福島市の石橋(2) 信夫橋 (福島市)   2008.10        [TOP]  [寄り道]  [橋梁Web]

「日本の廃道」第36号に投稿した記事に加筆・修正を加えたものです。


 

 

(表紙)

 

 

 

 

 

 


  火山地帯を水源とするためであろう、酸性を帯びた川は「酸川(すかわ)と呼ばれ、いつの頃からか「須川」と書かれるようになった。
  今回紹介する信夫橋は、その須川に架けられたものであるが、昭和39年(1964)に改正された河川法により「荒川」と改称された。
  よって、本稿では荒川で統一する。
   
  奥州街道を北上し、荒川を渡ると福島城下に入る。
  江戸時代にはここに橋が架けられたこともあり「須川橋」と呼ばれたが、
  洪水で流されてからは浅瀬に板を渡したり、あるいは舟で往来していた。
  これを「須川の渡し」と言った。
   

<初代>

明治になり、安場保和が県令を勤めていた明治7年(1874)に木橋が架けられた。

この橋が「信夫橋」と命名され、初代となる。

福島町内の常光寺の他、6箇所の寺の境内から杉の大木を切り出して橋の材料とした。

建設費の大半は寄付によるものだったという。

全長は108間(約194m)で、当時県内で最も長い橋であった。

(「福島県直轄国道改修史」には「40間余」とあるが、いくら浅瀬を選んでも72mでは対岸に届くまい)

東京にある日本橋に似た美しい橋だったことから錦絵にも描かれ、福島の名所とされたが、残念なことに写真は現存していない。

しかし、明治16年(1883)に発生した大洪水のため、あえなく流出してしまう。

 

〜 錦絵に描かれた初代・信夫橋 〜

「奥州御巡幸図会 福島縣下信夫橋之図」

明治天皇の東北巡幸は明治9年と14年の2回行われたが、

この絵は1回目であることが左端の印からわかる。

奥が福島の町並みで、背後には信夫山がそびえる。

左に林立する柱は流木避けであろう。

「文化福島」より転載

   

<二代目>

初代流出時に県知事をしていたのが、あの土木県令・三島通庸であった。

陸羽街道改修の一環として、彼はここに石橋を架けるよう命じるのだが、

すぐに栃木県令兼任となって福島から去っていった。

 

建設費の7割ほどは県から出たが、残りは「寄付」という名の強制収用であった。

断ると逮捕され拷問されたのだ。

 

3ヵ年計画で明治17年に起工したが、

翌年の明治18年(1885)7月には早々と完成してしまった。

これが二代目・信夫橋である。

現信夫橋南側にある説明板には、当時の写真がプリントされている。

全長193m、幅員7.2mの長大な石アーチ橋であった。

13径間だったため「十三眼鏡橋」とも呼ばれていた。

 

 

二代目・信夫橋は福島町民自慢の橋であったが、明治23年(1890)の洪水で一部が破損。

さらに翌年の洪水のため北側の5径間が崩落し、ついに使用不能となってしまう。

歴代信夫橋の中で最も短命で、わずか6年の命であった。

 

この二代目の親柱が、今も各所にて保存・展示されている。

現信夫橋の北側には「信夫橋」と銘のある石柱が設置されており、

福島県庁前の幼稚園内にあるものには「志のふはし」と彫ってある。

残念ながら、どちらにも説明板などは設置されていない。

 

 

福島県庁前の幼稚園を訪れる。

直径は62cmあり、高さは擬宝珠を含めると3m12cmもある大きな親柱であったが、

現在擬宝珠はなく、石柱部だけが保存されている。

 

他の銘のない親柱も、市内各所の学校や神社に移されて残っているという。

 

 

 

 

 

同幼稚園内に保存されている擬宝珠。

奥に見えるのが上記の親柱。

 

 

 

 

 

 

〜 錦絵に描かれた二代目・信夫橋 〜

「福嶋縣岩代國福島町信夫橋真景図」

橋の上にはすでに電線が走っている。

右上に見える「舟橋」とは松齢橋のことで、

これも三島県令の命で架けられ、彼自身が命名している。

阿武隈川を遡ってくる蒸気船も珍しい。

 

