郡山市が 「町」 だった頃 (郡山市)           [TOP]  [寄り道]

 


 <中町の境界標>

郡山駅西口から消防署に向かって伸びる道がある。

この消防署敷地にはかつて安積郡役所があり、

駅から役所に通じる道として新たに開削されたのがこの道であった。

当時は郡山随一の幅員を持つ大路だったと言う。

現在は電線が地中化され石畳が敷かれたコミュニティ道路に改修され、

「フロンティア通り」と名付けられている。

郡山は開拓の街なのである。

 

その途中に「大黒屋」という和菓子屋がある。

店舗の入り口脇に「郡山町」と書かれた境界標が保存されている。

 

 

 

[2009.07]

 

大黒屋さんが設置した説明板に詳しい由来が載っている。

 

明治22年(1889) 町村制施行に伴い郡山町が誕生

大正13年(1924) 小原田村を合併して郡山市になる

 

郡山が「町」だったのはたった35年間だけである。

ここではその頃の物件を拾い集めてみる。

 

 


 <大町1丁目の道標>

旧国道4号から旧県道296号荒井郡山線(通称・安積街道)が分岐する地点に、

2基の道標が建っている。

 

 

 

 

 

 

そのうち左は大正3年(1914)に建てられたもので、

「左會津街道 右奥州街道」とある。

裏面には「日露大海戦十週年紀念」とある。

東郷平八郎率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃滅した、

いわゆる「日本海海戦」の勝利を記念したものであろう。

[2003.09]

 

 


 <島2丁目の道標>

明治20年(1887)、郡山駅開業に伴って陸羽街道と駅を結ぶ道が開削された。

この道は前述の道が「南通り」と呼ばれたのに対して「北通り」と呼ばれた。

現在の駅前通りである。

この道は後に開拓村である桑野まで延伸され「さくら通り」と呼ばれた。

さくら通りは国道49号と接する地点が終点だったが、

更に西へ延伸され「新さくら通り」と命名された。

 

 

新さくら通りが国道4号バイパスと交差する地点の少し東から南側の細道に入ると、

ここに二宮神社がある。

 

 

 

 

 

境内の隅に道標が置かれている。

おそらく、新さくら通り開削に伴う区画整理の際に移設されたものと思われる。

 

北面には「大正八年三月桑野消防組」とある。

 

 

 

 

 

 

東面には「東 郡山町 右 河内村 左 大槻村 至ル」とある。

以前この辺りにあった三叉路に置かれていたのだろう。

現在は両村とも郡山市に合併されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[2009.10]

 

 


 <赤木町の遊郭跡>

幕末の郡山宿には35軒の旅籠があり、それぞれが飯盛り女を置いていた。

明治になって街の北西に移転させられたが、

移転したのはわずか3軒だったと言う。

移転を機会に廃業したところが多かったのかも知れない。

 

 

 

太い通りから細道に入ると、すぐに2本の門柱が現れる。

街中に忽然と石柱が並び立つ異様な光景である。

 

これが遊郭街への入り口である。

よく撤去されずに残ったものだ。

 

 

 

門柱の間を通り中から振り返る。

かつては鉄製の門扉があったのだろうか。

金具の跡から赤い錆の帯が伸びている。

 

門から先の道が広くなっているのがお分かりだろうか。

 

 

 

石柱には「相生町」との陰刻がある。

ここに遊郭街ができた当時はこう呼ばれていたのだ。

現在この町名はなく、赤木町になっている。

 

 

 

 

 

 

 

反対側の石柱には「明治参拾四年 九月」とあった。

 

明治34年(1901)に街道沿いからここに移転した、

その年に作られた門である。

 

20世紀最初の年だ。

もう100年以上経過している。

 

 

 

道の両側に遊郭が並んでいたのだろうか。

いまでも何軒かの旅館があり、当時の名残りを感じる。

少し前までは当時の建物が残っていたそうである。

 

