三島通庸が描いた直線 (福島県)   2007.08       [TOP]  [寄り道]  [廃道Web]

 

<山形県令時代>

天保6年(1835)   薩摩藩士の長男として生まれる
  文久2年(1862) 27 尊皇派であった大山巌、西郷従道、柴山景綱らと寺田屋事件に連座。謹慎処分となる
  慶応4年(1868) 33 鳥羽・伏見の戦いに続き、戊辰戦争に従軍。幕府・会津藩と交戦
  明治4年(1871) 36 大久保利通参議(旧薩摩藩士)の抜擢で明治政府の役人となる
  明治7年(1874) 39 酒田県令(のち山形県令)に着任。 明治10年、柴山景綱(義兄)を県庁に採用
  明治9年(1876) 41 米沢〜福島間の万世大路に着工。 明治13年(1880)竣功 西南戦争の勃発はM10
  明治14年(1881) 42 明治天皇も参列し、万世大路の開通式が行われる

万世大路は、ほぼ地元の負担により開削された。

その「負担」とは、強制労働、工費の強制徴収、

土地の強制収用という過酷なものであった。

未だ反抗的な旧庄内藩士やロシアを意識した軍用道路と

いう側面もあり、さらには明治天皇の東北巡幸(明治14年)

間に合わせるため工事は急ピッチに進められたが、

いずれにしろ住民には関係ない事であった。 

  昭和9年(1934)に改修された万世大路・二ツ小屋隧道
  手前が明治期の路面 [2004.11]


奈良原繁
(薩摩藩士)
  生麦事件の際にイギリス人を斬殺。結果、薩摩藩はイギリスと戦争状態になった。
寺田屋事件
では剣の腕を見込まれ、説得に当たった。
後に安積疏水開削の責任者となり、県令三島と再会している。
日本鉄道の社長、沖縄県知事(琉球王と呼ばれた)などを歴任。

<福島県令時代>

明治15年(1882) 47 1月、福島県令を兼任。 自由民権運動の弾圧を目的とし、県会議長の河野広中らと対立した
      8月、反対を押し切り会津三方道路、起工。すでに着工している地方もあった
      11月、喜多方事件、福島事件発生。 河野広中ら自由党幹部を一斉逮捕
  明治17年(1884) 49 8月、会津三方道路竣功

三島は旧会津藩士を集め、授産金をエサに御用政党・帝政党を作らせて自由党の対抗勢力とした。(M15/06)
帝政党員は、自由党員や道路建設に非協力的な住民を脅迫や暴力で締め上げ、警察はそれを黙認した。
その理不尽さを見かねて裁判を起こすよう進言した検事がいたが、三島は彼を県外に転属させた。
こうして三島に表立って反対する者は次第にいなくなり、河野広中らに有罪判決が出ると
役目を終えた会津帝政党は解散した。


会津三方道路の工事では更に過酷な負担を課した。

労役に応じられない者は金銭で支払うことになっていたが、

それもできない場合は家財を没収し競売にかけた。

没収の対象は畳や鍋、茶碗にまで及んだだめ、

激しい反対運動が起こった(喜多方事件)

また、それを利用して自由民権運動を更に弾圧した(福島事件)

 

  旧国道121号線・非道隧道 [2004.11]

満足な現地測量もせずに着工、という無謀な工事であった反面、

労役や課税など住民の負担に関しては細かく規定されていることから、

「自由党弾圧を目的とした道路建設」という側面すら伺える。

こんな政争のために工事に駆り出され、家財を没収され、

中には娘を売って工面したり、自殺する者さえいたのだ。

結局、約束していた国費負担分も半減した挙句、

総工費は当初予算の2倍も掛かった。

結果、福島県の経済は破綻し、長い停滞期に入ることとなる。

 


  旧国道121号線・大峠の会津側。右上が大峠隧道

そんな杜撰さの最たる例が越後街道・車峠からの

換線が強行された小出峠であろう。

強引に開削したものの、車峠ルートより4kmも長く、

途中には集落がなく危険なため、ほとんど利用されなかった。

明治24年に県から元のルートに戻すよう申請が出され、

小出峠ルートはわずか数年で廃止されたのだった。

 