 


  < 緊急追加! >
  二代目信夫橋の親柱(石柱)はコンプしたものと思い込んでいたのだが、「福島市史4」にとんでもない情報が載っていた。
  市史は昭和49年(1974)に発行されており、とっくの昔に公表されていて単に私が知らないだけだったのであるが、
  「道路」や「建築」の項目ではなく、「民衆の生活」ページに載っていたので今まで気付くかなかった。
   
  さて、それによると「中央公民館」にも擬宝珠が保管されており、それはなんと銅製であると言うのだ。
  しかも市内各所に散在しているともある。
  これは行かねばなるまい!

   
35年も前の情報なので、まずは電話にて現存するかどうかを確認。

公民館は「中央学習センター」と名を変えていたが、今でも保管しているとのこと。

数日後に訪問し、職員の方に案内していただくと、

「それ」は廊下の突き当たりの薄暗い一角に鎮座していた。

どうやら文化財として大切にされていると言うわけではないようだ。

逆にじゃまにされているような空気が漂っていて、なんとも悲しい・・・。

   
う〜ん、でかいな。

鋳造とのことだが、表面は大変滑らかである。

全体にへこみや傷があり、砂利道を転がされたような痕跡もある。

また、下端の縁は大きく欠損していて痛々しい。

まあ、残っているだけでありがたい。

   
廊下に座り込んで細部を見ると、そこに三島の名前を見つける。

  正五位勲三等 三島通庸

「土木県令」の異名を持つ彼であるが、福島県では悪名高い存在ゆえ、

実績に相反してその名を当時の道路建造物や記念碑に見ることはまずない。

三島が関わった物件で名が残っているものは、これが県内唯一なのではなかろうか。

「明治十八年六月」とは竣工の一ヶ月前になるが、すでに三島は福島を去り、

土木局長になっている。

この時福島県令だったのは、隣の赤司欽一である。


  市史には「銅製擬宝珠は複数ある」とあったが、結局これ以外の所在を確認することはできなかった。
  残り7つの擬宝珠は、戦時中に供出されてしまった可能性もある。
  多数の名が刻まれ、記念碑的意味合いも兼ねていたこの1つだけは、どうにか戦争の道具になることを免れたのだろうか。
  現存している石製擬宝珠は、その代わりとして戦後に作られたコンクリ製レプリカなのかも知れない。
  "各所に散在している"のはこの石製擬宝珠のことを指しているかも知れない。

現物から型を取ってセメントでも流したか

 
   

     

擬宝珠に彫られた名前と解説

 
        会津新道碑
  正五位勲三等 三島通庸 旧薩摩藩士 言わずと知れた「土木県令」。山形、福島、栃木の県令を歴任した
  従五位 赤司欽一 旧佐賀藩士 竣工時の県令で三島の後任  
  従六位 村上楯朝 旧熊本藩士 県少書記官 三島が酒田に赴任の際、東京府庁から引き抜いた
  従七位 柴山景綱 旧薩摩藩士 三島の義兄 伊達郡長、信夫郡長を歴任した  
    島崎友連 旧熊本藩士 南会津郡長  
    吉田 扶 旧二本松藩士 初代伊達郡長  
    海江田綱範 旧薩摩藩士 県土木課
    城 親良    
    中山高明 県土木課長 山形では北村山郡長だった
    沼澤七郎 旧会津藩士 河沼郡長 伊達郡長 新撰組隊士・斉藤一の三男を養子にした
    小山満峻 旧会津藩士 兵事課長心得  
    佐々木奉光 旧上ノ山藩士 元山形県土木係(刈安新道、関山新道で工事主任)
    諸橋民三 市史では「民二」になっているがこれは誤記  
    高山久平 旧庄内藩士 県職員 養子は後の作家・高山樗牛(安積高校中退)  
    西 忠義 旧会津藩士 県職員 栃木県足利郡長、樺山郡長 長男は陸軍大将・西義一  
    竹尾高堅    
    牛尾方道    
    小林政敏    
  工事掛擔當 原口祐之 旧薩摩藩士 福島県庁の工事掛 (松川橋親柱にも名あり) 「擔當」は「担当」の旧字  
    中桐有三 旧福島藩士 福島県庁の工事掛 (松川橋親柱にも名あり)  
   

