東日本大震災の記録  (福島県 鏡石町)

 県道288号成田鏡田線 ・ 笠石跨線橋    2011.06       [TOP]  [寄り道]  [橋梁Web]

「日本の廃道」第64号に投稿した記事に加筆・修正を加えたものです。


 
 
 
   

 

県道288号成田鏡石線は10kmにも満たない短い県道である。

かつては奥州街道と石川街道を結ぶ道であったが、

現在は国道4号と国道118号を連絡しており、ルートは変わっても役割は変わってない。

 

1990年代の初め、おそらくは踏み切りの解消を目的とした換線が行われた。

その結果、踏み切りは高架化されて立体交差となった。

 

 

その跨線橋が東日本震災で被災し、不通となってしまった。

しかも、地震から5ヵ月も経過した8月に至っても、まだ通行止めのままなのである。

補修不可能なほど致命的に壊れたのだろうか? と関心を持ち、訪れてみた。

 

 

 

 

 

現在は跨線橋部分が閉鎖され、クルマは南側に迂回するよう促されている。

迂回した先では踏み切りを渡ることになる。

 

 

 

 

 

 

ではまず、下部構造から見て行こう。

 

西側の橋台である。

桁には大きな損傷が見られないが、橋台の垂直面が酷いことになっている。

欠け落ちたコンクリ辺が片付けられることなく、放置されたままになっていた。

 

 

 

桁の隙間から空が見える。

激しい揺れにより、桁が橋台に激突して橋台を破壊。

その桁も右方向に動いた位置で停止、と言うところだろうか。

鉄筋も剥き出しだ。

 

 

 

 

橋台と桁の間にあったと思われる緩衝材のパーツが、路面に置いてあった。

地震の振動で外れて落下したのだろう。

 

 

 

 

 

 

橋台と桁とはアンカーバーにて固定されている。

ここにはそのうち4本が写っており、そのうち1本がよく見えている。

大人の腕ほどの太さがある鉄棒がアンカーバーで、総数は8本だろうか。

強く揺さぶられた影響で、基部のコンクリが砕け散ってしまったようだ。

復旧が遅れている原因は、この部分の修復が困難だからだろうか。

 

 

 

両端にあるゴム製のクッションは変形はしているものの、壊れてはいないようだ。

クッションによる変形では吸収できないレベルの、大きな揺れがあったわけだ。

 

 

 

 

 

 

桁はコンクリート製の長い一体構造で、

これ自体は震度6強の強烈な揺れにも耐えて、無事のようである。

こんな巨大な桁が繰り返しガンガンとぶつかったわけだから、

橋台もたまったものではない。

 

 

 

 

各橋脚にも損傷はないように見えるが、

その周辺に橋脚が大きく揺れたことを示す痕跡が残っていた。

 

 

 

 

 

 

線路脇に立つ橋脚に長いC桁の末端が乗っており、

線路上には別タイプの短い桁が架かっている。

線路を挟む位置に立つ2本だけ橋脚の幅が広いのは、

車道に加えて歩道橋も併設するためのようだ。

 

橋脚足元の地面には、やはり地割れが見られた。

 

 


 

次に、橋の上部構造を見てみよう。

これは再訪した時の写真で、封鎖が前回訪問時より厳重になっていた。

「通り抜け出来ません」 「車両通行止」、とある。

入れないのは車両だけで、歩行者までは規制してないと判断して進入することにした。

 

 

 

 

先に「隙間から空が見える」と書いた、橋台・橋桁接合部がここである。

下からでは分からなかったが、隙間に加えて段差も生じていた。

桁(左側)が5cmほど沈んでしまっているのだ。

アンカーバー基部が砕けてしまったためであろう。

 

 

 

 

橋台は上部も破損していた。

衝突した桁の重量を考えれば、むしろ、よくこの程度の被害で済んだものだ、

との考え方もできようか。

 

被害状況調査のためか、防音パネルが取り外されている。

 

 

 