  廃道化した小出峠ルート [2004.10]


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


福島県立図書館のデジタルライブラリーにて公開されている
竣工当時の写真を引用させて頂く。

 

「北会津郡面川村ヨリ若松ヲ見ル直線ノ景」

水田の中に伸びる築堤状の日光街道。

 

この付近と思われる。

 

 

「河沼郡坂本村地内七折坂ヨリ沼尻峠ヲ望ムノ景」

左が旧越後街道。右の直線が三島新道。

 

写真の分岐はここだろうか。

 

 


 飯坂街道 (県道3号福島飯坂線) (福島市)   2007.08   [TOP]  [寄り道]  [廃道Web]

 

三島県令は温泉好きであった。

そこで公舎から飯坂温泉に通うために新道の開削を命じた。

これが飯坂街道である。(県道3号福島飯坂線)

万世大路も一直線だが、飯坂街道も劣らず真っ直ぐである。

地図上だけで判断し、定規で線を引いたとしか思えない。

言うまでもなく用地は強制没収。

進路にある家屋は住人の承諾なしに破壊、撤去された。

 

自由党は道路建設そのものではなく、

その強引な手法に反対したのだが、三島は自由党員を

「無学無識の者、愚昧なる者」と蔑み、対話を拒絶した。

 

 

 

 

 

 

 


 庭坂街道 (県道310号庭坂福島線) (福島市)  2007.08   [TOP]  [寄り道]  [廃道Web]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三島が山形県令をしていた時、警視庁にいた義兄の柴山景綱を呼び東置賜郡長に任命している。
三島が福島に転ずると柴山も従い、明治15年の福島事件の際にはいち警部として河野広中を逮捕している。
抵抗すればその場で殺害するよう、三島から密命を受けていた、と後に語っている。
翌年からは伊達郡長、信夫郡長と歴任し、伊達郡役所を建設した。その際、費用負担を渋った保原から
協力的であった桑折へ郡役所を移転している。

信夫郡長となった柴山は、痔の治療のため庭坂村民に命じて6kmも離れた高湯温泉から木管で湯を引かせ、

庭坂宿の西側に温泉街(現・湯町)を作らせようとした。農民は鉱毒を恐れて反対したが三島は許可した。

柴山は湯町の南端に別荘を建築。その別荘に通うために開削させた馬車道が庭坂街道である。

万世大路同様、見るからに強引な直線道路だ。(県道310号庭坂福島線) 

また柴山は半ば埋もれていた文知摺石の掘り起こしを命じ、「風流を解しない無粋者」と不評を買っている。
文知摺石は枕詞になった名勝地で、江戸期に松尾芭蕉が訪れ、「早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺り」と
詠んだことで有名であった。
なお、文知摺観音西側の直線道路(中村街道)も、この三島柴山コンビによるものである。 

その後三島が警視総監になった際、腹心の柴山は警視に任命されたが、
3年後に三島が病死すると柴山は解任された。
湯町の温泉も、明治30年頃に農民の反対により廃止されている。


湯町に関する正史では、万世大路の開通により庭坂宿の往来が減少。
その対策として湯を引いて温泉街を作り人の流れを呼び込んだ、と言うことになっている。

 


<栃木県令〜土木局長〜警視総監時代>

明治13年(1880) 45 山形県令時代に、国から那須原野の払い下げを受ける。約1000平方キロ
  明治16年(1883) 48 10月、栃木県令を兼任。当時、県会議員だった田中正造らと対立する(翌年、逮捕)
  明治17年(1884) 49 4月、奥州街道の改修工事に着手
      9月、暗殺未遂事件が発生 (加波山事件)
      9月、陸羽街道がルート変更のうえ開通
      10月、内務省土木局長に転任
  明治18年(1885) 50 9月、原野開拓のため那須疏水を国費で開削させ、労せずして広大な農園の地主となる
      12月、警視総監に任命。保安条例により、自由民権運動を弾圧した
  明治21年(1888) 53 病没。 青山霊園に埋葬される。その墓碑は同霊園内で最大という

