飯坂界隈廃線紀行 (福島市飯坂町)   2009.11        [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]

「日本の廃道」第45号に投稿した記事に加筆・修正を加えたものです。


   
  43号で紹介した十綱橋に関する資料を読み進める過程で、ここ飯坂温泉には実に興味深い交通史が刻まれていることがわかった。
  どうしても見ておきたいような遺構があるわけでもなく、逆に痕跡は薄めなくらいなのだが、引かれるように再び飯坂に向かった。
  薄味ではあるが、せっかく興味を持って色々と調べたことなので、ひとまとめにして発表しておくことにする。
 

<信達軌道・飯坂線>

 

 

 

 

 

最盛期を向かえた大正15年の様子

 

 

 

 

 

 

「福島市史」より転載・加工

 

 

国道4号線を北上し、福島市内に入る。

どうせならば、と軌道が通っていた旧国道を進むことにした。

明治41年(1908)、信達軌道がここにレールが敷き、国道上を蒸気機関車が走った。

 

福島の市街地を抜け、松川を渡ると鎌田村に入る。

村の南端、本内集落に大日堂という小さなお堂がある。

この辺りには大日堂前駅があった。

 

その境内に大きな石碑が建っている。

篆額には「福為禍転」(禍転じて福と為す)とある。

これでは何を記念した碑なのかさっぱり分らないどころか、

より本題から外れて行きそうでもある。

 

ここでは漢字でびっしり書かれた碑文を独善的に翻訳しつつ、

信達軌道の歴史に触れてみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

電車が通っていた頃の同所。

中央に「福為禍転」の石碑が見える。

 

「写真でつづる福島交通七十年の歩み」より転載

 

   
大正11年(1922)5月のこと。

福島競馬場に向かう客を乗せた蒸気機関車が付近を通りかかった。

その時、機関車の煙突から出た火の粉が折からの強風に煽られ、

大日堂の向かいにある民家の茅葺屋根に落ちて火事になった。

これをきっかけとして住居や作業小屋など合わせて130棟以上が全半焼する大惨事が発生した。

これを「鎌田村大火」とか「本内大火」と言う。

その後、失火の責任を認めない信達軌道側と、補償を求める罹災者との間で裁判となり、

住民が線路上に座り込んだり、本社に押しかけて抗議する騒ぎとなった。

事件は県北地方の大きな政治・社会問題に発展してしまう。

 

やがて原告と和解し、補償に応じた信達軌道は存続の危機に直面する。

しかし軌道は地域経済や沿線住民にとって欠かせないものであったので、

県庁や中央の財界が動いて信達軌道の再生を図ることになった。

それには危険な蒸気を廃し、安全で速い電化が必須であるとの結論に達し、

合わせて改軌(762mm→1067mm)も実施することが決まった。

 

市街地を走る蒸気機関車は鎌田大火以前にも度々ボヤを起こして問題になっており、

一部には廃止論さえ出ていたのだった。

(後述する飯坂電車の存在も影響があったと思われる)

 

改軌工事は千葉の鉄道連隊による演習の名目で行われたので、

費用、工期ともに最低限に抑えることができた。

後日、電化・改軌に合わせて信達軌道は福島電気鉄道と改称する。

 

これらを総じて、「火事は不幸だったけど、おかげで電化が早まったね」、

とポジティブに表現して「福為禍転」の碑を建立したのであろうか。

福島電鉄に対する"最大限の配慮"も含まれているのかも知れない。

 

(電化の際に廃止された路線の痕跡については2007年11・12月発行のORJ第19・20号で触れている)

 

 

改軌工事中の鉄道連隊の工兵。

人海戦術で一気に進めた様子が伺える。

「写真でつづる福島交通七十年の歩み」より転載

 

 


 

