旧国道49号線・郡山〜いわき1 (郡山市田村町) 2007.01 [TOP] [寄り道] [廃道Web]
江戸時代の奥州街道・郡山宿は、商業の町・須賀川宿と、街道が交差し物資の集散地であった
本宮宿の間に挟まれた寒村でしかなく、道路網も発達していなかった。
しかし、明治になって日本海側の主要港・新潟港と、石炭が産出するいわき地区を結ぶルートが設定され、
その際、奥州街道由来の国道4号線と郡山の南部で交差する事になり、その後の発展の礎となった。
工事が「土木県令」の異名を持つ三島通庸によって推進されたことは言うまでもない。 と思う。
今回は、国道4号線より東側(いわき方面)部分を探索対象とした。
写真の左側を通る奥州街道がそのまま国道4号線に昇格し、
郡山宿と小原田宿の間の田園地帯に国道49号線は通された。
この部分の道は全く新規に開削されたものと思われ、
阿武隈川には木橋が架けられたであろう。
当時の木橋の位置は不明だが、昭和50年(1975)航空写真には
先代橋の橋脚が並んでいるのが写っている。
現在の金山橋は昭和33年(1958)に設置されたもので、
カンチレバートラス橋という珍しい形式を持つ。
これが1958年まで国道だった事は間違いないのだが、
明治期に開削されたルートかどうかは不明だ。
金屋集落内を通る旧国道。
その東側を現国道バイパスが迂回している。
左に見える三日月湖は、大正期に阿武隈川の流路を改修した際に
生じたものだから、明治期の国道は川のすぐ脇を通っていた事になる。
芭蕉が渡った「金屋の渡し」はこの辺りである。
この光景を見て、本来の路面は法面の上にあったのかな?
と思った。
後年の勾配改良により、坂道が解消されたのだろう、と。
この先は途切れてしまい、現道には接続していないので
どちらが正解なのかは判らなかった。
守山城下を通る街道沿いに発達した宿場町である。
その街道がそのまま国道に昇格した。
二箇所ある枡形部分は現在でも非常に狭い。
現在は東側をバイパスが通っている。
この地域に二箇所ある線形改良部分を訪ねる。
ここにも旧道が残存している。
現道の南側に残る段差も、かつての道床らしい。
切り通しの片割れは近年平削され、事務所敷地になっている。
おそらく、国道に指定される前に旧道化したと思われる。
集められていた。
いくつかは倒れていて未確認だが、よく見るとこのうち二つは
道標も兼ねていた。
街道Web管理人が興奮しないわけがない。
なぜか側面が道標になっている。
「右 石川 スカ川」
これは、ここから南に向かう道のことであろう。
現存している。(上の画像、石碑の背景の道)
「左 岩城」
まさに国道49号線の事である。
「北 守山町ヲ経テ三春町及郡山町ニ至ル」
ここまで辿ってきたルートである。
「南 小塩江村ヲ経テ須賀川及石川町ニ至ル」
これは上の石碑の「右」と一致する。
「東 谷田川村ヲ経テ小野新町ニ至ル」とあり、
現在の国道49号線を示しているが、なぜかいわきや平の文字はなく、
途中で国道から逸れて小野新町に進んでしまう。
舗装こそされてはいないが、現在でも現役らしく
非常にフラットな路面になっている。
この法面処理はR49沿いに非常に多く見られるが、
どうやら硬い岩質の法面に採用される処理らしい。
明治期の工事の際は、硬い岩盤であることが災いして、
こうした地形を迂回するルートが各所で発生したようだ。
そんな痕跡をこれから大量に見る事になる。
これは旧道化後の開削、あるいは拡幅であろう。
旧道は更に左奥へと続いている。
路面は右の谷田川に向かって傾いている。
奥に現道が見えてきた。
どうやら今でも国有地らしい。
「建」ではないと言う事は、2001年の省庁再編後に設置された
新しいものなんだろうな。
新規に設置されたのだろうか? こんな廃道に?