松齢橋 (福島市)   2009.08        [TOP]  [寄り道]  [橋梁Web]

「日本の廃道」第42号に投稿した記事に加筆・修正を加えたものです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 


  江戸時代におけるこの周辺の状況を近視眼的に述べれば、
  福島城下と阿武隈川を挟んで対岸にある渡利村を結ぶルートであり、それほど重要でもなさそうに思えるが、
  広域的に見ると中通りにある福島と、浜通りの相馬氏中村城下を結ぶ最短ルートであり、すなわち"塩の道"であることを示している。
  各所にあった塩の道は近代になっても重要路線であることに変わりはなく、
  多少のルート変更はあるものの、国道や県道に昇格したものが多い。
  この橋も一時は国道として機能していたことがあるくらいだ。
  そんな橋の変遷と、橋に関わる史跡を追ってみたい。
   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                 
  江戸時代まで     渡し舟にて渡河。信夫の渡しと呼ばれていた。増水時は事故が多く、危険であった        
  明治4年     7月、洪水の中、強引に渡ろうとした舟が転覆。40人中18人が死亡        
  明治15年     渡利村の有志が福島県令三島通庸に架橋を請願。5月起工        
  明治16年     1月、舟橋が完成。三島県令により松齢橋と命名される     初代 舟橋 119m
        (非常に便利になったが、洪水の度に損傷、流出を繰り返した)        
  明治41年 1908   ついに木橋が架けられる    二代目 木橋 154m
        洪水により流出        
  明治43年 1910   再び木橋を建設したが、すぐに流されてしまう     木橋  
  明治44年 1911   再び舟橋に戻した橋が完成する。大正3年まで使っていた。(T3以降は渡し舟に逆戻りか)   三代目 舟橋  
  大正10年 1921   渡利に浄水場を設置し、導水のため阿武隈川に水道橋を建設することが決定        
  大正12年 1923   12月、起工。工事中に度々設計変更があったという        
  大正14年 1925   竣工。橋の竣工式と上水道の通水式を併せて挙行    四代目 鉄橋 175m
                 

 


 

<渡利の春日神社>

渡利村は阿武隈川の氾濫原をエリアとする寒村で、

たびたび洪水に見舞われ、砂地の痩せた土壌だったため稲作には向かない地区だった。

現在のように宅地化が進んだのは大正時代に現松齢橋が完成してからのことで、

明治まではほとんど人家がなかったと言う。

 

 

 

 

その氾濫原の東端ある方形の台地が村の中心地で、

かつては住宅の他、村役場や小学校もあった。

その高台の東側に接して春日山があり、そこに春日神社がある。

中世には亘理氏(わたり)の山城があったと言う。

右奥に見えているのは蚕祖神社で、弁天山に配水池を建設した際、

ここに遷座されたものらしい。

   

本殿の左側に祠や石碑が並んでいるが、

その中央、ひときわ大きいのが「信夫渡碑」である。

伊達郡高子村の豪農・熊坂家に生まれた儒学者・熊坂定邦(号・熊坂台州)が、

天明7年(1787)に建立したものと言われている。

 

 

 

 

碑文には"渡村"や信夫の渡しの概略と、平安時代の歌人・能因が詠んだ、

浅茅原 荒れたる宿は むかし見し 人を信夫の 渡なりけり

などの歌が刻まれている。

 

 

 

右から「信夫渡碑」

 

春日神社の境内には数十本もの杉の大木があったが、

初代松齢橋を作る際に橋材として伐採されてしまったと言う。

残っているのはこの一本のみになってしまい、

後に福島市内最大の杉として市の天然記念物に指定された。

しかし平成20年(2008)に亀裂が発見され、倒れる恐れが出たため、

記念物の指定を解除後、上部が切断されてしまう。

その結果、30数mあったものが10mになってしまった。

 

元記念物「春日神社の大杉」

 


<渡し場への道>

信夫の渡しに至る道が今も渡利側に残っている。

県道309号岡部渡利線から北西に延びる細くて曲がった道。

これが渡し場に通じる道だった。

 

この辺りの小字を舟場という。

 

 

 

細道に入ったところで振り返る。

特に制限標識などはない。

 

幅員は江戸時代から変わってないのではなかろうか。

 

 

 

 

生垣に囲まれた旧家は、

表通りから奥に見える立木のところまで続いていた。

かなり大きな敷地である。

 

 

 

 

 

その立木の下に石碑が肩を並べている。

件の旧家の住居の方を向いているので、背面からしか撮れないのが残念だが、

これらは船着場付近にあったものを、河川改修の際、

ここに移設したものだという。

 

 

 

 

さらに進むと奥に堤防が見えてきた。

 

それより・・・これらのクルマはどこから入ったのだ?

