在は一部が県道252号夫沢大野停車場線になっている。

     
  同時に撮影された別コマでは白く潰れずに映っていたので、これを拡大する。

既に塩田化工事(後述)が進んでおり、滑走路の状況は分かりにくくなっている。

右下にある逆Y字型の列は飛行機の格納庫で、

その南側に宇都宮飛行学校磐城分校の校舎があった。

その跡地には現在、磐城飛行場跡記念碑が立っている。(昭和63年建立)

西端に7個ほど縦に点々と並んでいるのは掩体壕である。

 

昭和22年(1947)

 
 

  飛行場跡地は地権者だった農家らに払い下げられるのだが、

その1/3に当たる99万平方mの払い下げを受けたのは、

西武グループの創始者・堤康次郎であった。

(当時は「国土計画興業」。後に「国土計画」を経て「コクド」となる)

3万円で広大な飛行場跡を入手した彼は、昭和23年(1948)、ここで製塩業を始めた。

瀬戸内地方にあった塩田が戦時中に破壊されてしまい、

当時、全国で塩が不足していたのだ。

 

昭和38年(1963)

 
     
  海岸に作られた人工の入江から鉄管で海水を汲み上げ、塩田にて濃縮。

その後、パイプラインで長塚駅(現・双葉駅)にある製塩工場まで送っていた。

そこで精製した塩は常磐線で東京まで運ばれ、全国に向けて販売されていた。

写真中央を縦断する国道バイパスは建設中で、所々がまだ途切れている。

写真の上端で常磐線と国道288号が交差しているが、
ここは線路が上を通る立体交差になっていた。
しかし東日本大震災の際に高架橋が倒壊し、今も修理されないまま放置されている。

     
  塩田部分を拡大する。

方眼紙のように整然と区画されている塩田が、以前より南方に拡大している。

駅に向かって北西方向に伸びるパイプライン(?)も鮮明に見える。

関連は不明だが、この斜めの直線は原発構内の排水溝として今でも存在する。

格納庫は鮮明に見えるが、掩体壕は判然としない。

草木に覆われてしまったのかも知れない。

 

   
  堤康次郎による製塩事業は長くは続かなかった。
  広大な塩田を不要としない低コストな製塩法が開発されたり、海外から安い塩が輸入されたりしたのだ。
  長者ヶ原の塩田は昭和34年(1959)に廃止され、一帯は再び荒野と化していった。
   
  広大な土地を持て余した堤が泣き付いた相手が、衆議院議員でかつて福島県知事をしていた大竹作摩であった。
  (堤も元衆院議員で、昭和28年には議長を務めた経歴がある)
  その時大竹は、堤が所有する長者ヶ原が、日本最初の原子力発電所の建設候補地のひとつであることを伝える。
  (ちなみに、当時の東電社長・木川田一隆も大竹議員も福島県の出身で、旧知の仲であった)
  塩田敷地を投げ売りするつもりでいた堤は、当然のことながら変心。
  原発建設地が長者ヶ原に正式決定すると、売却価格の吊り上げ工作に腐心し、昭和39年(1964)に3億円で売り渡す契約を結んだ。
  3万円で払い下げを受けてから15年後、無用となった荒地を1万倍の価格で転売することに成功したわけである。
   

  <福島第一原子力発電所>  
     
 
1号機の着工は昭和42年(1967)。 営業運転開始は昭和46年(1971)3月
2号機は昭和44年(1969)に着工、昭和49年(1974)に営業運転開始。
写真はその頃に撮影された長者ヶ原である。
既に5号機までは形が出来上がっており、6号機は基礎工事中のようだ。
首都圏に電力を送る送電線・福島幹線が南西に向かっているのも見える。
 
工事の際に不発弾が発見された、との話が伝わっている。
右下にはまだ格納庫跡が見えている。
 

昭和50年(1975)

 
     
 
原子炉の寿命は40年。 1971年3月+40年=2011年3月。
つまり1号機は2011年3月には廃止されるはずの老朽機だったのだ。
しかし東電は2010年3月に、最長2031年まで使えるという評価書を国に提出。
国は翌11年2月に、10年減らした2021年までの運転継続を認可したのだった。
 
そして延長認可の翌月、つまり廃止予定の月に、あの大震災と大津波に遭遇する。
地震と津波により全ての電源を失った1〜4号機は人智の手を離れ、暴走を始めた。
その後に起こった数々の悪夢は記憶に新しく、また、現在も続いている。
     

           
  2011年 3月11日 午後2時46分   M 9.0の地震発生。原発に送電している鉄塔が倒壊し、主電源を喪失
      午後3時27分   津波の第一波が到達。非常用ディーゼル発電機が水没して故障。全ての電源を失う
      午後7時03分   原子力緊急事態宣言を発令。1号機の半径2kmの住民に避難指示
          1号機メルトダウン
    3月12日 午後3時36分   1号機建屋内で水素爆発
    3月13日      3号機メルトダウン
    3月14日 午前11時01分    3号機建屋内で水素爆発
            2号機メルトダウン
    3月15日 午前6時14分      4号機建屋内で3号機から流れ込んだ水素が爆発
            2号機の格納容器損傷

 
事故から2年が経過した福島第一原発の様子。
敷地内が汚染水タンクだらけになっている。
そして、このタンクは今日も毎日増え続けているのだ。
敷地内に設置するのも、そろそろ限界であろう。
 

平成25年(2013)

 
     
 
南端に見える記念碑の、すぐ脇まで汚染水タンク群が迫っている。
ここを訪問して見学するのは難しそうだ。
     

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