信夫橋 (二代目) (福島市 荒川) 2008.10 [TOP] [寄り道] [橋梁Web]
奥州街道が陸羽街道と名称が変更された明治時代、道路の改修と同時に橋の架設も盛んに行われた。
福島の南を流れる荒川には木橋が架けられていたが、明治16年(1883)台風により流出。
当時福島県令であった三島通庸の命により、明治18年(1885)13径間からなる石製アーチ橋が完成した。
これが二代目の信夫橋で「十三眼鏡橋」の愛称で親しまれたが、明治24年(1891)大洪水により崩壊してしまう。
明治30年(1897)に新しく架け替えられたため現存していない。
この「三島県令時代ノ信夫橋」には親柱が8本あり、
その内の何本かは今でも保存されているという。
福島一小に3本、福島一中と信夫山公園に1本ずつ、
他の3本は行方不明とのことだが、この本の発行年が
昭和40年(1965)と古いため、移設の可能性もある。
「土木学会付属・土木図書館」様より転載させて頂きました(使用許諾済)
昭和45年(1970)に発行された「ふくしま散歩」より引用。
改訂版(S52)からこの写真が加えられた。
信夫橋の絵図に福島一小にあるという親柱の写真が
添えられている。
擬宝珠がある凝った意匠のもので、資料によると
高さが3m12cmもある非常に大きなものらしい。
直径は62cmあり、地元産の花崗岩を使ったとのこと。
「ふくしま散歩」の目次にはもう一本、福島一中にある親柱が載っている。
こちらは擬宝珠が失われているため違った印象を受けるが、
「信夫橋」との刻印が鮮明に見える。
背景から想像するに「江戸海道」の道標と並んで保存されていたようだが、
これは既に移設済みという情報を事前に得ている。
〜8本の親柱を探せ!〜
3〜40年前には現存していたという5本の親柱は今でもあるのだろうか。
それらを見つけ出し、カメラに収めることは可能だろうか。
そして残る3本の行方は・・・。
秋空の4号バイパスを北に向かった。
昭和7年(1932)に完成したコンクリートアーチで三代目にあたる。
二代目を意識したようなデザインが興味深い。
奥州街道、陸羽街道、国道4号線と変遷し、
現在は県道である。
現信夫橋の北側に石柱が設置されている。
何の説明もないが、これがかつて福島一中に保存されていた
二代目信夫橋の親柱である。
擬宝珠が失われているとはいえ、現物は2mを越える大きなものであった。
漢字で「信夫橋」と彫られているのが判る。
南側には二代目の写真を添付した丁寧な説明板があるのだが、
ここにもあって然るべきと思う。
橋名が彫られた位置を6時とすると、10時の方向にいくつかの穴が開いている。
欄干を嵌め込むための凹みであろう。
この「8、呂、呂」のパターンは今後も出てくるが、
「右下がりの8」はこれが唯一であった。
陸羽街道にはもう一つ石橋が架けられている。
それがこの「松川橋」で今も現役である。
この親柱を参考にすると、南東が漢字、
北西が平仮名なので、この例に倣うと
上記の親橋はNo.8ではなくNo.1ということになる。
相互リンク先の「山口屋的文化MEN類学」様に、「福島二中にて発見」
との新情報があったので行ってみる。
生徒のいない休校日を狙って行ったのだが、競馬場のすぐ隣ということで、
なんと各辻に警備員が立っているではないか・・・。
逆にヤバくないか? と一時緊張したがすんなり正門から入れた。
いざ入ってみると校庭ではサッカーをしたり、散歩したりの人がいたので、
世情を反映して厳重に閉鎖されているというわけでもないようだ。
緊張して損した(笑)
擬宝珠はあるが、上部のタマネギが失われている。
これには橋名がなく、両側にホゾ穴があるので「子柱」らしい(勝手に命名)。
ホゾ穴はセメントで埋められているが、位置から考えて、No.4かNo.5だろうか。
No.1と比べると、上画像の「8、呂、呂」の「8」は離れている。
切断された親柱上部と思われる。
「8」がくっついており、形がNo.1と鏡像になっている。
この緑地から西へ進むと中庭に入り、ここでもう一本の親柱を発見する。
2方向にホゾ穴が開いているので子柱と思われるが、
穴の方向が直角っぽいな・・・。
欄干の平面形が左右対称ではなかったと言うことだろうか?
さらに「8」ではなく、丸穴が一つしかない。
1本目同様、他に例のないパターンである。
変わってるからNo.2かNo.7だろうか。
すぐ脇に野口英世博士の胸像があるのだが、
銘板の位置が余りにも不自然だな・・・。
裏に回ると、ああ、やっぱり!
