福島市の石橋(1) 祓川橋  (福島市)   2008.10    [TOP]  [寄り道]  [橋梁Web]

「日本の廃道」第35号に投稿した記事に加筆・修正を加えたものです。


今月から3回に分けて福島県福島市にある(あった)石橋を連載します。

既知のものばかりではありますが、新発見もありますのでお楽しみください。


東北地方は建材として加工に適した石の産出に乏しく、そのため対応できる職人は明治になっても育っていなかった。

全国的に見ても石橋は珍しいが、東北地方にあってはなおさら希少なのである。

今回の物件も公園に移設されているとはいえ、江戸時代に建造されたことを考えれば存在しているだけで十分希少価値がある。

その石橋を見るため、県都・福島市の中央に座る信夫山の麓にやってきた。


   

<信夫山>

東より熊野山、羽黒山、羽山から構成され、総称として信夫三山とも呼ばれる。

各山には出羽三山からの分社である湯殿神社、羽黒神社、月山神社が祀られており、古来より山岳信仰の対象であった。

福島市のシンボル的存在であり、福島で「御山」と言えば信夫山のことを指す。

信夫山の南を流れる川が祓川で、山伏や参拝者はここで身を清めてから各参道を登っていったという。

その参道のひとつで、羽黒山への入り口に架けられたのがこの祓川橋である。


祓川の現状。 左側に信夫山がある。

かつて信夫三山への参拝者が身を清めた神聖な川は、

コンクリートで両岸を固められ、ついには上も塞がれて暗渠と化していた。

緑の部分の下には今も川が流れている。

短いガードレールで仕切られた部分が現在の祓川橋である。

 

 

 

約50年前、昭和32年(1957)の同地点を同アングルから見る。

祓川はこの時点で既に水路と化してしまっている。

ここで、画面左端をご覧頂きたい。

 

 

「福島市今昔写真帖」より引用

 

半壊した欄干が写っている。

これこそが今回レポートの対象となる祓川橋である。

欄干の一部は既になく、中央の擬宝珠も失われているようだ。

かなり荒廃した状況が見て取れる。

 

前掲画像を見ると旧祓川は埋め立てられ、既に住宅が建っているように見える。

 

 

同地点を南側から見る。

ここが信夫三山の一つ、羽黒山の本道入り口である。

中央に見える横断歩道のすぐ奥辺りに祓川橋があった。

川で身を清めた参拝者はここから信夫山に登っていたのであろう。

石橋は昭和45年(1970)宅地造成の障害になり、解体・移設されたという。

実際、橋跡の左側は公園に、右側は宅地になっている。

奥へ進んでみよう。

 

前掲画像の所から進むとすぐにT字路になる。

参道はここを左に進むのだが、この辻に石碑群がある。

 

 

 

 

 

 

その右端にあるのがこれである。

「羽黒山 拂川石橋供養塔」とある。

享和三年(1803)の銘があるとのことだが確認できなかった。

完成から30年ものタイムラグがあるので竣工記念碑的なものではないだろう。

改修工事でもあったのか、それとも橋への感謝や来世での幸福を願ったものだろうか。

 

 

 

 

 

石碑群を後にして参道の坂を上ると人工池があり、

その外堀に祓川橋が架けられている。

欠損部分も修復され、完全な姿で再現されている。

ただし橋の下に水の流れは見られない。

場合によっては流すこともできる仕様になっているようだ。

 

 

 

親柱、と呼んでも良いのだろうか。

美しい石の円柱に「祓川橋」と深々と刻まれている。

擬宝珠も参道入り口にふさわしい風格を備えている。

 

 

 

 

 

 

 

対角線上にある親柱には「はらひかわ橋」とある。

こちらはやや彫りが浅い。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、江戸時代に架けられた石橋、祓川橋の全景である。

脇には市が設置した説明版が設置されており、

由来などが記載されていた。

 

 

 

 

 

要石には「鶴」が浮き彫りにされている。

このような意匠は橋としての機能に全く関係ないのだが、

当時は縁起物として定番だったのかも知れない。

 

 

 

 

 

橋の下をくぐり、反対側へ回る。

水がないからこそできることだが、それはそれで何か悲しい・・・。

残念ながら内部にはスプレーによる落書きがあった。

 

路面は円弧を描いておらず、平面のように見える。

 

 

 

こちら側の要石にも彫刻があった。

二匹の「亀」だ。

なるほど、「鶴は千年、亀は万年」だったのか。

この橋の永遠ならんことを願っての一対だったわけだ。

 

 

 

 

石工のノミ跡も生々しい内面の様子。

地元の職人だろうか。それとも熟練工を遠くから呼んだのだろうか。

石材はどこから運んできたのだろうか。

今となっては職人の名前はおろか、設計者の名前も残ってはいない。

 

 

 

 

  実はこの祓川橋。
  当地、福島宿の大町にあった呉服屋「喜多三(きたさん)の主人が、個人で建設資金を出したものである。
  古関家五代目の古関三郎治が安永三年(1774)に寄進したとのこと。
   
  曾孫に当たる八代目が有名な作曲家の古関裕而(ゆうじ)で、主な作品として、
  「阪神タイガースの歌(六甲おろし)」
  「巨人軍の歌(闘魂こめて)」
  「君の名は」
  「モスラの歌」
  他に、沼尻軽便鉄道がモデルと言われる「高原列車は行く」などがある。
   

■次回予告 福島の石橋2 信夫橋

あの三島県令が作った明治の巨大石橋。その痕跡は今も数多く残されていた。

遺構として、写真として・・・・そして「記憶」として。

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