レリーフがある謎の明治隧道         [TOP]  [寄り道]  「隧道Web」

「日本の廃道」第115号に投稿した記事に加筆・修正を加えたものです。


   
  この、ちょっと変わった隧道の写真の初出は、「月刊建設」での上林好之氏による連載、
  「オランダ人技術者エッシャーとデ・レイケの書簡の紹介」平成11年(1999)〜)らしい。
  筆者の上林氏は建設省OBで、在任中は主に中部、関西地方の治水工事を担当していた方である。
  そんな仕事柄、明治初期のお雇い外国人の業績に興味を持ち、研究するようになったとのこと。
   
  その「月刊建設」にて掲載された写真が、11年後に「万世大路を歩く」平成22年(2010))に転載され、
  私の目に留まることになった。
   
 
 

「万世大路を歩く」より転載

   
  上の写真は、現在もオランダに在住するエッシャーのご子孫が保管していたもので、
  上林氏によれば、エッシャーの筆跡と思われる「tunnel de Kariyasu」との書き込みがあるので、苅安隧道坑口として掲載している。
  また、前に並ぶ紳士たちは、明治10年(1877)に苅安新道開削工事現場を訪れたエッシャー三島通庸県令だと言う。
  共に「月刊建設」からの引用であろう。
   
  しかし、苅安隧道にはこのように立派な石造りの坑門などはなく、素掘りのままだったはずである。
  この点には「万世大路を歩く」の著者である阿部公一氏も同じく疑問を呈している。
   
  この隧道は苅安隧道ではなかろう。
  阿部氏は「坑門上部に花飾りのような装飾がある」と書いているが、不鮮明ながら確かに要石の上に何らかの装飾があるように見える。
  いろいろと興味深く、そして謎の多い隧道である。
  この隧道はどこに掘られ、なんという名称だったのだろうか? 前に並ぶ紳士たちは、いったい何者なのだろうか?
   
  南置賜郡万世新道ノ内字 苅安隧道 西口ノ図
   

   
  その後、前述した「オランダ人技術者エッシャーとデ・レイケの書簡の紹介」を書いた上林好之氏による単行本、
  「日本の川を蘇らせた技師デ・レイケ」を入手した。
  出版されたのは平成11年(1999)と16年も前のことで、その間ずっと同書の存在に気付かなかった自分の不明を恥じるばかりだ。
   
  この本に、上記「謎の隧道」の鮮明な写真が掲載されていた。
  説明には、「栗子のトンネルにて。 前列左から通訳の杉山、三島通庸、エッシャー、副知事相当職の権令」とある。
  そのように判断した根拠は記載がなく、また、「苅安隧道」から「栗子のトンネル」に変更した経緯にも触れてない。
   
 
   
  一部拡大
   
  それにしても、見所もあれば疑問も満載の写真である。
「月刊建設」ではエッシャーのメモにより苅安隧道とされた隧道が、この本では「栗子のトンネル」と変更されている。
  「苅安隧道ではなく、栗子山隧道でした」と訂正されたわけでもなく、「栗子のトンネル」とぼんやりした表現に変わった。
  苅安隧道も「栗子のトンネル」のひとつではあるが、いずれにしろ万世大路にこのような隧道はない。
  ちなみに、栗子山隧道が貫通したのは明治13年だが、エッシャーは明治11年7月に離日しており、既に日本にはいない。
   
阿部氏の言う「花飾りのような装飾」とは、獅子? 虎? 狛犬? のレリーフであった。
  「万世大路を歩く」を書いた時点で、阿部氏はこの本を読んでなかったのだろうか。
  これが国内で撮影されたものだとすると、動物の意匠が施された非常に珍しい隧道だと言える。
  場所がどこで、なんという名称だったのか、ますますもって興味深い。
   
説明が本当ならば、と前提が必要だが、エッシャーと三島県令が並んで写っている写真は初めて見る。
  三島の写真だけでも珍しいのに、エッシャーと並んでいるのである。
  エッシャーが三島の招きで山形を訪れ、各地の工事現場を巡回したことは知っていたが、まさか写真が残っていたとは知らなかった。
  (本当に三島なのか、本当にエッシャーなのか、そもそも撮影地は日本なのか、、、は確認できてない)
  (本当なのであれば、『明治11年7月以前に完成した、山形県内の隧道』と言うことになり、かなり絞られるだろう)
  (万世、三崎、猿羽根、磐根、雄勝、小国、関山・・・・イザベラ・バードもこのレリーフ隧道を通ったかも知れない)
   

       

東北地方におけるエッシャーの足跡

         
明治10年 (1877) 4/28   東京から越後へ向かう
        同行:助手兼通訳の杉山信平(内務省土木局10等属)、おまつ、松田(召使い)
    6/15   三島の要請で新潟から山形へ向かう
        湯野浜(鶴岡市)にて三島と合う
        鶴岡市内に建設した小学校などを、馬車にて見て回る
        栗子山隧道の工事現場に寄り、換気装置のスケッチを渡す
        新道開通式に出会い、10円寄付する
    7/13   福島県の中通りを南下して帰京 (二本松、郡山、須賀川、白河を通過)
         
        その後も福島、山形、新潟には2度出張している
        福島県飯坂の鉄製吊り橋の強度計算を依頼される (十綱橋のことだろうか)
        鶴岡の赤川に架かる橋の開通式に、三島と共に参列
         
明治11年 (1878) 7/1   日本を離れ、オランダへの帰路につく
       

「日本の川を蘇らせた技師デ・レイケ」より

 


 <参考>

  「庄内日報社」より転載
  動物の意匠が施された隧道が、国内に全く存在しなかったわけではなかった。
  これは明治19年(明治24年説もあり)、山形に開削された加茂坂隧道の写真である。
  坑口上部には日本の職人の作による、「虎」と「龍」の彫刻が飾られていた。 この写真は「虎」の方。
   
 
「虎」のレリーフは昭和14年の改修の際に取り外され、
坑口脇の法面に移設されたものが現存する。
もう一方の「龍」は行方不明となってしまった。
 
平成15年に旧道化し、静かな余生を送っている。
 
「山さ行がねが」 ヨッキれん氏提供 (平成16年撮影)
 
 
     

      [[TOP]  [寄り道]  「隧道Web」