福島市の石橋(3) 松川橋 (福島市)   2008.11        [TOP]  [寄り道]  [橋梁Web]

「日本の廃道」第37号に投稿した記事に加筆・修正を加えたものです。


 
     

 < 町の立地と経済力 >  
   
 ・・・・ 奥州街道

 ・・・・ 陸羽街道 (明治の三島新道) 

 ・・・・ 板谷街道 (至・米沢)

 ・・・・ 相馬街道

 (一行空け)

 ・・・・ 松川駅開業に伴う新道

  短冊状に発達した街村が街道に沿って延々と伸びている。 大きな宿場であったことが伺える。

  松川町は福島市の南端に位置し、江戸時代には八丁目宿という奥州街道の宿場町であった。
  北は福島藩、南は二本松藩という大きな城下町の中間地点にあり、
  また、米沢相馬に通じる街道の交差点ということもあって、大変栄えていた。
  水原川(当時の名は松川)という水源にも恵まれ、耕作にも適した土地であったため、経済力のある豪農・富商が誕生していた。
  しかも、この辺りは明治維新の戦火を免れたため、彼らは財産を蓄えたまま明治時代を迎えたものと思われる。

   
町の南部を横切る水原川には江戸時代まで板橋が架けられていたが、

増水の度に流されてしまうような脆弱な橋であった。

しかし明治18年(1885)、ここに石橋が架けられる。

時期から考えて、この架橋も当時福島県令であった三島通庸の強力な後押しによる

事業のように思われがちだが、意外なことに彼は消極的であったらしい。

これについては後で述べる。

水原川の旧水路。河川改修前は西光寺の南側を流れていた。

 

松川橋を南側の路上から見る。

道路が盛り上がっている様子がお判りだろうか。

太鼓橋の形状を想像させる光景である。

 

 

 

 

下流である東側から見た松川橋。

横から見るとそれほど膨らんでいるようには見えない。

水面にも映る赤屋根は西光寺である。

 

 

 

 

 

120年以上も前に架けられたのに今も現役で、

しかも未だに13tonもの重量に耐えうる明治の石橋。

実用品として優れたコストパフォーマンスであると言えよう。

 

 

 

 

 

欄干となる各パーツの上部には等しく4つの穴が開いている。

当時は針金で固定でもしていたのだろうか。

穴はそれほど深くはないように見えたが・・・。

 

現在は鉄筋かボルトで固定していると思われる。

 

 

 

 

 

南東の親柱。

「松川橋」と大きく彫られている。

途中で折れてしまっている点が惜しまれる。

 

 

 

 

 

 

 

南西の親柱。

現在では小さく書かれることが多い竣工年だが、

橋名と同じように大きく「明治十八年八月」と彫られている。

 

 

 

 

 

 

 

北西の親柱。

平仮名で「まつかわはし」だと思われる。

「は」の下部と最後の「し」がアスファルトに埋もれて読めないが、

これはアーチ橋独特の勾配を緩和する目的で、

中央は薄く、両端は厚くアスファルトを敷いたためと思われる。

 

松川橋各親柱の文字は、奥に見える西光寺住職であった平林宥京氏によるものとのこと。

 

 

 

最後に北東の親柱であるが、ここには何も書かれてないと思っていた。

しかし、かつて八丁目宿で本陣を務めた櫻内家の子孫である

櫻内一宏氏の著作「奥州街道 八丁目宿」によると、

ここにも文字が彫られているらしい。

 

 

 

 

花崗岩独特の模様とコケによりほとんど読み取れないのだが、

なんとか「工事」の二文字だけが視認できた。

よって上記の本より引用させて頂く。

       

筆者注

右工事担当福島県八等出仕   原口祐之   県の工事掛 (信夫橋の擬宝珠にも名あり) 訂正

〃     九等雇 

  中桐有三  

〃  

信夫松川村外四ヶ村戸長   杉内省三郎   八丁目宿を構成する三ヶ村のひとつ、鼓ヶ岡村の名主
    尾形有蔵    
    鈴木忠兵衛    
    浅井吉五郎    
    丹野 徳    
職工 田村郡三春町   松本亀吉   三春は今でも「職人の町」として知られる

 

  ここに「福島県令 三島通庸」の文字はない。
  信夫郡長の名もなく、筆頭にあるのは係長クラスの役人である。
  なぜだろうか?
  前出の「八丁目宿」「松川の先駆者たち」(阿部佐著)に、松川橋架設の経緯について少し触れられている。
  二誌を合わせて要約すると、
   
  陸羽街道の大規模改修(明治17年(1884)9月起工)の一環として、信夫橋が十三連の石橋に架け替えられることが決定。
  それを知った元県議で松川村戸長の杉内省三郎が県庁に何度も出向き、水原川への永久橋架設の請願をしたが許可されなかった。
  しかし土下座までして懇願したため、三島県令もその熱意に感動してついに認可した、と伝えられている。
  許可の条件は建設費と労働力の地元負担で、材料である石の切り出し、運搬などは各戸から2、3人ずつ出して行われた。
   
  これがあの土木県令の対応か? という予想外の冷淡ぶりがなんとも不可解であるが、その理由は不明である。
  県予算からは出せないから反対したけど全部自分でやるならやってもいいよ、と言うことだろうか。
  松川地区に自力で架橋が可能なだけの経済力があったことは先に述べた通りである。
  こうして松川橋は無事完成し、明治18年10月10日には盛大な渡橋式が行われたという。
  自分たちで作った橋を踏みしめ渡った松川の人々の感慨は、いかばかりであっただろうか。
   

前述の通り、水原川は昭和40年(1965)の改修により流路が変更されている。

その工事によって「陸」に取り残された松川橋は不用になるはずであった。

橋は撤去され、旧流路は埋め立てられるのが通常の処置である。

しかし松川橋は残り、その下には今も水が流れている。

おそらくは残すことを前提に流路変更工事が始まったのであろう。

実は、これまでも何度となく架け替えの「危機」に見舞われてきたが、

地元の反対により生き延びてきたのだと言う。

それほど地元の人々に愛され、また松川町の象徴となっていたのだろう。

   

旧流路の上流側。

水原川に設置された堰から引水し、

暗渠となった旧流路を経て、西光寺の南側をぐるりと流れて行く。

水路沿いには歩道があり、ベンチも設置されている。

 

 

 

 

石橋の下を通った水はここから吸い込まれ、

堤防の下をくぐって再び水原川に戻される。

 

奥に見える小さな水門は農業用水の取水門で、

「祖先が作った橋に水を流したい」という住民の素直な願望をかなえると同時に、

実用的な側面も兼ね備えているのだった。

この発想は素晴らしいと思う。

 


「八丁目宿」によると、松川橋の石材を切り出した場所は、

松川町の東隣にある浅川町五斗内で、その「薬師堂の比丘尼石」付近に

そのことを記した石碑があるという。

地形図や住宅地図を参考に、それらしき場所に行ってみる。

巨岩が露出しているこの辺りだろうか。

直線でも2.5km離れている。

 

妙見尊碑、不動尊像、地蔵像、庚申碑・・・。

いくら探してもそれらしいのが見つからない。

 

後日福島市に問い合わせた所、なんと「八丁目宿」の著者に質問が転送され、

櫻内氏ご自身が現地を再調査してくださった結果が送られてきた。

なんと、「30年ほど前にはあったが現在は所在不明」との残念な回答であった。

石碑は今どこにあるのだろうか・・・。

   

 

今でも現役

 

 

 

 

 

 

 

側面図

 

「うつくしま土木建築歴史発見」より引用

 

 

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