白棚鉄道・梁森支線 (白河市・旧表郷村) 2007.10 [TOP] [寄り道] [廃線Web]
● | 白棚鉄道>国鉄・白棚線>JRバス専用線、という特異な変遷を辿ったこの鉄道に、 |
開通当初、支線が存在していたとは私も知らなかった。 | |
最初に知ったのは「図説 白河の歴史」の記述で、「梁森駅から炭鉱まで引込み線があった」とある。 | |
「痕跡はない」とのことなので「山中を通る細いトロッコ線でもあったのか。そりゃ消えるだろうな。ふ〜ん」 | |
といった程度だった。 | |
次に目にした「白河市史」によると、東京の安川栄次郎がこの地で明治後期より炭鉱を経営しており、 | |
その安川は白棚鉄道の創立メンバーの一人でもあることが判った。 | |
鉄道による石炭輸送に期待しての参加であったに違いない。 | |
ここに至り「引込み線と言うのは本線と同じく、軌間1067mmの本格的なものだったのでは」と思うようになった。 | |
またこの支線の延長は1マイル(約1.6km)で、本線開業から2年後の大正7年(1918)には炭鉱会社に | |
売却されていたことも判った。 「梁森支線」(仮名)から「白河炭鉱専用線」(仮名)になったわけだ。 |
早速、航空写真で梁森付近を見てみる。
すると白棚鉄道レポを書いた時には全く気が付かなかった
セクシーな曲線が見えるではないか。
周辺の細道とは明らかに出生の違いを感じる。
消えてしまったのではなかったのか?
残っていたのか?
本支線の合流ラインなどは、いかにも鉄っぽい。
「国土地理院撮影の空中写真(昭和50年撮影)」
次に、現状を確かめるべく地形図を見る。
昭和50年(1975)の航空写真に写っている曲線は
そのまま現存しているようだ。
車が通れる道であるようだが、ゴルフ場の建設による変状の可能性も気になる。
ここまで判れば、あとは現場だ。
「国土地理院発行の2万5千分の1地形図(磐城金山)」
梁森駅から棚倉方面を見る。
右奥の細道が鉱山へ続く支線跡であろう。
やや広くなっているこの辺りが分岐点だろうか。
一時「鉱山口」という名前だった、との情報もあったが真偽は確認できなかった。
廃止年に関する記述がないのは、本線と同じ運命を辿ったからだろうか。
本線は鉄の供出のため昭和19年(1944)にレールを外されてしまっている。
輸送手段を失った炭鉱も休山に追い込まれた。
銀色に輝くススキと、黄色い花を付けたセイタカアワダチソウに挟まれた右カーブを進む。
その先には大規模な築堤が存在していた。
緩やかなカーブを描きながら奥へと続いている。
単なる作業道ではあるまい。
地元ではこの道の由来が語り継がれているのだろうか。
車同士の離合がなんとか可能な程度の幅員はあるが、
ゴルフ場から出てくるのは高級車ばかりなので気を使う。
炭鉱は左奥の山上にあった。
西に一つ山を越えた所には金鉱山もあり、
金山集落の名の由来となっている。
嬉しくてたまらない。
既に2mほどになっているだろうか。
この溜め池は白鳥が飛来するようになってから観光地となった。
私も過去に訪れたことがあるが、
まさかこの道が鉄道由来とは思ってもみなかった。
この辺りも低い築堤になっている。
桜並木はいつ頃植えられたものだろうか。
左の建物の奥あたりが終点だったと思われるが、
私有地内であるためこれ以上の進入はできない。
ホームとかホッパーとか残ってないものか・・・。
安川が経営していた白河炭鉱は後に昭和炭鉱と名を変え、
他にも日産炭鉱、白棚炭鉱など中小の炭鉱があったのだが、
鉱山跡は整地されてゴルフコースになってしまったようだ。
この先は峠になっており、棚倉町の境界標が建っていた。
明治27年(1894) | 安積平野に入植した旧久留米藩士らが、炭鉱から白河駅まで馬車軌道の敷設を請願。 住民の了解を得るも、開坑には至らず。 |
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明治34年(1901) | 安川栄次郎が梁森にて石炭鉱山「白河炭鉱」を起こす | ||
大正5年(1916) | 安川らが参加した白棚鉄道が開業する | ||
大正7年(1918) | 鉱山に通じる支線を炭鉱会社に売却 | ||
大正9年(1920) | 「白河市史」には「炭鉱まで鉄道線を引き込み、大正9年まで輸送、のちトロッコで運送した」とある 機関車での輸送を止め、トロッコを手押しで運んだ、の意味だろうか |
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昭和16年(1941) | 経営が悪化した白棚鉄道を国有化。国鉄・白棚線となる | ||
昭和19年(1944) | 不要不急線としてレールが撤去される | ||
戦後、採炭が再開されるものの産出は伸び悩み、閉山が相次いだ | |||
昭和38年(1963) | 全ての施設が石炭合理化事業団に買収される |