秋元橋 (北塩原村)   2007.06    [TOP]  [寄り道]  [橋梁Web]   

「日本の廃道」第17号に投稿した記事に加筆・修正を加えたものです。


   
猪苗代湖から唯一の流出口である日橋川に架かる十六橋が、
天明6年(1786)、会津藩によって23径間の石橋に改築された。
水門はなく、戸ノ口堰、布藤堰に取水する以外は日橋川に流されていた。
 
明治になって東方にある安積平野を開拓する国家事業が始まり、
湖水を灌漑用水として利用することが決まった。
そこで旧来の石橋を取り壊し、
新たに16径間の水門兼用の石橋を建設して猪苗代湖の水位を調整した。
これが明治13年(1880)に完成した、安積疏水・十六橋水門である。
(左図)
土木学会付属・土木図書館」様より転載 (使用許諾済)  

 

当時の親柱が現存している。

会津若松市にある白虎隊記念館の入口脇に

欄干と一緒に展示されていた。

深々と「十六橋」と刻まれている。

 

 

 

 

もう一つの親柱が、現十六橋の袂にある公園に保存されている。

何の説明もないので、一般の人にはこれが何であるか判らないであろう。

よく見ると、周囲を囲む土留めは古い欄干を流用したものであった。

 

 

 

 

 

 

 

大正時代になって猪苗代湖の豊富な水が電源として着目され、

九州鉄道の社長であった仙石貢猪苗代水力電気を設立し、

日橋川沿いに複数の発電所を建設することになった。

発電所は大量の水を必要とすることから、

水門を新設することになり、明治の石橋兼水門を撤去。

大正3年(1914)、電動式ゲートを備えた制水門が完成した。

(十六橋水門 近代土木遺産 ランクA)

 

その際、車道は分離して設置されることになり、

やや上流に建設された。

この橋も現存しており、現在でも自動車の通行が可能だ。

(十六橋 近代土木遺産 ランクB)

 

奥に「戸ノ口水門監守所」の建物が保存されている。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


水門建設と同時に猪苗代湖の渇水対策も実施された。

明治21年(1888)、磐梯山の噴火により、湖の上流に当たる

川が堰き止められて出来た三湖(桧原湖・小野川湖・秋元湖)に

堰堤と水門を設置し、必要に応じて猪苗代湖に水を供給する

体制を整えたのである。

左は秋元湖西岸に建設された堰堤。奥に水門が見える。

 

秋元湖での堰堤工事に伴ない、工事用道路が敷設された。

その際、長瀬川に橋が設置されたわけだが、なんとっ!

90年前の工事用橋梁が今でも現役の車道橋として現存していると知った。

「近代土木遺産2800」に掲載された情報を元に設置場所を突き止めると、

驚いたことに何度も通ったことのあるおなじみの橋であった。

それがこの秋元橋である。

 

過去に通行した時には全く気にも留めていなかった橋の詳細を観察する。

親柱は4本共あるが、全て無銘。

欄干もこれといった特徴はない。

これらは後補のものである可能性もある。

 

切立橋にあるような説明板もない。

 

 

河原に下りて側面から見る。

3径間の上路式ガーダー橋であるが、

最も長い中央の桁がきれいな曲線を描いている。

下曲線プレートガーダー橋は国内唯一とのことで、

「近代土木遺産 ランクC」と評価されている。

 

 

 

この特徴的な形状から、「近代土木遺産2800」では転車台、

あるいは天井クレーンからの転用ではないかと書かれているが、

桁の側面にある巨大な銘板からこの橋の生い立ちが判明した。

CRAVEN BROTHERS クラベンブラザーズ社
25TONS 25トン
1896 明治29年製
MANCHESTER マンチェスター

 

 

銘板の情報を元にnagajis氏が見つけてくれたのが、この写真である。

鉄道車両工場で客車を吊り下げている天井クレーンは、

秋元橋の主桁とそっくりではないか。

イギリス・マンチェスター市にある「産業技術博物館」のサイトに

クラベンブラザーズ社に関するページがあった。

1853年に創業した総合機械メーカーで、海外へも輸出していたが、

現在は廃業しているとのこと。

 

銘板を拡大すると「15TONS」とある。

秋元橋のは「25TONS」とあるから、それよりも下位のものだ。

橋桁は両端が切断されたような形状をしているが、

これは機種の違いによるものなのか、

橋に転用する際に切られたものなのかは、今のところ不明。

 

(使用許諾済)

 

明治期の殖産興業の時流に乗って日本に輸入され、

どこかの工場で使用されていたクレーンのうち2本が

遠く福島県の山村に運ばれて、橋桁として転用されたわけだ。

 

 

 

 

 

下に潜って細部を観察する。

スティフナー(補剛材)はイギリス製に多く見られるJ型ではなく、

アメリカ式の直線であった。

 

補機を固定していたと思われるボルト穴が、

今もそのまま開いている。

 

 

両脇の桁は一般的な直線のガーダーだが、

本体にボルト穴が並んで開いている。

こちらも何かからの転用のようだ。

 

 

 

 

 

磐梯山噴火に伴なう土石流により、

現在裏磐梯と呼ばれるこの地域が壊滅的な被害を受けてから、

まだ20数年しか経過していない時期に架けられた鉄の橋に、

地元の人々は復興の光を感じたかも知れない。

 

 

 

 

この後、周辺の川や水路にある橋を見て回ったが、

架け替えられたか、どれも新しいものであった。

明治時代にクレーンとして輸入され、

大正初期に工事用橋梁として生まれ変わった秋元橋は、

今も人や車を通し続けている。

 

 


  (追記1) 2010.05
  後日、この記事を見てくださった東京電力社員の方からメールを頂いた。
  情報によると、この道路と橋は東電が所有しており、「備品リスト」的な帳簿にも掲載されているとのこと。
  橋名は「秋元橋」ではなく、河川管理上は「小野川橋」と呼ばれている、とのことであった。
  下を流れる河川は長瀬川のはずだが、それとは関係なく社内では「小野川橋」になっているようだ。
   
  (追記2) 2018.06
  先月(2018.05)頃、この橋が撤去された、との情報が入りました。
   

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