日本畜産専用軌道 (須賀川市・鏡石町 岩瀬牧場)   2010.10/2013.01      [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]

「日本の廃道」第56号に投稿した記事に加筆・修正を加えたものです。


   
とある休日。
福島県中部は鏡石町にある観光牧場岩瀬牧場を訪れる。
以前にも何度か来たことがあるが、いずれも娯楽目的であり、
まさか、「廃モノ」の探索のために再訪することになるとは思いも寄らなかった。
   
売店には新鮮な牛乳から作られた乳製品が並んでおり、
庭園や温室を鑑賞したり体験乗馬もできるし、もちろん牛もたくさんいる。
 
しかし、ここ岩瀬牧場はただの観光牧場とはスジが違う。
その歴史は100年以上も前の明治初期まで遡るのだ。
   

<岩瀬牧場 概史>

         
  明治13年 1880   福島県中通り中部に広がる広大な原野・矢吹ヶ原宮内庁御開墾所が開設される。
六軒原に岩瀬出張所を設置し、日本で初めての西洋式牧場経営を行った。
         ・当時県内には岩瀬第1〜5、西白河第1〜4、石川第1〜2、安積第1御料地があった。
         ・莫大な資金を投入したものの牧場経営はうまく行かず、畑作に切り替えたりしたがその後も赤字が続く。
 

23年

1890   6月25日 旧岸和田藩主・岡部長職(ながもと)子爵が宮内省御料局に岩瀬第1〜3御料地の拝借申請を提出。
         ・西白河第4御料地は陸軍の軍馬補充部に、石川第2は当地を領していた旧守山藩主・松平家に払下げ、
  安積第1は安積疏水により開墾され、他の御料地は県へ管理が委託された。
        7月21日 50年の期限付きで貸借を許可
        8月 土地、施設、家畜など、全てを引渡す。
         ・この急展開に古くから入会地として利用していた近隣住民は困惑し、追って拝借申請を提出。すぐに岡部子爵から一部が返却された。
  24年 1891   日本鉄道により上野〜青森間が開通。
 

34年

1901   鏡石村長を代表として、周辺の12ヶ町村長が日本鉄道に鏡石停車場の設置を申請。
  40年 1907   順宜牧畜株式会社(じゅんぎ設立し、個人経営から会社組織に変更。その岩瀬出張所となる。
         ・会社化は旧岸和田藩士の生活安定が目的と言われる。渋沢栄一も出資者のひとりであった。
  取締役に日下義雄。(旧会津藩士。明治25〜28年まで福島県知事をしていた。3度目の妻は長職の長女だったが後に離婚している)
 

42年

1909   鏡石村長を代表として、周辺の21ヶ町村長が鉄道院(明治39年に国有化)に鏡石停車場の設置を申請。
  43年 1910   日本畜産株式会社に社名変更、岩瀬牧場となる。
         ・県内の他、仙台や宇都宮にも牛乳販売所を設置するなど経営は順調であった。
  44年 1911   鏡石駅が開業。日本畜産が敷地を提供し、駅舎や付帯施設の建設資金も全額負担する条件でやっと誘致に成功。
  大正2年 1913   鏡石駅〜牧場間に軌道を敷設
 

昭和4年

1929   長職の死去(1925)に伴い、所有する株(全発行数の50%)を売却。福森利房が購入し筆頭株主になる。
         ・大正末期から経営が悪化していたが、福森氏による放漫経営のため更に悪化。後に解任された。
 

10年

1935   旧御料地が福島県に移管される。
         ・昭和15年(1940)で50年の貸借期限が切れる日本畜産に対し牧場の返却を求めたが、
  会社側は自動延長が当然と主張し対立していた。
  昭和14年 1939   軌道廃止 (運用期間は26年)
 

19年

1944   西武鉄道堤康次郎が筆頭株主になる。
  20年 1945   福島県と西武鉄道間で妥協案が成立し、日本畜産株式会社岩瀬牧場として再開する。
         ・日本畜産は拝借地の全てを県に返還し、県は日本畜産に牧場地114町を時価で払下げ、同額を県に寄付する。ということで合意した。
  26年 1951   日本畜産を解散し、西武鉄道農場部となる。 (これは帳簿上、一時的に存在した会社だった模様)
        同年、現職の福島県知事である大竹作摩に譲渡する。
        田子倉ダム・滝ダムに沈む地区の住民のために、大竹氏所有の敷地を分譲。
  42年 1967   隣の須賀川市から移転して来る岩瀬農業高校のため、一部を売却。
 