三島の着任を知った栃木の富裕層は他県へ移住、

暴力に怯えた農民が逃げ出し、廃墟となった村まで発生した。

 

陸羽街道は奥州街道を改修することに決定していたが、

栃木県令となった三島は自分の農場内を通るよう変更させた。

左図のように、氏家〜白河間だけが大きく西側に変更されている。

三島の温泉好きは栃木でも変わらず、農場と塩原温泉を結ぶ道を

馬車道に改修させた。これが塩原新道である。

三島はこの新道開削でも前述の小出峠と同じ愚を犯しており、

彼が栃木を去るとすぐに工事は中止され、元にルートに戻された。

また塩原温泉に豪華な別荘を建てたが、彼の死後の明治37年、

三島家はこれを皇室に献上している(塩原御用邸)

 

 

三島農場を通るように変更された陸羽街道。

塩原新道に至っては自宅の前を通っている。

いずれも直線である。

田中正造はこれを「私利私欲」と批判し、

後に逮捕されることになる。

明治19年(1886)に開通した東北本線も、

農場の近くを通るよう西側に換線させた。

この無理な変更が、明治30年の大幅換線の

遠因になったのだろうか。

 

三島農園は「肇耕社」(ちょうこうしゃ)という会社が運営し、社長は三島の長男・弥太郎
設立当時わずか13才であった。
これは自身が公職にあることをはばかって、息子をダミーに仕立て上げたものであろう。
弥太郎は後に大山巌元帥の娘・信子と結婚したが、信子が結核に感染すると離縁した。
後に再婚。 銀行家、貴族院議員を経て、日銀総裁になった。

 


三島県令に関するエピソードは見つからなかったが、福島県中部にも同時期に直線道路が開通している。


 三春街道 (国道288号線)

 安積街道 (県道296号荒井郡山線)  (郡山市)   2007.09  [TOP]  [寄り道]  [廃道Web]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


<三春街道>

岩城街道・郡山〜いわき間のうち、郡山〜三春〜小野が

明治18年(1885)に開通し、三春街道と呼ばれた。

 

国道バイパスから取り残された部分に残る直線道路。

[2006.08]


<安積街道>

陸羽街道からの分岐点。左が安積街道である。

安積開拓地の中を通り抜け、安子ヶ島付近で

会津街道(本宮〜若松)に接続する。

明治19年(1886)、県道三等に仮定された。

[2003.05]

 

この分岐に大正3年(1914)の銘がある道標が建っている。

大正になっても「陸羽街道」という名は浸透しなかったようで、

まだ「奥州街道」との呼称が一般的だったことが判る。

安積街道は行き先である「會津街道」になっている。

 

 

[2003.09]

 


 長沼街道 (郡山市)  2007.09   [TOP]  [寄り道]  [廃道Web]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水田の中を突っ切る真っ直ぐな道。

現在では分断され、宅地になった箇所も多い。

 

この部分は非常に狭く、離合が難しい。

交差点には信号がなく、見通しが良いのに事故が多い。

 

 


<あとがき>
およそこの人物ほど後世の評価が分かれる人も珍しい。
「100年先まで見据えていた偉大な政治家」と絶賛する人もいれば、
「悪政だらけで負の遺産ばかり残した」と切り捨てる人もいる。
ただ、私には「初志貫徹した意思の強い人」とか、「当時の民衆には理解されなかった」などと言う評価は
官尊民卑に基づく発想としか思えない。
また、方向は正しかったと評価する人でさえ、その手法には疑問を呈している場合が多い。

廃道系サイトでは概して評価の高い三島通庸であるが、今回はあえて「陰」の部分に焦点を当ててみました。
反論もあるとは思いますが、まあこんな観点もあるんだな、とでも思って頂ければ幸いです。


                                             

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