この細道が車両通行可であることに驚かされる。

 

 

 

 

江戸時代の道の痕跡はこの辺りまでだろうか。

道は堤防の坂を上って行く。

 

ここに渡利地区歴史研究会が設置した説明板がある。

「舟場渡船場」と呼ばれていたのだろうか。

渡船場がある場所がそのまま舟場という地名になり、

舟で渡って行く地区が渡利村なわけである。

 

 

 

拡大

 

 

 

 

堤防上から渡船場道を振り返る。

クルマが出入りできるのはこちら側限定かも知れない。

 

 

 

 

 

 

そして、渡船場道を詰めた堤防の上からは松齢橋が見える。

渡し舟は橋のやや下流(右側)辺りを往復していたらしい。

 

対岸には福島市舟場町という地名が残っている。

つまり渡し場の両岸とも舟場という地名なのである。

よほど地域に密着した渡しだったのであろう。

 

 


<七社宮神社>

渡船場道が接する県道309号岡部渡利線の一本南に、

県道308号山口渡利線という道がある。

その県道沿いに七社宮神社(しちしゃのみや)という小さな神社がある。

 

道路向かいにあった駄菓子屋は、もうなくなっていた。

 

 

 

狭い境内の北西に、大きな石碑が二基並んでいる。

これらは初代松齢橋の完成を記念したもので、

手前の大きいのが主碑、左の小さいのは副碑である。

 

 

 

 

 

明治16年12月の銘がある副碑には、松齢橋の建設に尽力した人々の名が刻まれている。

だが意外なことに、ここに福島県令・三島通庸の名前はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし碑文の最後尾に三島に繋がる人物の名前を見つけた。

信夫郡長 矢部潔

彼は三島と同じ旧薩摩藩士だったが、三島県令に呼ばれて福島で警官をしていた。

そこで際立った成果を上げたのであろう。

やがて郡長に大抜擢されたのである。

 

ここで言う"成果"とは、三島の政敵である自由党員を片っ端から逮捕し、

過酷な拷問を加え、政治活動不能な状態に追い込むことを意味する。

 

 

     
 
     
  「松齢橋碑」とある主碑の文面には、橋にまつわる詳細な歴史が刻まれている。

・福島から相馬に向かうには必ず阿武隈川を渡らねばならず、信夫の渡しと言った。

・康安時代(1361〜62)に洪水があり、流路が渡利村の東側から西側に変わった。

・宝暦7年(1757)、増水した川を渡ろうとした舟が転覆し9人が溺死した。

・明治4年(1871)、また舟が転覆し18人もの溺死者が出た。

・福島や渡利の有志が三島県令に舟橋の設置を請願。

・県令の賛同を得て明治15年5月に起工、翌年1月に竣工した。

・両岸に柱を立てそれを鉄線で結び、小舟15隻を並べて鉄線に繋ぎ、その上に橋脚・橋桁を載せた。

・費用は7000円掛ったが、周辺住民からの義捐金にて賄った。

・落成式には三島県令も出席し、松齢橋と命名した。

   

副碑にはなかった三島の名前が、主碑には出てくるのだ。

"縣令三島君"とあるのは言うまでもなく三島通庸のことで、

現代の感覚だと「君」呼ばわりは軽い感じがするが、明治時代の「君」は敬称だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

境内に設置された説明板。

古いが金属製の本格的なものである。

これによると「松齢橋碑」の設置は明治16年12月とある。

竣工と同じ年に早くも記念碑を建ててしまうほどの熱気があった、ということか。

 

 

 

 