<信達軌道・伊達線>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   
  軌道は国道を北上し、郡境の摺上川を渡ると伊達郡長岡村に入る。
  ここで路線は東西に分かれていた。長岡分岐点と言う。
  東は保原を経て掛田に達し、西は飯坂に向かう。
  長岡〜飯坂を結ぶ道路は万世大路の開通に合わせて開削された新道で、伊達街道と呼ばれた。
  レールはこの路上に敷設されていた。
   

<A地点>

信達軌道の本社は、当時この画像左側のブロックにあった。

鎌田村大火の罹災者が抗議に押しかけたのもここである。

 

本社付近で伊達駅に向かう短い路線が右に分岐していた。

ちょっと寄ってみよう。

 

中央の工場は伊達製鋼。 昭和12年(1936)に福島電灯が余剰電力消費を目的として設立した福島電気製鋼所が前身である。
  また、伊達駅周辺では小野新町駅と同様、東北カーバイト→鉄興社という変遷も見られた。
   

<B地点>

これが伊達駅で、駅舎は昭和14年(1939)完成の古い建物である。

明治28年(1895)の開業当初は長岡駅と言った。

実は、この地に駅の設置を要望したのは飯坂温泉の人々であった。

信達軌道が開通するまでは、ここが飯坂温泉へ最寄りの駅だったのだ。

駅〜温泉間には馬車や人力車が通い、温泉客を運んでいた。

駅構内に立場ができるほど繁盛したと言う。

もちろん地元長瀬村も積極的に誘致した。3000坪もの土地を無償提供したのだ。
  当初の予定ではもっと南の瀬上村に設置の予定だったのだが、地元住民の反対に合って停滞していた。
   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<C地点>

さて、A地点に戻り西へ進むと東北本線を越えるための跨線橋があった。

その跨線橋も車道として架け替えられ、伊達街道も国道399号線になっている。

東湯野村を経て、終点のある湯野村に入る。

 

併用だった軌道はここで分かれて左の専用軌道を進んでいた。

すぐに小川を渡るが、橋の遺構はない。

 

<D地点>

やがて西根堰&車道と交差する。

右の細道が専用軌道跡で、ここには短い橋があったはずである。

 

現在西根堰は暗渠とされ、その分車道(左)が拡幅されている。

 

 

 

舗装されているが、離合不能なこの細道にクルマは入れない。

リンゴ畑を貫く軌道跡を歩いて進む。

 

県北地方は果物の一大産地である。

信達軌道はリンゴ、桃、梨、サクランボなどの輸送も担っていたのだ。

 

 

 

南側に広大な敷地の工場が見える。

ここには、やはり県北の特産物である蚕糸を加工する製糸工場があった。

摺上川がもたらすきれいな水と豊富な電力が工場を誘致したのである。

昭和になって片倉財閥に買収され、

現在はその片倉系列の薬品会社「トーアエイヨー・福島工場」になっている。

大正15年(1926)9月から昭和2年(1927)2月の5ヶ月間だけだが、

ここには製糸場前駅が設置されていた。

   
   
やがて軌道は住宅地の中に入って行く。

右奥の建物は製材所。

左の畑を囲う柵が枕木の再利用であることを発見して思わずニヤける。

   
   
<E地点>

製材所の角で踏み切り跡を思わせる車止めを見つけて嬉しくなる。

資料によって違いがあるので容易に断定できないのだが、

開通当初(明治41年)の終点・十綱駅はここにあったと思われる。

大正3年(1914)になって延伸され、この奥の橋本に駅を移設。

大正12年(1923)には飯坂駅と改称し、さらに昭和18年(1943)、湯野駅に変わっている。

(以上は「日本鉄道旅行地図帳」によるが、これは「市史」の記述とは異なる)

   

すぐ先が変則的な五叉路になっていた。

ここにも踏み切りがあったと思われるが、痕跡は何もない。

 

 

 

 

 

 

<F地点>

さらに進むとAコープの駐車場に入り、すぐにフェンスで遮られる。

電柱の影に見える白い家が建っているところがその続きである。

 

迂回して進む。

 

 

 

白い家の裏側は広い空地になっていた。

ここはすでに湯野駅の構内である。

現在は整地されて駐車場になっている。

 

 

 

 

 


 

 

大正8年(1919)出版の「飯坂湯野温泉史」に掲載された地図。

右下から真直ぐ来た軌道が北に向きを変え、車道に接している。

こんな線形を記した地図は初めて見る。

なぜこのようなことになったのだろうか?