  小針暦二に売却され、有限会社岩瀬牧場となる。 (小針氏が福島交通を買収するのはその翌年)
         ・その後は長らく福島交通グループに属していたが、現在は分離している。
         

今回は大正2年(1913)に敷設され、昭和14年(1939)まで存在した、この小さなトロッコ線について考察してみる。


   
まずは牧場内を散策。
これは昭和8年(1933)に建設された日本畜産の事務所本館で、
現在は「岩瀬牧場歴史資料館」として開放されている。
設計したのは遠藤三郎と言う人で、当時日本畜産の社長だった。
コンクリート製に見えるが実は木造で、外装は石積みを模した意匠になっている。
 
残念ながら、開放されているのは1階だけである。
   
入って右側には応接室があった。
岩瀬牧場は文部省唱歌「牧場の朝」のモデルとなった地でもあり、
作詞した杉村楚人冠(そじんかん)は明治43年(1910)に朝日新聞の記者としてここを訪れ、
紀行文を連載している。
   
左側の事務室には古い資料や写真が展示されていた。
どうやら公文書のようで、貴重な資料の原本を間近に見て興奮してしまった。
しかし当然ながらガラス越しに見るだけで、
筆で書かれた岡部長職の名や順宜牧畜本社の住所を眺めるだけである。
   
これは明治43年(1910)にオランダから乳牛を輸入した際に、
「オランダ乳牛血統協会」から発行された血統証で、日本最古のものとのこと。
Dora XII (ドラ12世)とある。
この証書は各町村史や郷土史誌でよく見るのだが、その原本を見るのは初めてである。
 
先程の公文書もそうだが、
日光が射す場所に展示してあるので、今後の保存状況が心配になる。
   
オランダからは何度か乳牛を輸入しているが、
株式会社となって初めて輸入した時に、友好の証しとして記念の鐘が贈られている。
「牧場の朝」の歌詞に出てくる"鐘"とはまさにこれのことで、
牧場では実際に時報代わりに使用されていた。
内側には「岡部子爵 寄贈 大正15年9月」と刻まれており
現在は鏡石町の文化財に指定されている。
なお、説明には明治40年とあるが、これは現地にて購入した年のことで、
10数頭のホルスタイン種牛と共に日本に着いたのは、翌明治41年(1908)である。
   
さて、資料館を出て他の建物も見てみよう。
この高床式倉庫2棟は「玉蜀黍貯蔵庫」で、(とうもろこし)
明治13年(1880)の建設とあるから、宮内庁御開墾所が開設された年である。
須賀川市指定文化財になっており、最近では福島県の近代化遺産にも登録された。
   
売店の南側に、今は使われてない牛舎が2棟ある。
西棟は東棟の2倍ほどの長さがあり、西棟はT字型をしている。
現役当時は東西合わせて五号牛舎と呼ばれていた。
建設されたのは大正7年(1918)頃とされている。
   
それでは旧牛舎に行ってみよう。
牛舎の両端にはそれぞれコンクリート製のサイロがあるが、
風化が進んでボロボロであった。
このサイロ本体のコンクリートもドーム状の金属部分もオランダから輸入したもので、
日本最古のものらしい。
   
東西棟の間には屋根があり、渡り廊下のようになっている。
   
その屋根の下、セメントで固められた地面に2本のラインが見える・・・。
   
軌道だ。
ちゃんとレールも残っている。
牛舎西棟の暗がりの中に吸い込まれて行く。
   
かなり細いレールが使用されており、軌間も狭い。
両側に並べられているのはレンガだろうか。
   
セメント敷きじゃない部分に一本だけ枕木があった。
長年踏まれ続けたせいか、中央部分が磨り減って丸くなっている。
犬釘もレール同様小さめである。
   
レールと枕木と犬釘
   
軌間を計測してみる。
レール2本分の幅を引くとだいたい508mmだから、20インチ規格になろうか。
主に鉱山の坑内や工事現場で使うのトロッコによく見られる、非常に狭い規格だ。
   