     
  <初代>  明治16年(1883) 119m

こうして完成した初代松齢橋であるが、残念ながら写真がない。

少なくとも私は見つけられなかった。

しかし、なんとか錦絵を見つけることができた。

「福島縣下岩代國福嶋町境界大隈川紅葉山及舟橋真景之圖」とある。

"大隈川"は阿武隈川、“紅葉山”は福島城二の丸にあった庭園で、

明治になって公園として開放されたところである。

左奥には木橋だった初代信夫橋が見える。(ORJ2009年4月号参照)

     
     
  "舟橋"の部分を拡大する。

碑文でも触れている「鉄線」や、それを支える主塔も描かれている。

写真並みに精緻で情報量の多い錦絵なので、

橋台が石を積んだ本格的なものであったこともわかる。

ちゃんとスペックまで添えてあり、

長サ六十五間三尺

横巾二間壱尺

十五艘

となかなか詳細である。

手前が渡利村で、袂には橋番所のような建物が見える。

初代松齢橋は洪水の度に破損するような脆い橋だったが、

修理も容易だったらしく明治後期まで使われ続けた。

「文化福島」より転載    
     
  [追補]

恥ずかしながら、公開直後に初代の写真を見つけました。

非常に不鮮明なのですが、やはり実写真は貴重なので公開します。

奥に見えるのは福島城の跡地に建てられた県の施設群である。

「福島市史」より転載    
     

   

「明治大正昭和 ふるさとの思い出 福島」より転載

   
     

 
  <二代目>  明治41年(1908) 154m

そんな延命もやがて限界と感じたのだろうか。

明治41年(1908)、県から多額の補助を受けて、ついに木橋が架けられた。

当時の住民にとっては待望の架橋だったと思われるが、写真を見ても分るように、

阿武隈川という大河に架ける橋としてはいかにも華奢である。

案の定、2年ほどで流出してしまう。

明治43年に再び県から補助を受けて木橋を架けたが、またすぐに流された。

写真に頑丈そうな石積みの橋台が写っているが、現存はしていない。

初代のために作られた橋台の流用かも知れない。

「福島市水道六十年史」より転載    
     

 
  <三代目>  明治44年(1911)

2回連続で木橋が流されて気持ちが折れたのか、あるいは財政難だったのか、

次の松齢橋は初代のような舟橋に戻された。

ただし、橋桁は初代よりもかなり高い橋脚の上に乗っている。

福島市史によると「大正3年まで使用された」とあるが、

その年、この舟橋に何が起こったのか、

大正14年に現松齢橋が竣工するまでの間はどうしていたのか、の記述はない。

また江戸時代のように小舟で渡っていたのだろうか?

「目で見る福島・伊達の100年」より転載    
     

 
  <四代目>  大正14年(1925) 175.8m

松齢橋が永久橋になったのは、大正も末期になってからであった。

上水道工事に伴い、水道橋兼用として建設された。

形式は「4連下路式ボウストリングプラットトラス」、と長い。

側面形がボウ(弓)とストリング(弦)の形状をしているのは分るが、

これってプラット(斜材が逆ハの字)だろうか?

そしてトラス(三角形)橋なのだろうか?

橋桁を垂直材で吊っているのでランガー桁橋だと思うが、

よく見れば垂直材が吊っているのは水道管が貫く横桁であって、

主桁はその上に載っかっているだけのようだ。

松齢橋は見た目以上に“水道橋”であることを意識して設計されていたのだ。

近代化土木遺産:ランクB

   

 


<佛眼寺前の道路改修碑>

架けては流され、また架けては落ちるような歴代の松齢橋であったが、

"橋が架かった" という現実が渡利地区に与えた影響は大きかったようである。

 

松齢橋から1kmほど離れたところに佛眼寺というお寺があり、その西側の辻に大きな石碑がある。

 

 

 

 

 

 

これは大正5年(1916)建立の「道路改修碑」で、その碑文には、

天保11年(1840)に本堂他が焼失。

その再建に併せて寺に通じる道の改修も計画したが、これは叶わなかった。

しかしその遺志を継いだ住職と有志が明治25年(1892)、

200mの直線道路を完成させた。

それによって松齢橋を渡り、火葬場や岡山(佛眼寺の北方)への往来が便利になった。

というような事が書いてある。  たぶん。

 

