板谷街道・李平宿1                   [TOP] [MENU]

緩やかな坂を下るとすぐに平地に出る。

この部分の道は一段高くなっている。

いわゆる築堤なのだが、これは

当時のものではないだろう。

 

 

 

 

山間部の僅かな平地を利用して

1613年米沢藩上杉氏の家臣、阿部薩摩によって

開設されたのがここ李平宿である。

李平村の名主兼検断も代々阿部家が勤めた。

画像右側(北)が阿部家の跡地である。

村には民家が52戸あったそうである。

  

  <その後の李平村>

  明治14年に万世大路が、明治32年に奥羽線が開通すると李平宿の通行は全く断絶した。

  さらに明治35年なんとか残っていた18戸中、13戸が火事により消失。

  大正7年全戸が移住した為、李平村は廃村になる、 という悲しい経過を辿った。                

阿部家跡地の南側には標柱がいくつか見られる。

史跡李平宿跡地」とあるが、行政が積極的に

「史跡」として保存管理しているとは思えない。

家屋の土台石や井戸跡などがあるはずなのだが、

藪に埋もれ全く判らない状態なのである。

中央には「義人代官古河善兵衛自刃之地」とある。

詳しくはこちら

 

李平宿開村370年記念供(養碑)

現在でも旧宿場の住人の子孫が、

ここを祖先の地として愛着を持っている様子が

痛々しいほど伝わってくる。

 

 

 

 

南側の山際には、ほとんど唯一とも言える

遺構が見られる。

由来不明の石垣である。

 

 

 

 

 

宿場の西側に下る。

左の土手の上には泉安寺があった。

その先に鳥居が見える。

その上には当然神社がある。

 

 

 

 

土手を登るとそこは墓地であった。

泉安寺は米沢城下・林泉寺の末寺として

李平宿開設と同時に開基されたが、

次第に衰微し、天保年間1764〜1780)には

無住職になり、明治4年には廃寺になった。

 

 

 

墓地の東端には丸い墓石が並び、

傾いた標柱も建っている。

名主・阿部家の墓であろう。

倒木の上、墓を守るようにリスが走る。

 

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