軌道は東棟の中にも繋がっている。
許可を頂いて、内部を見学させて頂く。
   
内部は薄暗くて見通しが利かない。
こちらは土間であった。
枕木に乗ったレールが真っ暗な奥へと続いている。
慎重に進む。
   
やがて、レンガ製の竃(かまど)が見えてくる。
東棟は牛舎というより牛乳加工工場であった。
ここで牛乳を加熱殺菌したり、チーズを作ったりしていたのだろう。
軌道は竃の横で切れていた。
西棟で搾乳し、台車に乗せ、トロッコにてここまで運んでいたようだ。
   
南の窓際にも3基の竃が三角形に設置されていた。
業務用の大型竃とはこのようなものなのか。
   
さて、真っ暗な東棟から、まだちょっと明るい西棟に移動。
かつて両脇には牛が頭を内側に向けて並んでいた。
干草を載せたトロッコが給餌の度に往復していたのであろうか。
現在は古い農機具が展示されているが、山積みされたトレイの陰になって見えない。
   
前述したように、西棟はT字型をしている。
そちらにも軌道が伸びているが、レールは繋がってなかった。
デルタ線になっていたら面白かったのだが、
トロッコの荷は、いちいちここで積み替えていたのかも知れない。
   
西棟の端に達したところで軌道も切れてしまう。
   
旧五号牛舎西棟とサイロ
   
先程の分岐点に戻り、南へ向かう。
 
夜景モードで撮影したら、画質は落ちたがこんなに明るく撮れた。
   
こちらも軌道は扉のところで切れている。
鏡石駅への軌道は、ここから伸びていたのではないかと推測している。(赤い点線)
昭和23年(1948)の航空写真にそれらしき痕跡が写っているのだ。
 
当初は路上(黄線)に併用軌道として敷設されたのだろうと想像していたのだが、
それは牧場の現支配人氏が明確に否定した。
考えてみれば駅までずっと自社の土地だったわけだから、
軌道のルートは自由に最短コースを選べたはずだ。
   
レールの南端
   

 
そこで、新旧の地図や航空写真から専用軌道のルートを推測してみた。
西棟の南から軌道は、すぐに西へ進んで1.5km程先の鏡石駅まで達していたのだが、その痕跡は残っていない。
牧場からは牛乳や乳製品を、駅からは飼料や塩を運んでいた、と伺った。

「国土地理院」より転載・加工


   
この扉の脇に平トロが置いてあった。
しかも、2台ある。
「トロッコが現存する」との情報を得て自力で探したのだが見つけることができず、
支配人氏に教えて頂いてやっと出会えた逸品である。
   
いいところで床板が剥がれており、おかげで車輪と車軸が見えた。
軸受けはどうなってるんだろうか?
   
レールに乗せてゴロゴロと押してみたいものだが、
支配人氏によると、「2人掛かりでもびくともしないほど重かった」とのこと。
   

  専用軌道は物だけでなく、人も運んでいたと言う。
  資料には実際に乗った人の記憶が載っており、
  「トロッコは無蓋で、背もたれのある腰掛があって、背中合わせに大人なら4人、子供なら6人乗れた」とのこと。(鏡石町史)
  記載はないのだが、動力は馬力であったと思われる。おそらく馬子が手綱を引いて往復していたのだろう。
   

   
岩瀬牧場の広い敷地を南北に二分している道は、「開墾道」と呼ばれていた。
国道と宮内庁御開墾所岩瀬出張所を結ぶべく、新たに開削された道だろう。
   
その開墾道の途中に大きな石碑が建っている。
 
奥に見える銀色の塔は岩瀬牧場のサイロである。
   
大きく「移転記念碑」とある。
   
ことは戦後の復興期に起こった只見川電源開発が発端である。
只見川には多数のダムが計画されたのだが、それは集落の水没を伴うものだった。
中でも田子倉ダムと滝ダムは補償交渉が紛糾し、
特に田子倉は豊かな集落だったため住民の抵抗は厳しく、移転交渉は難航した。
(※当時の田子倉住民の収入は、会津若松市の平均より高かったという)
   
しかし、福島県知事・大竹作摩は反対住民らと丁寧に交渉し、ついに合意に達した。
その際、移転先として提供したのが、
当時大竹知事の個人所有となっていた岩瀬牧場の一角であった。
開墾道を挟んだ30ヘクタールが田子倉・滝集落住民の新たな生活の場となった。
移転は昭和30年(1955)だが、この石碑が建立されたのは昭和44年(1969)である。
「やっと生活が安定したので記念碑を建てることになった」、と碑文にある。
サラリーマンと違って農家の「引越し」は落ち着くまでに何年も掛かったようで、
その辛苦に思いを巡らし、言葉を失った。
   