明治になって松齢橋ができたため、人や牛馬の往来が激増したのだろうか。

民間に資本の蓄積が進んだという背景もあろう。

50年以上放置していた道路改修計画が再燃したらしいことが伺える。

 

 

 

 

 

 

 


<水道道路>

さて、今回松齢橋を訪れた際、真っ先に見に行ったのは橋の裏側だった。

河川敷には遊歩道が設置されており、橋の下へは容易に行けるようになっている。

 

橋の下を通る太いパイプ ---------水道管である。

これが見たかったのだ。

現松齢橋の成立に深く関わっている設備である。

 

 

水道管は今でも現役のようで、しきりに水滴が落ちていた。

実はこの時、「あれ? もう渡利浄水場は廃止されて、水は流れてないはずだが?」

と、この漏水を不思議に思ったのだが、後で勘違いと気付いて苦笑した。

これについては後述する。

 

 

 

 


  明治になって工業化が進むと都市に人口が集中し始め、福島でも工場や住民用の水の不足が深刻化してきた。
  大正になり、この問題を解決すべく渡利村に浄水場を設置、弁天山山頂に設けた配水池までポンプで揚げ、
  その落差を利用して福島町内に配水する計画が具体化した。
  阿武隈川に水道橋を架ける必要が出てくるが、この水道橋を拡大し、車道橋としても使えるようにしたのが現松齢橋なのである。
   
  時は流れて平成17年(2005)、福島市の北部を流れる摺上川にダムが完成し、そこに浄水場が併設された。
  ここからの配水が市内全域に行き渡ったため、平成19年(2007)渡利浄水場はその役目を終えた。
  よって松齢橋の水道橋としても使命も終了し、へたすると水道管も撤去されてしまうのではなかろうか、と危惧していたのだが、
  よく考えれば(いや、よく考えなくても)、渡利浄水場→松齢橋→福島市 だったのが、渡利←松齢橋←摺上浄水場 と、
  水が流れる方向が逆転しただけで、相変わらず松齢橋は水路としての重役を負っているのだった。

弁天山の麓から山頂の配水池方面を望む。

足元の道路の地下に、水道管が埋まっている。

 

 

 

 

 

 

進入禁止

水道管の電磁流量計室ですので諸車の進入を禁止します。

 

つまり、地下に水道局の設備があるのでクルマは入るな、停めるな。

ということか。

ここには既に水は流れてないので、この施設はすでに廃されてるかも知れない。

 

 

振り返ると狭い直線道路が延びている。

これが松齢橋に至る水道道路で、地下には水道管が通っている。

 

 

 

 

 

 

当時の技術は開削工法しかなかったので、水道管は極めて浅い地下に埋設された。

それを保護するため、現在でも通行するクルマの重量が制限されている。

 

 

 

 

 

 

 

 


<現在の松齢橋>

工事中の松齢橋。

違和感を感じるのは、見慣れたクレーン車など重機の姿がないからだろうか。

実はこれ、橋の上部構造を構成するパーツがみな小さいことに起因する。

道路事情の悪い地方への部品輸送や、大型の工作機械がなくても建設できるよう、

当初から意図的に設計されたものと思われる。

「福島市水道六十年史」より転載

 

   
  資料を読み進めてゆく過程で、気になる記述を見つけた。
  「松齢橋と共に浄水場や配水池も同時に建設するという大工事だったため、これらの資材を運搬するための専用鉄道が敷設された
  とあったのだ。
  おおっ!工事軌道ですか! と一瞬喜んだが、それは福島駅の北側に設けられていた検査所まで敷かれた専用側線のことで、
  現曽根田駅付近まで700mほどのものだった。 ああ、残念・・・。
   

 

渡利側から望む松齢橋の全景。

対岸の舟場町は国道13号線の起点である。

この橋が完成した当時、栗子峠にある2本の隧道はまだ素掘りだったと思うと感慨深い。

それほどこの松齢橋は古いのだ。

 

 

 

 