 

 

 


その駐車場から終点・湯野駅方面を見る。

廃線時には真直ぐ進んだ所に駅舎があったのだが、

上記の古い地図を見ると軌道のラインは右に曲がり、車道に達した所で切れている。

これは更なる延伸を目論んでいた痕跡なのだろうか?

 

この狭いエリアで駅の位置も、向きも変更があったことになる。

 

 

湯野駅構内は、信達軌道の後身である福島交通のバスターミナルになっている。

バスの右側に見えるコンクリート面が湯野駅のホームの遺構である。

左側にある石造りの蔵は当時からあるもので、

湯野駅を撮影した写真にしばしば登場する。

 

 

 

 

 

湯野駅の様子。

石造りの蔵が右側に写っている。

駅舎は廃線後も残っていたが、2000年に解体されてしまった。

支柱基部の穴だけが今でも残っていた。

「写真でつづる福島交通七十年の歩み」より転載

 

 

終点から起点方向を振り返る。

奥にはレールが並ぶ操車場があり、貨車が並んでいた。

 

かつての線路上にぴったりと合わせて停車しているバスが、妄想を掻き立てる。

 

 

 

 

バス停には今でも"駅"の名が残っている。

粋な配慮 ----- と言うではないだろうな・・・。

でもこういうのは地味に嬉しい。

 

 

 

 

 

前述の古地図には、ここに軌道の記号が描かれている。

道路の右半分だけがコンクリート敷きなのは旧駅ホームの痕跡だろうか?

摺上川を越えて対岸の飯坂村まで、あるいはもっと先まで軌道を延伸する計画でも

あったかのように想像してしまうが、そのような特許を得た形跡はない。

 

 

 

 


■ 疑問解決か ■

疑問1 : 開通当初の十綱駅はどこにあったのか。

疑問2 : 湯野駅は構内で移転したのか。

 

この2点を解決できないまま、校了とするつもりだったが、

ヨッキれんさんより提供して頂いた地形図により、

取りあえずの着地点を見つけることができた。

(明治41年「福島」より転載)

 

古い地図ゆえ見辛いので着色してみた。

"機関軌道"とあるのが信達軌道のことで、

その記号の西端は建物に塞がれる形で切れている。

この建物こそが明治41年開業当初の十綱駅ではなかろうか。

そこから西へ伸びて北にカーブしている実線は、

途中で横断した西根堰の延長に見える。

つまり道路を覆っていたコンクリートは水路のフタだったのだ。

「飯坂湯野温泉史」の地図の製作者は、

この水路のラインを軌道と読み違えたのではなかろうか。

ちょっとがっかりな結末ではある・・・。

   

 

<湯野電気索道専用軌道>

明治末期、飯坂から遠く離れた保原町の大石嘉作が伊達電力という会社を興し、

摺上川の急流を利用して茂庭発電所を建設した。

しかし、思ったより電気の消費が伸びなかったため、

大石氏は大正元年(1912)、索道による物資運搬会社「湯野電気索道」を設立する。

索道による一般貨物輸送事業としては国内3番目という早さだったが、

大正9年(1920)頃に廃止された。

 

 

「日本近代の架空索道」より転載・加工

 

 

 

 

 

 

         
  大正元年 (1912)   索道による物資運搬会社「湯野電気索道」が設立
  大正2年 (1913)   10月に、まず湯野〜滝野間が完成(延長7.34km)
  大正4年 (1915)   さらに北の梨平まで延伸され、全長13.7kmとなる
        80馬力のモーターを使用し、最大で75トン/日の輸送能力があった

