半田銀山専用軌道 (桑折町)   2009.03        [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]

 

<半田銀山の略歴>

福島県北部にあった銀山で、世界遺産にもなった石見銀山(島根)、生野銀山(兵庫)と並んで日本三大銀山と呼ばれた。

採掘は1000年以上前からと言われているが、本格化したのは越後から配置換えされた上杉氏がこの地を支配してからである。

旧領にあった佐渡金山にて蓄積された優れた採掘技術が生かされたのであろう。

信達地方が没収されてからは幕府の直営となり、佐渡、石見、生野と共に幕府の財政を支えた。

幕末に一度閉山となったが、明治になって近代的な技術が導入され最盛期を迎えた。

大正期には売鉱のピークを迎えたが、事故や資源枯渇により昭和25年(1950)に休山、昭和51年(1976)に廃止された。

 

 

 

ピンクの点線は再光坑トロッコ線

 

 

 

 

 

 

赤の点線が半田銀山専用軌道(推定)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


前述のように明治になって半田銀山の生産量は増え、

ついには鉱石を他社に売却するまでになった。

その運搬を容易にするため、女郎橋選鉱場から東北本線・桑折駅まで

軌道を設置した。 完成は大正6年(1917)4月。

実はルートが一切不明であるが、醸芳小学校の写真に偶然写り込んだレールから

位置を推定して地図に記入してみた。

(昭和の撮影)  

 

簡単な軌道のようで、大部分は羽州街道上に敷設されたものと思われる。

当初は手押しであったが、後に馬力になった。

明治42年(1909)には396dだった売鉱は

大正元年(1912)には5273dに激増し、

大正6年(1917)には11676dに倍増している。

 

(東北本線桑折駅) 

 

明治20年(1887)開業の桑折駅にはレンガ製の危険品庫がある。

現在でも物置として使用されているようである。

 

 

 

 

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 半田銀山・再光坑トロッコ線 (桑折町)   2009.03        [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]

 

 

 

ピンクの点線が再光坑トロッコ線

 

 

 

 

 

 

赤の点線は半田銀山専用軌道(推定)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


明治になって導入された近代技術により採鉱量が増加し、

それに伴ってズリの量も増大していった。

ついには鉱山の東を通る羽州街道を越えてズリ捨て場が拡大されることになり、

専用軌道開通2年後の大正8年(1919)、街道に跨道橋が建設された。

それがこの女郎橋で、現在もその橋台が残っている。

ここに軌道が敷かれていた。

 

羽州街道は県道になり、現在は西側にバイパスが開通している。

女郎橋周辺は半田銀山史跡公園として整備され、

半田銀山坑夫供養塔や明治天皇行幸記念碑などが集められている。

 

正面に見えるのが鉱山のある半田山。

 

 

 

本来、女郎橋とは橋台北側を流れる小川に架けられた橋の名であった。

桑折宿の女郎が銀山で働く坑夫をここまで見送りに来て

別れを惜しんだことが由来とのこと。

 

なお旧羽州街道は、町道4234号線としてクルマでの通行が現在も可能である。

 

 

 

旧伊達郡役所に再現イラストが展示されている。

橋台上面よりも更に高い位置に道床があったことがわかる。

ズリをより多く捨てるためにできるだけ高さが必要だったのであろう。

人力でトロッコを押していたようだ。

 

 

 

 

橋台から東側を望む。

人車軌道の橋にしてはかなり大規模である。

複線も可能なほどの幅があるが、実際はどうだったのだろうか。

 

奥に見える壁は東北自動車道で、

その向こう側には今でもズリ山があるという。

 

 

橋台から西側を望む。

軌道の築堤は全く残っておらず、道床を辿ることはできない。

 

左奥に選鉱場があった。

上記の専用線はそこから桑折駅まで伸びていた。

 

 

 

女郎橋から200mほど西に再光坑があった。

坑口脇の建物は鉱山事務所。

坑口に続く切り通しにはレールが見え、

両側にはズリが山を成している。

 

 

(昭和の撮影)

 


東北自動車道の東側に今も残るズリ山。

これは新しい時代のものだから視認が容易だが、

古い時代のものは草木に覆われて判別できない状態だと言う。

 

 

 

 

 

ズリ山の裏には民家が建っている。

2階の屋根よりさらに上にズリの稜線がある。

これでもほんの一部に過ぎないところが凄い。

通算1000年も掘ってればこうもなるか。

 

 

[2010.04追記]

 


再光坑は既に埋め戻されているが、

隣の国見町に二階平坑が保存されており、

当時の様子を伺うことができる。

 

 

 

 

開坑は嘉永7年(1854)と古く、延長は766mという。

 

 

 

 

 

 

 

半田銀山の坑口は数多く存在していたが、

ここと中鋪坑(なかしきこう)以外は全て埋め戻されている。

 

 

 

 

 

 

鉄格子に接近すると内部の蛍光灯が点灯した。

一瞬、監視されているのかと驚いたが、

センサーが反応しただけであった(笑)

 

内部は整備されていて当時の状態とは異なると思われる。

奥へ進めば素彫りの状態が見られるのだろう。

 

 

坑口の上から切り通しを見る。

鉱石を運び、あるいは坑内の排水のため幾多の鉱夫がここを通っていた。

福島刑務所の囚人も派遣されたという。

 

 

 

 

 


このページで引用した古写真は全て旧伊達郡役所内に展示されているものである。

郡役所は明治16年(1883)に建築されたもので、当時の県令は三島通庸、

伊達郡長は腹心で義兄の柴山景綱であった。

大雨の中で行われた完成式典には彼らも参列した。

ちなみに明治期、半田銀山を経営したのも元薩摩藩士の政商・五代友厚で、

三島、柴山とは旧知の仲であったかも知れない。

 

ここには半田銀山に関する資料が常設展示してあり、

無料で観覧することができる。

当時鉱山で使われていた道具のほか、車輪やレールも展示されている。

レールにはなんと「フランス製」との説明があった。

 

 

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