旧国道4号線・池ノ入切通し (二本松市) 2007.03 [TOP] [寄り道] [廃道Web]
江戸初期、加藤氏・丹羽氏の移封に伴ない、改めて町割りが行われた。
それまで城のすぐ南を通っていた街道を観音丘陵の南側に遠ざけ、
新旧街道を繋ぐ形で丘陵の4ヵ所に切通しを開削した。(緑文字)
西から新丁切通し、久保丁切通し(頂部に大手門が設置されたが、
すぐに坂下に移設された)、さらに池ノ入切通し、亀谷切通しが開削され、
そのうち亀谷坂を奥州街道とした。
これにより、城山南側の武家屋敷と、奥州街道沿いの町人街が
分離されることになった。
江戸期の奥州街道は亀谷坂を上り、竹田坂を下って二本松城下を抜けていた。
明治になって赴任した福島県令・三島通庸の指導の下、
亀谷を通っていた街道を、西側の池ノ入ルートに換線する事になり、地元住民が工事に動員された。
硬い岩山を掘り下げる工事は困難を極め、三島県令はますます住民の反感を集める事になったという。
<改修史> | ||
慶安元年(1648) | 加藤氏、丹羽氏により池ノ入切通し、亀谷切通しが新規に開削される | |
明治18年(1885) | 三島県令により池ノ入切通しが大規模に改修される | |
大正5年(1916) | 約4m掘り下げる改修工事を実施 | |
昭和35年(1960) | 屈曲を除く拡幅工事が始まる |
城下町らしく、枡形と呼ばれるクランク状の道が今でも残っている。
明治新道はこのクランクを直進し、観音丘陵と呼ばれる山を越えていた。
そのため「観音山の掘り割り」とも呼ばれている。
ここから既に峠の切り通しが見える。
明治新道は後に国道4号線になったが、
バイパスができたため現在は県道129号二本松安達線になっている。
正面に見える亙の大屋根は蓮華寺。
左のコンサートホールの場所には以前安達郡役所があったが、
後に二本松南小学校になり、その小学校も東に移転した。
冒頭で池ノ入切通しを「新規開削」と書いたが、杣道程度の作業道はあった模様。
その細道を広げ、切通しや門を設けたのが江戸初期。
さらに改修され、国道に昇格したのが明治初期。
その後も度々改修が加えられてきた。
蓮華寺の前で右折し、すぐに左折する。
このクランクは少しでも勾配を緩やかにするための線形でなのであろう。
遊歩道にある歩道橋の高さからも、この切り通しの深さが伺えよう。
大正、昭和と改修を受けているので、明治のオリジナルでないのが残念ではある。
太さから考えて大正5年(1916)の掘り下げ工事後に生えたものだろうか。
と言う事は、この石垣は大正期の改修のものだ。
太くなった根が石垣を崩しつつあるようなので、やがてこのケヤキは切り倒されるかも知れない。
しかし昭和の改修の際に、よく切られずに残ったものだ。
ゴツゴツした法面にはコンクリートが吹きつけられている。
上空を通るのは水道管だろうか。
とても旧国道、現県道の施工とは思えないような荒々しさだ。
硬いことが特徴の花崗岩だそうである。
明治の人々はこんな所を手作業で掘り下げたのか。
大正期の掘り下げ工事の時の際、ここから水が湧き出し、
坂を上る旅人や牛馬のために、と個人が自費で水場として整備したものとのこと。
「豊潤水」と呼ばれ人々に親しまれた。
祠状の設備は近年の改修。(屋根設置→撤去→再設置、か)
水場の由来と感謝を示す石碑の中に「切通坂」の文字を見つけた。
余りにも素っ気ない、ストレート過ぎる名前で力が抜けてしまう。
強制労働で開削された道に愛着など湧くものではないのか、愛称の類は付けられなかったようだ。
江戸時代同様、「池ノ入切通し」と呼ばれ続けたのであろう。
水場の左上方にある石碑は、同年に建てられた馬頭尊碑である。
カーブ、坂道、深い切り通し。
この悪条件の揃い踏みはいかにも明治の新道らしく、
素っ気ない名称とは裏腹に訪れる者を圧倒して止まない。
「福島県道路風景画帖」が福島県立図書館のデジタルアーカイブで公開されている。
「安達郡二本松地内字池ノ入新道ノ内岩石切リ割リノ図」
"岩石切り割り"という表現が凄まじい。
右に人力車が止まっているのが見える。
道の広さ、そして三島の偉大さを強調するため、人や車が意図的に小さく描かれている。
新道開通の際、法面に「修陸羽道之記」と題する記念の碑文が刻まれた。
上の図に描かれた人力車の客は、この碑文を読んでいるところらしい。
しかし法面の岩盤に直接彫られたものであったため、
大正期の拡幅工事の際に破壊されてしまった。