   
開墾道を進んで鏡石駅までやって来た。
なぜかクルマが規制され、人通りがやたら多いなと思ったら、イベントの日だった。
「国際化オランダ祭りinかがみいし」とのことで駅前は大変賑わっていた。
明治期にオランダから牛を輸入したことをきっかけとした交流が、
現在も続いているのだった。
商工会が併設された駅舎は、牧場をイメージしたデザインとのこと。
   
この駅舎が建てられた昭和61年(1986)以前、鏡石駅は木造の駅舎だった。
前述した「日本畜産の負担で建設した駅舎」というのがこれである。
残念ながら、一度も見ぬまま解体されてしまった。

「岩瀬牧場の歴史を今に 第二集」より転載

   
建設当時の写真が残されていた。
疎林の広がる矢吹ヶ原は、まさに"広い原っぱ"そのもののであったようだ。

「目で見る鏡石の歩み」より転載

   

 

「国土地理院」より転載・加工

「Yahoo!地図」より転載・加工


   
駅まで来てしまったので、妄想ルートを辿りながら牧場に向かってみよう。
 
鏡石駅には上下線に挟まれた島式ホームの他、東に待避線と片面ホームがあるが、
後者は現在使われてない。
トロッコの積み替え施設は、その辺りにあったものと思われる。
   
<A地点>
駅東口には北に向かって伸びる怪しげな築堤がある。
これが専用線の遺構、、、、だったら嬉しいのだが、
実は昭和30年代に完成した羽鳥湖用水の堰堤である。
左側にある暗渠が用水路だ。
通水を記念したのであろう。沿線は桜並木になっている。
矢吹ヶ原の水田化は、この水路の完成によりようやく成ったのである。
   
<B地点>
水路の開削や圃場整備により軌道跡は完全に消えているが、
「水路はかつての軌道跡に沿って開削されたのではないか」
という根拠のない妄想がどうしても頭から離れない。
 
右側の鳥見山は山と言うよりなだらかな丘であるが、
軌道も水路も、これを避けて北側を通っていたと思われる。
この付近では開渠になっていて水路は左折して行くが、
軌道は牧場に向かって真っ直ぐ進んでいた筈である。
   
<C地点>
開墾道に向かった水路はどこかで分水していたようで、
鳥見山の東側で地下から上って来ていた。
サイフォンだ。 しかもその先が高架水路になっている。
こういうのも大好物である。
 
奥に岩瀬牧場のサイロが見えてきた。
   
水路沿いの作業道を少し進んだ辺りで、
左から寄ってきた軌道が合流していたのではなかろうか。
   
傾いた支柱をチェーンとワイヤで固定してある。
地盤が柔らかいのだろうが、支柱や樋自体もかなり風化が進んでボロボロである。
   
<D地点>
牧場に隣接した牧草地の手前で水路と作業道は右に逸れて行く。
延々と続く高架水路が素晴らしい。
この水路も福島県の近代化遺産に登録されている。
   
右折する水路に構わず直進しているのが軌道跡だろうか。
サイロが間近に見える所まで歩いて来てしまった。
 
牧場内の軌道跡は正面に見える新牛舎の建設の際に消失したと思われる。
   

   
以上は2010年10月に取材したものである。
それから5ヶ月後の3月、あの東日本大震災が発生した。
断水のため、牧場にいる牛や馬たちは水が飲めなくなり、
その後の原発事故の影響でエサが使えなくなった。
高架水路は壊滅的被害を受け、鳥見山公園の広い駐車場は瓦礫置き場となった。
   
その惨状は、写真や文章ではとても伝えきれない。

2011.06

 

   
<追記>  
2013年1月28日発行の地元紙に、こんな記事が載った。
『明治から昭和期に運搬用で使用  トロッコを復活、旧牛舎内を走らす』
2010年に取材し、ORJ12月号に寄稿した廃線が活用されることになったらしい。
錆び付き、倒れて放置されていたレールを改修し、
トロッコも整備して人が乗れるようにしたようだ。
そのうち再訪して、私もぜひ乗せてもらわねば。

(「マメタイムス」より転載)

 
   

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