 

 

[2008.10]

 

  ■大震災後、「危険」の表示が貼られ、その後撤去されて現存しない。
   

 <桑野村道路元標跡>

 
   

明治初期までこの付近は原野であったが、

明治7年(1874)、郡山の資産家たちによって創設された開成社により開拓が始まる。

赤線で示したのはその時に開削された開拓道路で、

道の両脇には入植者のための住居が建てられた。

そして明治9年(1876)に桑野村が成立。

同年の東北巡幸の際には明治天皇が村に立ち寄り、

交差点西奥にある開成館を行在所とした。

 

明治天皇は明治14年(1881)の巡幸の際にも開成館に立ち寄っている。

それを記念する石碑「明治天皇駐蹕之処」が昭和17年(1942)に作られ、

この交差点に設置されている。

 

その巡幸に合わせたものと思われるが、開成館と郡山村を結ぶ直線道路も

明治14年に完成している。

 

■大震災にて倒壊。開成館敷地内に移転・保管

 

 

 

大正になって郡山と桑野を巡る電車・郡山軌道が計画されたが、

着工には至らなかった。(赤線)

 

資料によると桑野村道路元標は南町7、8に建てられたとあるのだが、

番地名が変えられたため位置が不明であった。

しかし郡山軌道について調べる過程で古い市街地図を見ていたところ、

黄色で示した場所であったことが偶然分かった。

 

残念ながら現在桑野村道路元標は存在しない。

開拓道路は戦時中軍用道路として整備・延伸が計画されたが未完成のまま敗戦を迎えた。

その後、国道49号に指定されたことで整備が進み、

交差点付近では起伏を解消するために嵩上げ工事が成されたようだ。

家が建っているところが元の高さで、現在の路面より1mほども低い。

これだけ改変されているわけだから、道路元標なんぞのんびりと残っているわけがない。

付近を掘れば出てくるのか、あるいは別な場所に保管されたまま忘れられているのかも知れない。

 

 

 

 


 <開成山の記念碑>

国道49号線に沿った開成山大神宮付近に大きな石碑がある。

元久留米藩士らが入植40周年を記念して立てたもので、

大正7年(1918)の建立とある。

 

 

 

 

石碑の台座に寄付者の名前が刻まれている。

そこに寄付者の住所として「郡山町」とあった。

隣にあるのも「東京市」である。

他に橋本萬右エ門、安積疏水普通水利組合、片倉組岩代製糸所の名があった。

 

 

[2012.09]

 

 


 <住居表示原点標石>

この建物は昭和5年(1930)に建てられたので、本題からは外れる物件である。

郡山市役所として建設され、現在は福島県郡山合同庁舎として使われている。

 

2階建てだが中央には塔屋がある。

国会議事堂に似ているが、それよりも6年古いのだ。

 

 

鉄筋コンクリート製だが、まるで石造りのようなデザインになっている。

エントランスの上には凝った意匠のレリーフがある。

 

 

 

 

 

 

エントランス横のデザインとスロープ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この庁舎の入り口脇でちょっと変わった物を見つけた。

 

 

 

 

 

 

 

30cmほどの石柱に「住居表示 原点」とある。

調べてみたら、「住居表示に関する法律」というのが昭和37年(1962)に施行されている。

この時に設置されたものだろうか?

だとすると道路元標のごとく、全国の各市町村にあるのだろうか?

しかし検索しても全くヒットがない。

 

 

 

[2007.08]

 

  正体が判明した。
  急激な都市化による無秩序な開発を防ぐため、明治32年(1899)に「耕地整理法」が制定された。
  この制度を利用して、郡山では民間有志による「耕地整理組合」が組織され、10年に渡って区画整理事業が成された。
  その際、測量の原点として設置されたのがこの標識とのこと。
  元の場所から移転されたと思われるが、郡山の歴史を語る貴重な遺構として、説明板を設置して欲しいものです。  [2012.09]

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