大地震は欄干のスライド部が抜けてしまうほど、大きく橋桁を動かしたようだ。

そして、元位置に戻る勢いで角パイプを切り裂き、そしてまた抜けたのだ。

奥に写る民家群が倒壊しなかったのが不思議なくらいだ。

耐震ではなく、免震構造というのがこれなのだろうか。

 

 

 

 

その反対側の様子。

やはりこちらの橋台・欄干も破損している。

桁もかなりズレてしまった。

 

 

 

 

 

こちら側のスライド部も中々の惨状だ。

一旦下辺を切り裂いた後に、今度は右辺を切断した模様。

切断後にも何度も往復したらしく、側面には多数の傷が付いている。

 

 

 

 

 

同じ部分の下段は、下辺だけがべろりと切り離されていた。

切り裂いた右側も無傷では済まず、上下真二つに割れてしまっている。

 

言うまでもないが、かなり分厚い鋼材製である。

変形部分をひねってみたが、人の力ではピクリとも動かない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長い橋桁を進むと、やがて線路上に跨る短い桁に至る。

桁の両端が共に破損している様子が見える。

 

 

 

 

 

 

壊れているのは短い桁ではなく、長い桁の方だった。

地震による負荷は重量の小さい短い桁に集中するように思えるのだが、

実際にはそうはならなかった。

おそらくは専門的な「解」があるのだろう。

 

 

 

 

緩衝部が激しく損傷し、鉄筋ごと上に飛び出してしまっている。

荷重や温度差による伸縮や、もちろん地震の揺れを吸収することも

考慮しての設計だったと思われるが、

その想定を大きく上回る揺れだったのだろう。

 

 

 

 

短い桁の東端で壊れているのは、短い桁の方だった。

重量差とは別の法則が発動してたようだ。

 

 

 

 

 

 

東側の長い桁を緩やかに下って行くと、橋台に至る。

現地では気付かなかったのだが、写真を見ると白線が歪んでいた。

橋台内部が陥没しているようだ。

 

 

 

 

 

西側に比べ、東側の橋台・橋桁接合部は破損状態が酷い。

両側とも砕けてしまっているのだ。

西側では片側だけだった。

 

 

 

 

 

欄干のスライド部の長さは22cmほどある。

これがスッポリ抜けると言うことは、桁がそれだけ動いたことになる。

 

 

 

 

 

 

その反対側の様子。

ここでは路面よりも欄干に視線を奪われた。

 

 

 

 

 

 

一旦抜けた後、正面からまともに激突したらしい。

両側共に激しく変形、あるいは断裂し、物凄いことになっていた。

奥側は紙のようにグチャグチャに変形。

手前は三角形に切り裂かれてしまっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

路面に散らばる多数の小さな丸い物体。

これは二つに割れたクルミの実であった。

カラスが路面に落として割り、中身を食った跡ではないかと推定した。

現役の県道なのに、何ヶ月も使われないせいでカラスの給餌場になってしまった。

 

 

 

 

笠石跨線橋の東側に抜けたところで振り返る。

西側では「車両通行止」だったのに、こちらは「通行止」と歩行者の進入も規制していた。

「こちら側からは入れない、一方通行の"歩道橋"なのだな」、と勝手に解釈しておこう。

 

 

 

 

 

その先の交差点に設置された看板は、「全面通行止」と更に強い表現になっていた。

 

福島県の「交通規制情報」によると「10月中旬解除予定」とあるが、

復旧工事をしている様子は感じられない。 (筆者注:執筆当時の情報です)

優先順位が低くて、着工が後回しにされているのだろうか。

 

 

 

東側の破損状況を見るべく下に回ると、

やはりこちら側のアンカーバーも壊れていた。

 

そしてここには銘板が二つ取り付けられていた。

笠石跨線橋にはパーツそれぞれに銘板があったので、時系列に並べてみよう。

 

 

 


 

 

 

 

 

@

県の土木事務所が設置した通行規制看板にはいずれも「笠石跨線橋」とあったが、

銘板は全て「笠石高架橋」で統一されていた。

 

最初に完成したのは東側の橋台で、1991年3月のことであった。

西側橋台には銘板がないのだが、

これは三柏工業(矢吹町)が一緒に完成させたからだろう。

 