  茂庭の名を冠した発電所は県内に現存せず、かつてどこにあったのかもよく分からない。
  ただ地名や完成時期を考えると、滝野発電所の旧名が茂庭発電所なのではないかと推測している。
  というわけで近代土木遺産ランクCにも指定されている滝野発電所を見に行ってみた。
   

国道399号線から脇道に入る。

が、すぐにクルマでの進入を断念した。

もともと細かった道の路肩が崩れ、注意を促す三角コーンすら傾いている。

雨の日にこんな所で落ちたくないので、泣く泣くバックで引き返す。

 

 

 

 

小さな集落を抜けると急坂になる。

苔生した石垣に見惚れて、しばし立ち止まった。

 

 

 

 

 

 

坂を下ると広場があり、その対岸に滝野発電所があった。

荒々しい素掘りの放水口に目を奪われる。

少し上流に余水路があるのだが、切り石を積んだような立派なものではなく、

滝のごとく豪快に自然の崖を流れ落ちていた。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「飯坂湯野温泉史」より転載

 

   
  市史によると、索道は山からは木材や薪炭を、町からは食料品などを運んでいたらしい。
  さらに駅から暮坪までは路上にトロッコが敷設された、との記述を見つけて更なる興味が沸いた。
  敷設に際して道が拡幅されたため、今でもその道路は交通量の割に広いのだと言う。
  遺構の期待はできないが、軌道跡を探して歩いてみよう。
   

 

 

 

 

十綱駅の位置が前述の場所だとすると、

トロッコは青で示した路上に敷設されたと思われる。

 

 

 

 

 

 

「飯坂湯野温泉史」より転載

 

 

 

 

 

地元在住の方が出版した小冊子に掲載された、

このトロッコに関する略図が大変参考になった。

ルートは想像通りだったものの、起点(南端)の位置が確定できない。

 

 

 

 

「ゆの村」より転載

 

 

 

 

これら二つの地図を頭で合成して、現行の地図に反映させてみる。

赤線が索道で、青で示した路上にレールが敷設されていたと思われる。

 

ところで、大正3年(1914)に駅が西側に移転した後はどうしていたのだろうか?

十綱駅跡に貨物用の側線があったようには見えないのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

製材所の北側に広大な貯木場が写っている。

トロッコはここに引き込まれていたのではなかろうか。

 

 

 

 

 


 

<E地点>

湯野電気索道の事務所は十綱駅付近の大水口にあったという。

そこで思い出されるのが、同所にある製材所(中央右側)のことである。

この工場こそが、トロッコの終点だったのではないかと推定した。

 

前述したように、索道が主に運んでいたのは木材だった。

この工場で加工後、鉄道にて出荷、といった光景を勝手に想像する。

 

<G地点>

その製材所を北側から見る。

路上で木材の積み下ろしをしていたとも思えないので、

トロッコは貯木場まで続いていたと考えた方が自然だろう。

 

 

 

 

<H地点>

トロッコが敷設される際に拡幅された、というのがこの道である。

無駄に広い、と言われればそんな気がしないでもないが、

原状から判断するのは難しい。

 

 

 

 

<I地点>

前述の冊子「ゆの村」によると、トロッコはここから左奥に入った所を起点としている。

おそらくここには広大な貯木場があり、その入り口がここだったのであろう。

トロッコはその構内中に敷かれていたのではなかろうか。

 

 

 

 

<J地点>

更に進むとY字路に出る。

ここが貯木場敷地の北東端だったと思われる。

索道の終点もこの敷地内にあったのだろうが、痕跡は何もないようだ。

 

索道による輸送は大正中期に廃されてしまったが、

今でも山の中に索道の木製支柱が残っていると言う。

 

資料によると、索道会社の事務所は大水口から暮坪8番地に移転したとある。

その建物が住宅に改造されて現存しているとのことだが、

このY字路の西側にある古い長屋がそうだろうか?