空行

   
  石橋架設職工棟梁 木下代助    
  同世話人 粒米甚作    
    阿部次三郎    
  擬寶珠金物鋳造人 岡崎清作    
    東海林與四郎    
    大西茂三郎    
    永沢利吉    
         

[追記1]

親柱が比較的鮮明に写った写真を見つけたので転載させて頂く。

奥に県庁が見えないので北岸から撮影したものであろう。

13連アーチの石橋の威容を捉えた素晴らしい一葉だ。

 

ふくしま100年」より転載

 

巨大な親柱と黒光りする擬宝珠。

「志のふはし」のうち「志の」がなんとか読める。

 

 

 

 

 

 

 


  [追記2] 2018.09
  擬宝珠に名前が彫られた島崎友連のご子孫の方からメールを頂いた。
  ご先祖のことを調べるべく検索していたところ、このページがヒットしたようだ。
  読みは「ともつら」で、旧熊本藩士で間違いないとのこと。 明治維新後に上京して三島通庸に師事。その後福島県の官吏を長く勤めた。
  メールには「株と土地の売買で富を得た」とあるが、どうやら退官後に投資家になったらしい。
  子に仕事を継がせたかったが、女子しかなかったため長女に婿養子(氏名は不明)を取らせ、やがて念願の男子(島崎政夫)が誕生する。
  すると友連は、その男子(孫)を自分の子として養子に迎え、「不要」(メールにそうある)となった婿を追い出したとのこと。
  ちなみに、バツイチとなった長女は宮内庁大膳寮で明治天皇の毒見役をしていた前田為一郎なる人物と再婚した。
   
  友連は教育熱心で、政夫は慶応大学を2番の成績で卒業。英語・フランス語にも堪能だったとのこと。
  しかし商売には向かなかったようで、大恐慌や第二次世界大戦を経て株や土地をほとんど失った、とある。
  以上、ご子孫の許可を得て公開させて頂いた。
   

<三代目>

十三眼鏡橋が流出した後は仮設の木橋(写真下奥)で凌いでいたが、

明治27年(1894)、三代目・信夫橋の建設が決定する。

木鉄混合下路式トラス橋として明治30年(1897)3月に完成した。

桁が鉄製で、上部のトラスが木製というハイブリッド橋であった。

 

 

その後、老朽化に伴い、

上部の木製トラスを鉄製に交換する工事が、明治42年(1909)に行われている。

しかし、桁部分もしだいに腐食が進行したため丸太にて補強したが、

交通量の増加もあってこれ以上の使用は危険と判断され、

昭和5年(1930)に通行が禁止されてしまう。

 

 

三代目の遺構はほとんど残ってないが、

五基あった橋脚のうち、ひとつだけ現存している。

現信夫橋の下で今も荒川の流れに洗われている構造物がそれである。

中間が抜けているのは、最下部がアーチだったためである。

 

 

 

 

 

 

(右下、橋脚基部のアーチに注目)

 

[TOURより引用]

 

三代目の橋脚には、二代目に使われていたパーツが流用されたと伝えられている。

 

 

 

 

 

 

 


<四代目>

三代目の通行が禁止された翌年である昭和6年(1931)、

仮設の木橋(写真上奥)を上流に設置し、四代目の建設工事が始まった。

設計したのは増田淳という人で、東京帝大土木工学科を卒業後アメリカの設計事務所に入り、

15年間実績を積んだ後に帰国し、日本に事務所を開いていた。

 

 

 

 

 

その工事の様子が土木学会のデジタルアーカイブにて公開されている。

 

「工事中ノ新信夫橋 (拱環支保工)」

 

 

 