[2013.06]追記
「ふるさとの想い出 明治大正昭和 二本松」より引用
バラバラになった破片のひとつが、上記「豊潤水」の向い側に設置されている。
[2013.05]追加
切り通しの法面に埋め込まれるように設置されている。
しかし、これが何であるのかの説明は全くない。
[2013.05]追加
「保管」と言っても、薄暗い玄関の裏口脇にゴロンと「放置」されてるだけ・・・。
石臼などの古道具と同レベルの価値しかない、という判断のようだ。
[2013.05]追加
上部の大きな文字は表題の「修陸羽道之記」のうち「道」の部分。
他に読み取れるのは13文字程度。
大きさは50cmほどだが、かなり重かった。
元は縦2.2m、横3mという巨大なものだったとのこと。
碑文の内容は、開通記念と言うより「三島絶賛」だ。
わざわざ山形や栗子での業績にまで遡って賞賛しているのだから念が入っている。
拡幅工事の際に保存どころか、ダイナマイトで爆破された理由はこれだろうか。
[2008.02]追記 [2008.10]追記 [2013.05]画像差替
3つ目の破片は、市立南小学校の校内に台座付きで設置されているとの情報を得ていた。 | |
南小は昭和52年に移転しているので、移転前、移転先、両方を探したのだが発見できず。 | |
もしかしたら、と北小学校にも行ってみたが、やはり無し。 | |
どこに消えたのかと思っていたら、なんと2つ目と同じく歴史資料館に保管されていた。 | |
全く気付いてなかった。 | |
「保管」と言っても、薄暗い資料館裏にゴロンと「放置」されてるだけ・・・。
これでは邪魔者扱いされているのと同様ではないか。
せめて風雨に晒されない、できれば鍵の架かる物置にでも「保管」して頂けないだろうか。
二本松市の考える「歴史資料」とはいったい何を指しているのか、疑問に思う。
江戸時代だけが二本松の歴史ではあるまい。
観光に繋がらない、金にならない遺構には関心がないのだろうか。
[2013.05]追加
ひと文字は二寸角くらいだろうか。 かなり大きい。
気になるのは下端部左側が逆L字型にえぐれていること。
これって台座に据えた時に安定するようにと削った跡なのではなかろうか?
その影響で文字が消えてしまっているではないか。
個人蔵だった時期の改変かも知れないが、酷いことをするものだ。
ピークを越えて北に下ったところにも石碑があった。
やはり石碑のある部分だけネットが切ってある。
近付いてみよう。
写ってないが、右側には小さな大黒様の石像もあった。
旅人の安全を願う碑文であった。
移設されたら全く意味を持たなくなる石碑だ。
昭和6年(1931)夏、福島県知事・小柳牧衛がここを通りかかり、「豊潤水」でのどを潤した。
その際、上記の逸話に感動し、揮毫したのがこの碑文だそうである。
[2013.02]追記 [2013.05]追記
「修陸羽道之記があった場所に設置された」、との資料もある。
ただし修道記の元位置が不明なのだ。
屋根があるのが旅人用、右の低い位置にあるのは牛馬用だろうか。
当時はしめ縄が張られるくらい大切にされていた施設だったことが分かる。
[2013.06]追記
「ふるさとの想い出 明治大正昭和 二本松」より引用
下って行く。
「落石注意」
以前はネットが無く、法面も全て素掘りのままだったのだろうか。
見てみたかったなあ。
切り通しを抜け、坂を下ったところで右に曲がる。
江戸期の道は直進する細道で、ここからは明治期に新規開削された新道になる。
地元で"新道"と言うと、この池ノ入切通しを示すそうだ。
勾配対策ゆえの屈曲であろうが、現代の車道としてはいかにも線形が悪過ぎる。
二本松藩の米蔵があった所である。
この先でかつての奥州街道に合流して明治の新道区間は終了する。
以上、廃道でもなんでもない普通の舗装道をお送り致しました。
比較する意味で旧街道のルートも紹介する。
頂部から亀谷坂を振り返る。 現在は市道・竹田亀谷坂線である。
拡幅され、歩道まで設置された近代的な道であるが、
坂の途中で勾配が変わり、急になっている事がお判りだろうか。
何度か改修を重ねているとは思うが、
それでも隣の池ノ入切通しと比べると、深さは半分ほどしかない。
そのお陰で亀谷坂は現在でも急勾配だ。
左の法面上に見える石碑は「ふるさとの坂道 30選」に
選ばれた記念プレートである。
コンクリート製で、「堺」の両側面に「亀谷」、「竹田」とあった。