福島県中通りの飛行場跡_2  2016.02                    [TOP]  [寄り道]  [飛行場リスト]


 
馬場平飛行場 (安達郡大玉村)    2018.01
 
江戸時代     安達太良山の中腹に馬場平と呼ばれる広い高原があり、その一部に大玉村の飛地があった。
昭和16年頃 (1941)   明治期に北海道に渡って財を成した渡辺富吉が飛地内の24町歩を買い取り、開墾して酪農を始める。
昭和19年頃 (1944)   営農は軌道に乗っていたのだが、飛地全域が秘匿飛行場用地として海軍に買収されてしまう。
昭和20年 (1945)   郡山航空基地の避難場所として、馬場平飛行場の造成が始まる。
  4月、兵舎が完成して約100人の将兵が入所。 たまにオレンジ色の複葉練習機が飛来していたという。

  8月8日〜15日頃、一機の航空機が着陸に失敗して転覆。パイロットが死亡した。
資料には、千葉県の茂原航空基地にいた第252海軍航空隊・戦闘第304飛行隊の零戦、とある。
この零戦は日高盛康少佐搭乗の隊長機だったとの資料もあるが、日高氏は2010年まで存命であった。
いったい誰が操縦していたのだろうか。
  8月15日、終戦。
幅50m、全長1000mの滑走路となる計画であったが、終戦時には600mほどしか完成してなかった。
傍らには、工事用の軌道、コンクリートのローラー、そして零戦の残骸が残っていたという。
   
 

 
  ・昭和22年(1947)
   
  戦後すぐに開拓が再開され、まず13戸が入植した。
  その時すでに兵舎は近隣住民によって解体されて持ち去られ、土台しか残ってなかったとのこと。
   
  また、杉田川の南側に3箇所の弾薬倉庫があり、250kg爆弾が多量に保管されていたのだが、
  昭和21年7月、アメリカ軍によって一箇所に集められ、爆破処理された。
  その場所には巨大なクレーターが生じ、のちに水が溜まったので子供の遊び場になったという。
  今でも民家の庭先に残っているとのことだが、矢印で示したのがその穴ではなかろうか。
   
  さて、前述の不時着した零戦だが、その胴体が、なんと橋桁として転用されていたのだという。(図示)
  もちろん、今はない。
  昭和25年(1950)頃、特需によって金属価格が高騰したのだが、それに乗じた某氏が勝手に業者に売ってしまったとのこと。
  それにしても零戦の胴体を使った橋とは、いったいどんな形状の橋だったのだろうか。 実に興味深い。
  時期的にはこの航空写真に写っているはずである。
   
 

 
・昭和39年(1964)
 
飛行場は入植者によって宅地や牧草地となったが、
滑走路に沿って真っ直ぐな車道が建設されたため、
現在でも当時の雰囲気を感じることができる。
"零戦橋"は架け替えられ、現在は県道368号馬場平杉田線になっている。
予定されていた1000m滑走路を点線で示してみたが、
もしかすると北側にも延伸予定があったかも知れない。
 

 
・昭和50年(1975)
 
これは40年以上も前の写真だが、現在もそれほど変化はない。
軍用飛行場の痕跡は全く残っておらず、それを示す石碑などもない。
 
東側の丘は開発されてゴルフ場になっている。

滑走路跡にできた開拓道路。
ここは、その北端付近を南から撮ったもの。
南北には平だが、緩やかな東下がりの傾斜地である。
2017.09 撮影
   
"零戦橋"の現状。
親柱も銘板もないので、橋名は不明。
奥に見える民家が滑走路跡で、遠くには安達太良山が聳える。
   

資料や航空写真を参考に、残置爆弾を集めて爆破処理した際にできたという爆裂痕を探してみた。
だいたいの目星を付けておいた所に行くと、民家の庭と耕地の間に怪しげなポイントを見つけた。
2018.03 撮影 
   
これが爆裂痕だろうか。
一部埋め戻されたのか、半円形か楕円形のような形状に見える。
直径は5〜8mくらい。 
資料にあるように水が溜まり、腐った果実や野菜クズ、角材などが捨てられている。
   
観察しているうちに、一部が石垣で補強されていることに気が付いた。
こんなのを見つけてしまうと、爆裂痕ではなく人工の池かも、と思えてくる。
いや、爆裂痕を池として長く楽しむため、路肩を固めたのかも知れない。
人工池にしては母屋から眺められる位置にないし、斜面も急勾配だ。
とりあえず「これです」、としておく。
   

 
須賀川飛行場 (岩瀬郡鏡石町)
  戦争末期になって陸軍により着工されたことは確実なのだが、資料が乏しいため不明点が多い。
  完成したのかどうかすら不明で、そのためか正式名称も分かっていない。
  おそらく矢吹飛行場にある航空機の避難先として急造された、いわゆる秘匿飛行場のひとつだと思われる。
  目立たないよう道路に沿って作られ、上空からは田畑に見えるように偽装されていたようだ。
   


・昭和22年(1947)
 
左端に東北本線・鏡石駅、右端に岩瀬牧場
その間に挟まれた耕地を接収して滑走路が築かれたとのこと。


確かにそれらしき痕跡があるように見えるので、四角く囲ってみた。
機体は南側の森の中に隠す予定だったのだろう。


・平成27年(2015)
 
