北辰の碑 (舟戸の日時計) (福島市鎌田) 2009.11 [TOP] [寄り道]
関ヶ原での西軍敗戦の結果、上杉景勝が会津120万石から移封、30万石とされ、
その際、福島城代本庄繁長の家臣がこの地・舟戸に土着したという。
その後、上杉氏は継嗣問題でこの信達地方も取り上げられ米沢15万石に減封になった。
その頃、旧家臣らは信州の諏訪大社より勧進し、ここに社殿を建立した。
実は、この諏訪神社は大正11年(1922)にも建て替えられている。
どうしてこんな昔の建て替え時期に詳しいのかと言うと、
この社殿が信達軌道の蒸気機関車が出した火の粉が元になった
鎌田村大火の際に類焼しているからである。
少し離れた旧国道沿いに、その顛末を刻んだ記念碑「福為禍転」(禍転じて福と為す)があるが、
裏面の「罹災出訴者氏名」の最後に「諏訪神社」の名がある。
信達軌道と裁判になり、賠償金を勝ち取ったのであろう。
諏訪神社の境内に、江戸時代最後の年である慶応4年の7月、
一本の石柱が建てられた。(写真左)
戊辰戦争の真っ最中のことで、7月と言えば二本松城が落城して、
この地を治めていた福島藩主板倉氏が米沢に逃亡する、
という激動の時期である。
天と地がひっくり返るような騒ぎだったはずのこの時期にどうして、と思ってしまう。
元号が明治と改まるのはこの年の10月のことである。
どうやら平和を祈願しての建立だったらしいことがわかる。
北辰とは北極星のことである。
実際の北緯38度線はここから20kmほど北の宮城県内を通っているが、
当時の技術としては精度が高いらしい。
資料によると北面には「従是地北極三十八度○ 妙見 北辰」とあるらしいのだが、
軟らかい石質らしく、磨耗や欠落が激しい。
白文字で示した部分はセメント補修もありほとんど読めない。
折れた部分を補修したらしき痕跡もある。
「三十八度」と「妙見」の間には、もうひと文字あるように見える。
昭和53年(1978)発行の本に掲載された時点ではかなり状態が良い。
これで見ると「三十八度」の下の字は「太」のように見える。
「従是地北極三十八度太 妙見 北辰」が正解か。
どういう意味だろうか?
「道ばたの文化財」より転載
福島市史資料叢書「福島のいしぶみ」に碑文の解説があったので転載する。 | |
南面 前述の通り | |
西面 世代ハ皆移リ行ケドモ此里ヲ安ラニ守レ神ノ御柱ラ | |
北面 観象台 熊水建拝書 | |
東面 慶応四戊辰七月日建立之 当最寄中 | |
2013.12追記 |
「妙見」の文字がひと際大きいのは天文学関連施設であることを隠し、
仏教施設であることをことさら強調するためだろうか。
江戸時代、西洋の学問は禁止されていたが、
幕府が崩壊した状況にあったこの時期でもまだ気にしていたのか、それとも単なる習慣なのか。
ちょっと邪推が過ぎたかな(笑)
ちなみに妙見菩薩は北極星を神格化したものとのことだから、天文学と全く無関係とは言えない。
最大の関心はこの碑が日時計としての機能も兼ねていた、という点である。
説明板にもあるように、基部にあったと思われる文字盤は失われてしまったが、
その名残りを現在でも見ることができる。
円柱の周囲に時刻を表す干支が彫られているのだ。
「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の内、ここには未と申が見える。
未は午後2時頃、申は午後4時頃を言う。
結局、子と丑しか見つけられなかった。
他は剥離して消えてしまったようだ。
子は午前0時頃、丑は午前2時頃のことである。
一番見たかった文字盤は既に無く、無粋なコンクリートで固定されていた。