 

そして昭和7年(1932)12月、四代目・信夫橋が完成する。

その姿は石アーチ橋であった二代目の雄姿を踏襲したようなデザインとなった。

正式にはRCオープンスパンドレルの7連アーチ橋

これが現在の信夫橋である。

 

 

 

重厚なデザインの親柱。

完成当時にあった照明(上記)は、今風のものに交換されている。

 

 

 

 

 

 

北側の親柱の銘板の文字がなかなか古めかしい。

「志乃婦波し」、とある。

 

 

 

 

 

 

 

 

橋の完成後、日本は戦争に突入して行く。

戦時中に金属製の欄干は供出されてしまい、木製のもので代用していたが、

戦後の昭和27年(1952)、福島開催の第7回国体を契機とした改修工事の際、

金属製のものに替えられた。

デザインはオリンピックの五輪を表しているとのこと。

これは完成当初の復元であるというが、古写真を観察しても見当たらない。

 

 

信夫橋から荒川下流を眺めると、すぐ先で阿武隈川に合流していることが分かる。

洪水の多発地点である河川の合流点に架けられたのが、

歴代の信夫橋なのであった。

 

 

 

 

 

欄干やら合流点やらを見ながら橋を渡ると、

そこには「奥州街道」の標柱や、

福島宿の江戸口であったことを示す標識が設置されていた。

 

二代目信夫橋の親柱が保存・展示されているのも、この一角である。

 

 

北側の堤防上から信夫橋を望む。

残念ながら、現在多連アーチ橋独特の流麗な姿を見ることはできない。

昭和46年(1971)に車道の両側に歩道橋が増設されたためである。

その際、橋脚の拡幅も行われたが、石積み模様は踏襲された。

橋としての機能には関係ないが、これも二代目信夫橋を意識したものと思われる。

 

 

 

     
  つまり、6年という短命だったにも関わらず人々の印象に強く残ったのは、

三島が作らせた二代目アーチ橋だったと言うことだろうか。

実はこれも三島の計算であったという。

過酷な献金や労役を課しても、完成した物の造形が美しければ人々は納得し感謝する、

と読んだ上で十三連アーチにしたと言うのだ。

これを「さすが三島!人心掌握にも長けていらっしゃる」と取るか、

「そんな小賢しいこと考えてるから、たった6年で流されちまうんだ」と取るか。

この人物の評価は100年経っても定まらない。

     

 

歩道橋側面にある銘板。

 

 

 

 

 

スパンドレル(開腹)構造であることを利用して、

歩道橋の桁を支える支柱が「本家」を貫通している。

 

 

 

 

 

 

「さて帰ろう」としてふと橋台を見ると、

こんな部分にも凝った意匠が施してあった。

ほとんど誰の目にも触れないであろう部分にも、

設計者・増田淳のこだわりが感じられる。

 

 

 

 

 

 

完成して75年以上も風雨に晒されればこの程度の破損もあるだろうが、

特に修復されることもなく放置されている。

もっとも主要な部分にはペンキを塗るなどして延命措置がなされているようで、

必要な管理は成されている。

 

この四代目はあとどれくらい現役でいられるだろうか。

 

 


      完成   全長   幅員   形式    
                       
  初代   明治7年(1874)   194   5.4   木桁橋   明治16年(1883)流失
  二代目   明治18年(1885)   193   7.2   石造アーチ橋   1890年一部破損 18916月落橋 仮橋架設
  三代目   明治30年(1897)   191   5.0   木鉄混合プラットトラス橋   明治42年(1909) 鉄製トラスに改修
  四代目   昭和7年(1932)   185   11   RCオープンスパンドレル   昭和46年(1971) 歩道を追加
                       

 古写真は「土木学会付属・土木図書館」様より転載させて頂きました(使用許諾済)


■次回予告 福島の石橋3 松川橋

三島県令が石橋を架けた一ヵ月後、同じ陸羽街道に小さな石橋が完成した。

祓川橋同様河川改修により不要となったが、その橋は今でもクルマを通してる。

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