現在の様子。
圃場整備が進み、整然と水田が並んでいる。
当然ながら、上空から見ても、現地を訪れても、遺構は全く見られない。
 
南側の森は鳥見山公園として整備され、後の野球場や陸上競技場の他、
体育館なども建設された。
   

 
矢吹飛行場 (西白河郡矢吹町)
 
明治〜大正     旧来、この辺りは矢吹ヶ原と呼ばれる原野だったが、明治になって御猟場に指定された。
昭和3年 (1928)   地元住民有志により草が刈られ、簡単な滑走路が整備された。
昭和12年 (1937)    正式に陸軍の飛行場になる。
昭和15年 (1940)   熊谷飛行学校矢吹分教所が設置される。
昭和20年 (1945)    度々空襲を受けていたが、8月の爆撃により建物や航空機が破壊され、機能停止。
   


・昭和22年(1947)
 
東西を若干カットしたが、この写真に写っている範囲が飛行場だった。
滑走路は無かったようで、随時風向きに合わせて離着陸していたのだろう。
 
写真を眺めていたら、右上に掩体壕らしきものを見つけた。
戦後2年経ってもまだ残っていたようだ。
 
左下に3本、白く見えているのは格納庫の跡。
中央には建屋が見える。
格納庫南側の建物群が本部や校舎であろう。
終戦時には連合軍の爆撃によって壊滅していた。


・昭和50年(1975)
 
約30年後の様子。
掩体壕は全くなくなり、民家や耕地になっている。
戦後は入植者を募り、盛んに開拓が進められたが、
飛行場跡からは多数の不発弾が発見されたとのこと。
 
格納庫跡には野球場を建築している最中のようだ。
四角で囲んだ痕跡だけが、なんとか判別できる程度になってしまった。


・平成21年(2009)
 
最近の様子。
かなり民家が増えたが、まだ耕地の方が目立っている。
矢吹球場の東側にあるのはプールだろうか?
ぴったり格納庫跡と重なるっているが、これは偶然だろう。
現在、このプール(?)は撤去され、被災者用の仮設住宅が建っている。
 
本部があった跡地には、矢吹町役場や文化センターが建設された。
文化センター東側には「矢吹飛行場跡」を示す石碑と、
「矢吹飛行場記念碑建立の記」の石碑が並んでいる。
   

 
沢田飛行場 (石川郡石川町沢田)
  大戦末期、あちこちに急造された陸軍秘匿飛行場のひとつだと思われる。
  石川飛行場とか、棚倉飛行場との名称もあるらしい。
  町史によると、東部三三五九飛行場設定隊と仙台の工兵第二連隊が工事を担当し、
  昭和20年(1945)3月頃から中高生や地域住民を動員して建設が始められた。
  敷地は農家から強制収用した耕地であった。
  沢田小学校が兵舎として徴用されたので、児童は近隣の神社やお寺で勉強することになった。
  7月末に完成したが、航空機が2、3度離着陸した程度で、ほとんど使われることなく敗戦となった。
  連合軍から爆撃されるようなこともなかったようだ。
   


・昭和22年(1947)
 
滑走路は偽装のため、御斉所街道(県道11号白河石川線)に沿って作られた。
兵舎として徴用された沢田小学校が右上に白く見える。
滑走路は左上に見える阿武隈川から運んだ砂利で敷き固められていたため、
元の耕地に戻すのに数年掛かったと言う。


・昭和50年(1975)
 
戦後30年経過したが、まだ滑走路の痕跡が残っている。
滑走路跡の東端には、新たに学校が建設された。


・平成17年(2005)
 
圃場整備が進められたため、西半分はほぼ痕跡が消えている。
兵舎とされた旧沢田小学校跡は町立の児童館になり、
上記の新校舎はさらに拡張されて沢田小学校、沢田中学校になった。
 
その小中学校もそれぞれ石川小、石川中に統合されてしまい、
平成27年(2015)3月に廃校となった。


完成時の様子を示すイラスト。
森の中に航空機を隠していたようだが、そこまでの誘導路も存在していた。
本部弾薬庫が地下に建設されていたとは驚きである。
現在はどうなっているのだろうか。
他にも「爆弾を埋めた」件を含めて気になる点が多いが、
イラストがあるだけで解説がないので、詳細は不明。

「石川町の歴史」より引用

 

 
浅川飛行場 (石川郡浅川町・東白川郡棚倉町)
  これも大戦末期、あちこちに急造された秘匿飛行場のひとつだと思われる。
  「浅川町史」に「浅川原に海軍の飛行場が造成された」とたった1行あるだけで、正式名や規模、経緯などは不明。
  完成したのか、実際に運用されたのかも分らない。
  浅川町に隣接した場所にあるので暫定的に浅川飛行場としたが、滑走路がある場所は棚倉町内である。
   


・昭和22年(1947)
 
丘に挟まれた南北に長い谷間に滑走路が作られた。
上空からの隠匿性はなかなか高そうだ。
滑走路南側にある耕地が格納庫や兵舎として接収されたのか、
平らに均されているように見える。


・昭和50年(1975)
 
戦後30年が経過して、さすがに痕跡は薄くなっている。
滑走路跡の中ほどは植林されたのか、森になったようだ。
転圧された南部地域も耕地に復活している。


・平成12年(2000)
 
滑走路跡自体にそれほどの変化は見られないが、
浅川町の発展に目を引かれる。
市街地が大幅に拡大し、東側には国道バイパスが開通している。
 
モノクロしかないのが残念。



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