県道354号安達太良山線・日卸石  (二本松市)  2014.07     [TOP]  [寄り道]  [廃道Web]

   
  2007年の夏、安達郡内の発電所巡りをした際、通り掛かりに偶然見つけた物件である。
  その後、なにかの「ついで」程度に「たまに」調べていたが、一切資料に行き当たらず、今でも詳細は不明のまま。
  自分でも忘れ去ってしまいそうなので、防備録として書き留めておく。
   
  この日は、旧岩代町にある小瀬川発電所で石積みの構造物に感激し、沢上発電所では目前でスズメバチに追い返され、
  仏台発電所前で突然の土砂降りに見舞われ、車内に監禁される、という探索前半であった。
  その後、まだ明るかったので、二本松市にあった本宮電気・長久保発電所の痕跡を探しに行く途中にて、
  「これ」に遭遇したものと記憶している。
   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

県道354号を走行中、バス停付近の路肩に大きな石碑が並んでるのを発見。

このテのものは、見つけ次第立ち寄ることにしている。

 

石垣の上、公園か庭のように手入れされたツツジの中に、3基の石碑がある。

 

2007.08

 

よく見ると法面の上方も平らになっており、そこにもやや小振りな石碑が並んでいる。

やはり3基あるようだ。

ちゃんと除草されているので、この時期でも路上から確認することができる。

管理されているようだが、あの平場に通じる道が見当たらない・・・。

 

 

 

 

 

 

「日卸石」と書いて「ひおろいし」と読むらしい。

ネット上では「ひょうろいし」との発音も見つけた。

地名の由来が気になるところだが、今のところ不明。

 

 

 

 

 

改めて碑面を見ると、左右の2基は道路改修記念碑であることが分かった。

偶然とはいえ、とても興味深いものを見つけた。

ちなみに中央は「田神碑」だった。

 

この撮影は2007年だが、ストリートビューを見ると震災後も無事だった模様。

 

 

 

左側の石碑には、

火卸石道路改修工事

委員長 丹治倉次郎

大正十二年四月

とあった。 工事に尽力した丹治氏を顕彰する目的で立てられたらしい。(氏の詳細は不明)

当時は「日卸石」ではなく「火卸石」との表記だったようだ。

大正12年は西暦1923年である。

郡制が廃止された年だから、もしかすると郡道として着工された道かも知れない。

かつては二本松城下から土湯峠を越え、会津に抜けるルートで、

古絵図では「塩沢道」との表記があった。

 
     

右側の石碑には、

縣道下古屋二本松線

改良工事記念碑

とあった。

建立年など詳細は裏面にあると思われるが、未確認である。

 

長久保発電所があったのが笹屋で、碑面にある古屋はその手前(東)である。

当時の県道354号終点はそこだったのであろう。

発電所の工事資材や大きな発電機も、改良前のこの道を通ったのだろうか。

 

「もしかしたら、上段の平場は旧道なのではなかろうか?・・・」

そう思えてきたのでなんとかして法面を上り、状況を確認しに行った。

結局、平場ではあったが「道だった」といった雰囲気はなく、

しかも石碑(江戸期と思われる)の周囲以外は藪になっており、立ち入ることはできなかった。

 

石碑は、暗かったのと、"道"関連ではなかったので写真を撮ってない。

 

 

 

 

しかし平場の延長を右に辿ると、同じ高さに平場が続いているように見え、

しかもその奥は竹薮が切れており、"峠"を感じさせる景色になっている。

ここには道か、あるいは人家があったような気配を感じる。

「ツツジ園」は、かつて民家の庭だったのかも知れない。

 

 

 

 

現道はやや深めの切り通しになっており、

碑面にもある「改良工事」の履歴が十分に感じられる。

右法面はコンクリートブロック積みだが、左法面は切石積みになっており、

施行時期の違いを物語っている。

 

画面奥へ進むと件の石碑があり、古屋を経て終点の塩沢温泉に至る。

 

 


 

<鉄扇橋の碑>

以上が往路。

結局、発電所跡は場所すら特定できずに帰路に着いた。

混雑する繁華街を迂回して国道4号に抜けるため、

県道354号(奥にクルマが見える道)から逸れると、すぐに油井川を渡る。

ここに「鉄扇橋」が架かっている。

銘板には「昭和45年2月竣工」とあった。

 

 

その橋の北側に大きな石碑があることに気付いた。

台座にただ乗ってるだけでなく、接合部が繰り貫かれてある。

なかなか手間の掛かった造作に感心した。

 

正面に深く大きく「種橋鐵扇成興」とある。

当時は、「江戸期に建てられた橋の竣工記念碑かな?」程度の認識しかなかった。

 

後年、ネット上に情報が上がるようになった。

それによると、このルートは二本松から土湯に向かう要路だったのだが、

ここに架かる橋の維持管理は地元民に義務付けられており、大きな負担となっていた。

見かねた二本松藩士・種橋鉄扇(種橋成興)が、米1斗3升2合と銭1貫文を10年に渡って提供。

その善意に感謝した住民たちが建てたものらしい。

 

謝意の表れなのか、橋は鉄扇橋と命名され、この辺りの地名も鉄扇町となった(と思われる)。

石碑は町の象徴でもあったのだ。

 

 

  以下にwikipedia「二本松藩」より転載(一部加工)する。
  農村人口の減少に苦しんだ丹羽家では延享2年(1745)8月に幕府や他藩に先駆けて独自の「赤子生育法」を定めたが、
  これは藩士で儒学者の種橋成興の建議によるものであった。
  これは13歳以下の子が3人いて4人目を出生したら1年に米3俵を支給、
  6歳以下の子が2人いて3人目を出生したら1年に1俵を支給とするもので、
  藩は生育係、成育才判人を設置して妊婦改めや出生改めを行い、また懐妊した者は藩上層部にまで報告されて間引のないようにし、
  困窮者でも子沢山なら組合の責任で諸役を免除することも許され、結果として天明の大飢饉前までに3900余人の人口増加に成功した。
   
  同一人物だろうか。

 

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