ここの住所は暮坪8-1である。

 

 

 

 


 

<飯坂電車・中野線> (計画線)

  さて、舞台は摺上川の東岸から西岸に移る。
   
  信達軌道の開通から遅れること10年。大正7年(1918)に飯坂軌道が設立される。
  信達軌道とは全くの別ルートで福島〜飯坂間を結ぶ路面軌道で、動力は蒸気を予定していた。
  しかし、蒸気機関車が市街地を通るのは危険だとして、福島市側から工事の許可を得られなかった。
  折りしも、先に開通していた信達軌道が度々ボヤを出して問題になっていた時期だったのだ。
  そこで、動力を蒸気から電気に変更し、大正10年(1921)社名も福島飯坂電気軌道に改称、翌年には着工する運びとなった。
  大正13年(1924)には飯坂電車に再改名し、同年4月福島〜飯坂間が開通する。
  福島駅東口から万世大路を経由して飯坂街道に入り、飯坂温泉に達する路面電車であった。
   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「写真でつづる福島交通七十年の歩み」より転載

 

 

 

 

 

 

 

 

ピンクの部分が飯坂電車。

開通当初は7駅しかなかったが、

現在は位置や名称を変えつつ12駅に増えている。

 

 

 

「福島市史」より転載・加工

 

 


 

福島交通・飯坂線の終点、飯坂温泉駅

飯坂電車が開業した当初、まだここに駅はなかった。

ここまで延伸したのは3年後の昭和2年(1927)になってからである。

路線変更や、土地の買収にでも手間取っていたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<I地点>

開業した当時の終点はこの花水坂駅で、当初はここを飯坂駅と称していた。

ここまでと同様、県道上にレールを敷いて十綱橋の袂まで達する予定であったが、

急坂を避けたのであろう、結局は専用線での開通となった。

 

レール右側の土地が緩やかに膨らむように空いているのは、

かつて終点駅だった名残りだろうか。

 


  さて、飯坂軌道はここから西に分岐し、中野村堰場を通る万世大路にまで達するルートの特許も得ていた。
  第二期工事として予定されながら、幻に終わった「中野線」のルートを推測しつつ辿ってみよう。
   
 
  ピンクは推定、赤は併用軌道区間。 黒は専用軌道を予定されていた区間なので、便宜上車道を示しただけである。
   

<J地点>

山岸10番から高取84番までは、

明治10年に開削された伊達街道上に敷設する予定だったので、

現存する車道を走って辿ることができる。

しかしバイパスが開通したことで旧道化し、更には国道13号バイパスにより切断され、

ここで通行止めになっている。

 

 

<K地点>

住宅地を抜けると、ここでバイパスと合流する。

この先は真直ぐな道をひたすら西へ進む。

まるで最近開通した高規格のバイパス道のようだが、

実はこの道、明治41年(1908)の地形図にちゃんと載っている。

 

この先の高取までは併用軌道を予定していた。

 

<L地点>

高取から西は専用軌道を計画していたため、遺構は全くない。

とりあえず終点予定地までは行ってみよう、と旧伊達街道を走っていると、

風格のある旧家を見つけたので興味本位で寄ってみる。

 

 

 

 

玄関にある看板を見て驚いた。

「丸中白土株式会社」(なかまるしらす)とあったのだ。

この建物は丸中白土の事務所だったのだ。しかも現在も営業中。

大変失礼ながら、既に無きものと思っていた・・・。

 

なぜ私がこれほど驚いたのか、には少々説明を要する。

 

 

 

 


