久留米開墾関連の記念碑  (郡山市)  2012.09        [TOP]  [寄り道]

 

<水天宮境内>

・40年記念碑 大正7年(1918)

水天宮入り口の脇に大きな石碑と「開墾四拾年紀念碑」の銘がある石柱がある。

石柱は大正7年4月に建てられたもので、「寄付者 伯爵有馬頼萬」とある。

頼萬(よりつむ)は久留米藩最後の藩主・頼咸(よりしげ)の子である。

当然、隣にある大きいのが記念碑本体だろうと思ってよく見てみると、

これは「吉富翁」なる移住者を顕彰するものあり、しかも建てられたのは昭和15年とある。

内容も時期も40周年を記念するものではない。

 

   
  それでは40年記念碑本体はどこにあるのか、と言うと、遠く離れた開成山の国道49号線脇にある。 
  「開墾率先碑」というのがそれで、ちゃんと大正7年4月とある。 題毫は「侯爵松方正義」。元総理大臣である。
  なぜこんなことになったのだろうか。
  実は、南久留米の水天宮境内に立てるべく工事を進めたところ、北久留米側から異議が唱えられたため、
  南北久留米の中間地点であるこの地に変更されて建立されたのである。
  こうして写真を比べてみると、両者の石柵のデザインが大変良く似ている。
  おそらく、台座や石柵などの基礎部分が完成し、案内の石柱も立ったところで、建立位置の変更が決まったからなのではなかろうか。
  そんな経緯があったためか、実際に完成したのは4月ではなく7月にずれ込んだそうである。
  (南久留米、北久留米、開墾率先碑の位置関係を示す地図は こちら
   

・80年記念碑 昭和33年(1958)

境内には「開墾八十周年記念碑」がある。

昭和33年11月11日の建立とある。

11月11日は移住者の先発隊が郡山に到着した日で、久留米地区では記念日とされている。

 

 

 

 

 

 

 

「開墾八十周年記念碑」

 

 

 

 

 

 

 


 

   
  80年記念碑は北久留米にもある。 
  開拓者が祀った金刀比羅神社の境内に立っており、有馬頼義の書により「久留米開墾記念」とある。
  頼義(よりちか)は頼萬(よりつむ)の孫である。
  昭和33年12月の建立で、立てたのは「久留米開墾八十周年建碑委員会」とある。
  「入植者の碑」が2つあるように、80年記念碑も2つあったのだった。
   

・100年記念碑 昭和53年(1978)

水天宮境内、80年記念碑の脇に「久留米開墾百周年記念碑」がある。

昭和53年11月11日に建てられた。

建てたのは「久留米開墾百周年記念事業実行委員会」とある。

 

 

 

 

 


・120年記念碑 平成10年(1998)

「久留米開墾百二十周年記念碑」

これは水天宮境内ではなく、久留米公民館の駐車場にある。

「平成十年十月吉日 久留米開墾百二十周年記念事業協賛会」とある。

 

年を重ねるごと、徐々に小型化しているようである。

 

 

 

 


<説教所境内>

水天宮の西方に久留米説教所という建物がある。

神社の他にお寺も必要になり、当時、東北進出の機会を狙っていた浄土真宗本願寺派が承諾してできたのがこの説教所である。

しかし凶作のため寺を維持できなくなり、明治38年(1905)に檀家と紛糾して住職が帰ってしまって以降、無住の寺になったという。

 

明治天皇大蔵壇原御小休所及野立所

明治14年(1881)の明治天皇による東北巡幸の際、

安積原野の開墾地のうち唯一訪れたのが、ここ大蔵壇原であった。

説教所で休憩し、茶を点てた場所として昭和9年(1934)に史跡に指定され、

それを記念して昭和11年(1936)にこれが立てられた。

 

 

 

 

明治天皇御手植之松

その際に松を植えたのだが、どうやら枯れてしまったようだ。

右側にあるのは二代目であろうか。

石製の標柱は昭和35年の建立。

それまでは木柱だったのかも知れない。

 

 

 

明治天皇御野立所趾

裏面に「維持昭和十年四月」とあるので、これも史跡指定を記念して立てられたものであろう。

 