A

橋脚は、その1年後に完成した。

数本ある橋脚のうち、銘板があるのは一本だけである。

おそらく加地和組(須賀川市)が全て建設したのであろう。

 

以上、下部構造は地元企業による施工であった。

 

 

B

2本の長い桁のうち東側は、それから21ヵ月後と、だいぶ間を空けて完成。

橋台・橋脚の養生期間を挟んだからだろうか。

こちらの施工はドーピー建設工業(札幌市)。

 

 

 

 

C

残る1本は、それからわずか3ヵ月後に完成している。

施工は西側桁とは異なり、ピー・エス(ピー・エス三菱のことか?)。

 

なお、線路上部には短い桁が架かるが、銘板の有無は確認不能。

この2社のどちらか、おそらくは後者であろう。

 

 

D

1991年以来、毎年少しずつ進捗していた架橋工事は1995年3月、ついに竣工。

同時に、鏡石町長名でこのような完成記念銘板も設置された。

(しかし残念ながら加地和組「和」が抜けてしまっている)

このような"記念碑"的なものが設置されるのは、

戦後に完成した橋では珍しいことなのではないだろうか。

県道工事であるが、地元鏡石町にとっては最大級の公共事業だったのであろう。

その橋がもう何ヶ月も通行止のまま放置されているのだ。

   

ちなみに、隣接する歩道橋の施工は、

鉄橋でおなじみの協三工業(福島市)であった。

 

 

 

 

 

 


 

最後に、笠石跨線橋周辺の被災状況も合わせて紹介しておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<A地点>

鏡石駅から少し南に進んだところで、異様な光景を目にした。

車道はそれほどでもないのに、歩道部分だけが激しく波打っている。

 

 

 

 

 

歩道に敷かれたレンガを突き破って浮き出ているのは、

地下に設置された雨水貯水槽であった。

公園との境界にある花壇ごと、50cmほど持ち上げている。

 

 

 

 

 


そのすぐ南側で見た二階建てアパート。

一階部分が傾いて平行四辺形になってしまっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

裏側に回ると窓が開けっ放しになっており、室内が丸見えになっていた。

すでに全世帯とも退去済みなのだろう。

慌しい引越しだったらしく、まだ生活の温もりが残っている。

 

垂直な部分が全くない部屋。

地震発生の瞬間は、さぞかし怖かっただろうな・・・。

 

 

10日後に通りかかったら、解体作業が始まっていた。

 

 

 

 

 

 

 


<B地点>

溜め池の脇を通る農道が、すだれのようにズタズタになっていた。

 

 

 

 

 

 

その奥でも陥没している。

 

 

 

 

 

 

 


<C地点>

県の近代化土木遺産にも指定されている高架水路の現状を確認すべく、

岩瀬牧場近くの鳥見山公園にクルマを止めた。

公園の駐車場は震災で生じたがれきの一時保管場所になっており、

広い駐車場は割れた瓦、コンクリやブロック、木材などで埋め尽くされていた。

 

 

 

 

 

 

参考写真

 

 

 

 

この高架水路は、ORJの56号(2010年12月)の日本畜産専用軌道にて少しだけ触れた。

牧場に引水するためのU字溝が落下し、この惨状になっていた。

まるで現代芸術のように、片側だけ落ちた状態できれいに並んでいる。

 

復旧工事の準備のためなのか、支柱とU字溝に赤いスプレーでナンバリングされていた。

 

 

 


ついでに、その高架水路の水源である羽鳥ダムにも触れておこう。

堤体の一部が破損し、ブルーシートで覆われている。

ダムの上は県道37号白河羽鳥線だが、通行止になっている。

 

 

 

 

 

国策として明治初期から始まった矢吹ヶ原の開墾は、

羽鳥ダム湖から水を得ることで一応の完結を見たのだが、

震災によりダム堤体が損傷したため貯水が不可能になり、

また水路も各地で寸断されたため、水の供給が絶たれた。

 

すでに6月だと言うのに町内の水田は田植えができず、茶色のままであった。

 

 

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