"松齢橋は4連のアーチ橋"と当たり前のように思ってきたが、

一箇所だけスパンが短いガーダーになっていることに、今回初めて気が付いた。

そこにちょっとだけ設計者の"顔"が見えた気がした。

 

設計は東京の新橋、京橋、万世橋、両国橋、日本橋などを手掛けた金井彦三郎である。

 

 

       
  松齢橋は起工後に数度の設計変更があったと言う。

その中で最も大きな変更と思われるのが橋桁下面を通る水道管で、

当初は中央に一本だけ通す予定だった。

しかし将来の人口増を見込み、予備としてもう一本設置するように変更された。

"水"という重量物が2倍になれば橋への荷重が大幅に増えるわけだが、

それに対応して工事中に設計変更した(また、それが可能だった)とは興味深い。

 
       

現在、松齢橋は一方通行になっている。

国道4号線と松齢橋の渋滞を一挙に解決するため、後にバイパス道が開通したのだが、

その時、松齢橋の代わりに架けられたのが、左奥に見える大仏橋(おさらぎ)である。

 

すぐ上流に代替橋が架けられたにも関わらず、この大正時代の橋が撤去されなかったのは、

水道橋としての大役も負っているからであろう。

市民による保護運動もあったと聞く。

 

「福島県土木史」によると、

「昭和13年(1938)に発生した地震により4本の電柱が折損し、修繕した」とある。

これはかすかな記憶&妄想なのだが、地震で折損→実用的な照明を設置→

竣工時にあったレトロなデザインの照明を復元・・・・だった気がする。

その復元された大正ロマン溢れる照明がこれである。

 

 

 

 

 

親柱には「大正14年12月竣工」とあるが、

「福島市水道六十年史」では5月、「福島県土木史」では6月とはっきりしない。

 

 

 

 

 

 

 

近くで見る松齢橋は、いかにも古風な構造をしている。

実に細かいパーツがボルトやリベットで連結され、

大きな構造物を形成している。

 

今後このような鉄橋が作られることはないだろうなあ。

 

 

 

ここに写っている範囲だけでも何個のパーツがあるだろうか。

これらが外国からの輸入ではなく、国産であることも誇らしい。

肝心の銘板は取り外されて保管されているとのことで、詳細は不明。

 

そろそろ何度目かのペンキの塗り替え時期だろうか。

錆が目立っているようだ。

 

 

橋の本体はまだまだ元気のようだが、

後付けと思われる欄干の方がもう限界である。

錆びて欠落した部分を足場用の鉄パイプで補強してある。

このような補修箇所は他にも何箇所か見られた。

 

 

 

 

橋脚の上面を撮ったつもりだったのだが、意外なものも写っていた。

アーチって相互にボルトで結合されてないどころか、接触すらしてないんだね。

 

 

 

 

 

 

橋の上から信夫の渡しがあった付近を見下ろす。

渡し場跡の残存など望むべくもない。

 

 

 

 

 

 

現在の重量制限は13トン。

この数字で思い出すのは同じ福島市にあり、

ORJ2009年5月号(第37号)でも紹介した石橋「松川橋」である。

明治18年にできた石橋と、大正14年にできた鉄橋の重量制限が同じなのである。

 

 

 

 

 

 


       
   
  松川橋   松齢橋
       

北岸から見る松齢橋全景。

奥に見えるのが代替として架けられた大仏橋(おさらぎばし)で、

普通のワーレントラス橋であるが、平面形が平行四辺形である。

 

 

 

 

 

北岸は阿武隈川がカーブする外側にあたるため、流れに削られて崖になっている。

この流れは、かつて福島城外郭の一部を削り取ったこともある暴れん坊だ。

 

石積みの護岸はこの一箇所にだけ見られるのだが、どうも浮いた存在に見える。

明治41年に完成した二代目に橋台に似ているのだが、高さがまるで違う。

この構造物はどんな役割を担っているのだろうか。

 

 

 

 

橋台上部を拡大。

コンクリート製だが、各部が切り石で補強されている。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

「福島市今昔写真帖」より転載

 


     
二代目 三代目 四代目
     

      [TOP]  [寄り道]  [橋梁Web]