境内にはゴミも雑草もなく、きれいに掃き清められており、気持ちの良い場所であった。

 

 

 

 

      [TOP]  [寄り道]

 

 


 

 二木松神社  (須賀川市)  2013.01        [TOP]  [寄り道]

 

須賀川市西部にかつて西袋村があった。

明治15年、ここに旧二本松藩士が開拓のために移住してきた。

その移住者が故郷の二本松神社から分社して祀った神社が現存している。

 

小高い丘の上が社叢である。

こんな上にまで水田が拓かれている。

 

鳥居の神額を見ると「二松神社」となっている。

「本」ではなく「木」である。

"賊軍"とされたため世間の目を憚り、あえて二本松の名を隠したのだとのこと。

悲しい歴史が現在でも形として残っていた。

 

 

 

 

残念ながら境内に安積開拓に関する石碑類はなかった。

あるのは戦後に行われた移住・開拓に関するものばかり。

写真の石碑も石灯籠も、戦後の入植35周年を記念するものであった。

二本松藩士の子孫も残っているとのことだが、ごく少数派なのであろう。

 

 

      [TOP]  [寄り道]

 

 


 

 老農塚田喜太郎之碑  (郡山市喜久田町)  2012.04        [TOP]  [寄り道]

 

探索を終え、帰宅のため県道を南下している途中で偶然見つけた。

Y字路の三角の部分が公園のようになっており、

そこにいくつかの石碑があることに気付いて寄ってみることにする。

敷地はよく手入れされており、大切にされていることが伝わってきた。

碑文を確認したところ、既知の名前を見つけて興奮したのだが、

この時は夕暮れ時だったため撮影は諦め、改めて訪問した。

 

ここは喜久田町北原といい、上写真中央に写る赤い屋根は北原集会所。

対面原の一部に当たり、安積開拓により拓かれた地域のひとつである。

この石碑も開拓に関連するものであった。

「老農塚田喜太郎之碑」とある。

 

さて、塚田喜太郎とはどのような人物だったのだろうか。

 

   
  入植した士族たちには農業に関する知識が全くなく、乾燥した原野を前にして成す術がなく、失敗を繰り返していた。
  そこで経験豊富な農民を何人か招き、入植士族の指導に当たらせることになった。 彼らはいずれも無学で文盲だったという。
  その一人が明治14年(1881)、遠い薩摩から来た塚田翁であった。 (鹿児島県谷山郡谷山村山田の出身)
  彼は対面原に農業試験場を設置し、当地に合った耕作法を研究・考案し、画期的な成果を上げたのだった。
  収穫量が以前より2倍、3倍に増えたため、入植者らは塚田翁を神のように崇めたと言う。
  そして明治22年(1889)には政府から表彰され、それを記念して人々はこの顕彰碑を建立したのだった。
  彼はその翌年2月に亡くなる。 当地の龍角寺に葬られ、墓碑には行年70歳とあるとのこと。
  遺言により、墓石は故郷・鹿児島を向いていると言う。
  おそらく二度と故郷には戻れないことを覚悟の上で、この地に赴任したのであろう。
  子孫は今でも鹿児島におられるのだろうか。
   

本碑裏面の碑文が風化により摩滅したためであろうか、

近年になって副碑が建てられた。

 

 

 

 

 

 

その碑文が副碑裏面に再現されている。

最終行を見て驚いた。

「従四位 奈良原繁」

元薩摩藩士で、安積開拓の責任者であった人である。

塚田翁を招聘した本人による揮毫という、まさにストライクな人選であるが、

奈良原揮毫による石碑は意外と少ないのか、私はこれが初見であった。

 

奈良原に関する醜聞も伝わっているしな・・・。

 

 

加えて副碑の後方には「碑文読下し」という説明板がある。

原文は難解な漢文なので、ニュアンス程度しか理解できなかったから非常に助かる。

それにしても、特に文化財に指定されているわけでもない石碑にも関わらず、この高待遇。

塚田翁の功績を広く一般に知らしめよう、という気合が伝わって来るではないか。

今でも現地の人に記憶され、感謝され、大事にされているのだ。

 

      [TOP]  [寄り道]