穴をセメントで補修した跡がある。
太さといい、これも親柱に違いなかろう。
銘板はホゾ穴を削り広げた部分に設置したようだ。
と言うことは、先ほど見た切断された上部の片割れがこれだろうか。
ホゾ穴が前後にあると言うことは、親ではなく子だったのか?
「8」の形状で親子の判断はできないようだ。
各親柱の元位置を特定したいのだが、
一定の法則には当てはまらないようで難儀する。
次に福島一小に行くため、近くの県庁駐車場にクルマを停める。
警備員氏に「板倉神社に行く」と言ってしまった都合上、
先に神社に回ったらここでも遭遇してしまった。
目的は他にあったのだが、結果オーライ(笑)
前後にホゾ穴なので子柱。
No.4かNo.5だろうか。
2本目のものと似ているが、これは「8」がくっついている。
荒削りな基部が見えているが、本体よりふた回りほど大きいようだ。
あれれ?
「福島県直轄国道改修史」に掲載された三箇所の保存場所のうち、
一箇所も回らないうちに5本とも見つけてしまったのだが・・・。
一小の校内に入るには、東側にある公園を横断した方が近道だし、
何といってもその方が怪しくない(笑)
そんな安易な気持ちで入った公園内で親柱発見!
しかも2本も!
まずは南側のものから分析開始。
擬宝珠欠損。
「8、呂、呂」の形状は5本目と全く同じだ。
よく見れば、ここは幼稚園の敷地内みたい・・・。
貴重な土木遺産が子供たちの遊具と化しているようだが、
ちゃんと地元の歴史の勉強に役立っているのだろうか?
縦に彫られた細長い溝は、2本目、5本目にも見られるのだが、
どうにも目的が判らない。
ホゾ穴をセメントで埋めた後に彫られているので、
親柱を何かに流用する際に施されたように思われる。
校門の門柱かな?
これには折れた箇所を補修したような跡がある。
なんといっても8本の親柱の中で、唯一残った擬宝珠だから
希少である。
表面をセメントで補修して平滑にしたような痕跡があるが、
現状はあまり大切にされているとは言えないようだ・・・。
残り5個の擬宝珠はどこに行ったのだろうか。
そしてついに発見した正真正銘の「名入り親柱」がこれである。
県庁前の幼稚園のド真ん中で「発見」もないものだが(笑)
大きく、そして深く「志のふはし」とある。
どうやらこれが「ふくしま散歩」にてカラーで掲載されたもののようだ。
その写真をよく見れば橋名も読み取れる。
先の「松川橋の法則」に合わせると、北西の親柱でNo.8と言うことになろうか。
三島も読んだであろう文字を120年後の今、私も見ている。
文字に沿って指でなぞってみる。
ホゾ穴の位置からNo.1よりも深く埋められていることが判る。
完成当時から擬宝珠は別パーツだったようだ。
一小に移設された当時は擬宝珠も付いた完全形だったが、
危険防止のためか今は分離されてしまっている。
「鉄筋を入れれば安全なのに」と思って上面を見たら、
中央にその痕跡があった。
さて幼稚園から一小の校庭に入り、中庭に達する。
最後の1本はここにあるのだろうか。
それとも信夫山公園にあるのだろうか。
ここにはカッコイイ台座にのった二宮金次郎像しかないが・・・。
この台座、どうも見覚えがある。
これって欄干用のホゾ穴ではなかろうか。
やはり信夫橋の親柱、いや「子柱」じゃなかろうか。
やや細めに感じるのは、ホゾ穴を消すためにひと皮剥いた結果か。
そのために丸い穴が完全に消え、最上部が太くなったらしい。
元々太かった基部を整形して見栄え良くし、
上下を逆にして銅像の台座と成した。
丸い穴は地中に埋もれてるに違いない。
いずれにしろ、全て妄想である。
これで8本全部発見したと言い切って良いのかどうか、
モヤモヤしたまま終了するのは当サイトの仕様だ(汗
8 | ふくしま南幼稚園 | 「志のふはし」 | |||
7 | 第一小学校 | 改変、二宮像 | |||
6 | ふくしま南幼稚園 | ||||
5 | 板倉神社境内 | ||||
4 | 第二中学校 | ||||
3 | 第二中学校 | 切断、野口像 | |||
2 | 第二中学校 | ||||
1 | 信夫橋北側 | 「信夫橋」 | |||
7本までが市有地内にあるので福島市が一箇所に集め、
ミニ信夫橋を再現・展示することも不可能ではなさそうだ。