  江戸時代、白土(しらす)は精米時に使う搗粉(つきこ)として細々と採取されていたに過ぎなかったが、明治になって需要が急増した。
  そこで中野村の白土生産者らは中野白土同業組合を設立し、生産・販売の合理化や品質管理に当った。
  大正時代に入ると、中野から飯坂〜湯野〜東湯野を経由し、
  長岡駅(現伊達駅)まで達する長大な索道を設置して全国に出荷するまでになっていた。
  当時、白土は中野村の特産品だったのだ。
  そんな時期に設立されたのが飯坂軌道であり、特許願いには温泉客や果物、薪炭の他、白土の輸送も含まれていた。
  二期工事に予定されていた中野線での輸送を見込んでいたのだろう。
  というか、白土の輸送こそが中野線開設の主目的だったのではなかろうか。
   
  中野白土同業組合は大正8年(1919)には改組し、中野白土株式会社となった。大正13年には39万俵の出荷を記録している。
  その後、他県の白土との競合、新しい精米機の出現、搗粉としての白土使用禁止などがあって生産は先細りとなり、
  ついに昭和19年には生産が停止されてしまう。
  しかし、戦後にクレンザーの原料として採掘が再開された、とのこと。
  [追記]
  後日読んだ書籍「日本近代の架空索道」に、飯坂に存在したこの2本の索道に関する記述が掲載されていた。
  本によると、中野〜長岡駅の索道は中野白土が設置したもので、なんと、前述の湯野電気索道の機材を転用したという。
  なるほど、確かに改廃の時期が一致している。
  索道は大正9年(1920)頃から稼動し、総延長は約9.5km。
  中野村円部の沖根山にある採掘場から索道で高取に運搬し、工場で加工後、再び索道で長岡駅まで運んでいた。
  昭和10年頃索道での運搬は廃止され、馬車輸送に切り替えられたとある。
   

 

 

 

 

「日本近代の架空索道」より転載・加工

 


「日本近代の架空索道」に、現役時の写真が載っていたので転載させて頂く。

木製の支柱の上部には滑車が並び、搬器もひとつ見える。

平行する信達軌道の改軌工事に勤しむ鉄道連隊兵士の姿も写っている。

 

 

 

 

昭和5年(1930)発行「専用線一覧表」の伊達駅(大正13年に長岡駅より改称)の項に、
  東洋白土(大正15年設立)なる会社の側線0.1km(手押)の記載が見られる。
「伊達町史3」には「大正11年(1911)設立の福島白土が中野・伊達間に索道を設けて運搬」とある。
   

大正8年(1919)出版の「飯坂湯野温泉史」には、

願書を出しただけでまだ設立してないはずの飯坂電車の軌道が描かれている。

予定線の意味だろうか?

しかし、同様に予定されていたはずの中野線は書かれていない。

 

「白土製造場」「此ノ奥ニ○中白土及ビ奥州白土会社アリ」など、

白土に関する記載がやたら詳細なのが興味深い。

 

「飯坂湯野温泉史」より転載

 


市史には、上記のような白土を取り巻くお寒い状況が書かれていたので、

会社が現存し、しかもこれほど大規模になっているとは思わなかったのだ。

現在も丸中白土株式会社と社名を変更して採掘を継続している。

耐熱材として需要があるようだ。

 

索道の途中にあった「工場」というのも、ここを指しているようだ。

 

 

Yahoo!地図より転載)

 

<M地点>

丸中白土の事務所から少し進むと、旧国道13号線・万世大路に突き当たる。

この交差点には中野村の道路元標があるので、当時から街の中心だったのだろう。

しかし、ここの小字は堰坂で、終点の堰場73番は更に右奥へ進んだ所である。

 

こんな傾斜地のどこに駅を設置する計画だったのだろうか。

 

 


  明治・大正は日本にとって産業革命の時代であった。
  徒歩で越えていた険阻な峠道に汽車が走り、真っ暗だった街に電気の明かりが灯った。
  その電気は電車や索道を動かし、やがて重工業が勃興する。
  当時、日本中の都市で見られた変遷が、この小さな温泉街でも展開されていたのだ。
  その激動の時代を極浅くであるが、掘り起こしてみた。
   

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