日本化学工業専用鉄道 (会津若松市・旧河東町)  2009.04     [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]

 

明治期、会津地方の豊富な電力を求めて中央資本の大工場が次々に建設されていた。

それらのひとつ、日本化学工業が工場建設の際に敷設した工事用軌道が、この専用線の起源である。

地元では知られた存在のようであるが、詳細は不明な路線である。 名前も例によって仮称。

 

             
  明治42年 1909   地元日橋村の八田氏所有の水利権を大倉財閥系の電気化学工業が取得    
      会津工場を建設開始。工事資材運搬のため工場〜広田駅間に軽便馬車軌道を敷設    
  明治43年 1910   日本化学工業に改称    
      日橋川発電所の建設に着手。 44年完成、45年発電開始    
  明治45年 1912   会津工場、操業開始。 日本で初めて電気分解による塩素酸カリウムの製造を始める    
  大正5年 1916   生産増に対応し、軌道の敷き替えを実施
動力も蒸気機関車になり、次いで電気機関車になった
  どんな機関車だったのだろうか
  大正12年 1923   戦争が終わると経営が悪化。滞納電気料金の代償として郡山電気に工場と発電所を譲渡   自前の発電所だけでは足りず、
他社からも買っていたことになる
  大正13年 1924   工場が閉鎖。発電所のみ操業継続    
  (8年空白)          
  昭和7年 1932   廃墟となっていた工場を森財閥系の日本沃度が借り受けて操業再開。日本沃度広田工場となる   軌道も再開されたのだろうか
  昭和8年 1933   製品・原料の輸送を円滑にするため、磐越西線の東長原付近から分岐する引込線を請願し許可を得る
開通の時期は不明
   
  昭和9年 1934   日本電気工業と改称。日本電工広田工場となる    
  昭和14年 1939   日本電工と昭和肥料(味の素傘下)が合併し、昭和電工となる
工場の拡大に伴い従業員も増大し、工場〜広田駅間に通勤道路(六貫坂)が造成される
  軌道の道床を使わなかったのは
軌道がまだ現役だったから?
  昭和15年 1940   戦争の激化とともに工場も増産。通勤や輸送のため東長原への駅の設置が急務となる
昭和電工のほか日橋村、堂島村などからの要望もあり東長原駅が開設される
   
  昭和20年 1945   5月、工場を爆撃から守るため高射砲隊が駐屯
大隊本部を磐梯町の日本曹達・会津工場に置き、広田工場には一個中隊と高射砲一門が配備される
しかし陣地を構築中に終戦となった
   
            special thanks 河東宝山さん

 

 

 

 

 

 

赤が明治42年(1909)開設、大正5年(1916)改軌の専用鉄道

延長、軌間、廃止年は不明

 

緑が専用線だが、開設時期は不明

 

 

 

 

 


磐越西線・広田駅の北にある住友大阪セメント・広田工場前にクルマを停め、

ここを探索のスタート地点とする。

ここへのセメント輸送が磐西線最後の貨物輸送であったが、

2007年3月でそれも終了している。

同時期にこの工場も閉鎖されたらしい。

引込線にあった川崎製のDL302号車も消えてしまった。

 

 

 

2005年10月の同所

 

 

 

 

 

日本化学の専用鉄道はこの工場の東側を通っていた。

まずはここから南へ進み、広田駅までの軌道跡を探してみよう。

 

築堤は後に開通した車道に上書きされてしまっている。

さらに軌道上には民家が建っており、いきなり追跡不能となる。

 

 

民家の裏側に迂回すると低い築堤が続いていた。

農作業のクルマが入ってるようで、道床にはうっすらと轍が見える。

 

 

 

 

 

 

同じ箇所を逆方向から見る。

当時はセメント工場もなく、広い湿地帯に土を盛って軌道を敷設したようだ。

 

 

 

 

 

 

しかし、すぐに軌道跡は途絶えてしまう。

そしてこの先二度と復活することはなかった。

 

 

 

 

 

 

築堤から続く畦道を進んでみる。

この段差は築堤の名残りであろう。

 

 

 

 

 

 

その畦道も消えてしまい、道筋らしい痕跡すらなくなってきた。

左の畑が軌道跡だろうか。

 

 

 

 

 

 

道は見えないものの、なんとなく「繋がっている」雰囲気は感じられる。

怪しげな石垣が現れるが、軌道跡はその右側だったと思われる。

とりあえず行ける所まで進んでみよう。

夏になれば入れまい。

 

 

 

 

ホーム端の駅名標が見えてきたところで、水路を跨ぐ橋が現れた。

奥の耕地への連絡用だろうか。

その耕地も放棄されたようで、もう長く使われている様子がない。

 

この先にはホームや倉庫などがあったと思われるが、もう進めない。

 

 

 

いくら何でも当時の橋とは考えなかったが、

軌道跡の延長線上に橋があるのは嬉しい。

廃線後は耕地への通路として転用され、

その橋が朽ちた後も枕木を転用して使い続けた様子が想像されるのだ。

 

広田駅付近の探索はこれにて終了。

 

 


再びスタート地点に戻り、今度は北側に進む。

奥に見える十字路から先は併用軌道だったと思われる。

 

 

 

 

 

 

併用軌道ゆえに現在は車道に飲み込まれている。

 

 

 

 

 

 

 

<A地点>

ただし直線や勾配に拘った部分は車道と分離していた。

緑の道が車道で、奥に見える築堤状の現車道が軌道であった。

 

車道の拡幅や宅地化のため、こうした痕跡は消えつつあるようだ。

 

 

<B地点>

舗装道路と化した軌道跡を進むとやがて視界が開ける。

すると前方に小山が見えてくる。

あれが通称・兵隊山と呼ばれた丘陵で、

戦時中に火薬を製造していた工場を爆撃から守るために高射砲が設置された所と言う。

 

 

軌道は水田を横切り山裾に達していたが、現在は耕地化されて消えている。

直進する道は昭和14年(1939)、広田駅〜工場間を徒歩通勤する従業員のために

開削された道で「六貫坂」と呼ばれた。

 

 

 

 

 

民家に繋がる道を横断して山裾に取り付く。

当初、中央の緑の道が軌道跡かと思ったが、

実は右の畑が正解であった。

 

ここから急な上り坂になる。

 

 

耕されたばかりの畑を荒らさないように畔を歩く。

すぐ脇には水路があるので足の置き場所は非常に狭い。

日橋川上堰の分水路だろうか。

 

 

 

 

 

少し進んだところで振り返る。

水田の中にあったと思われる築堤は消えてしまった。

 

 

 

 

 

 

すぐ先で畑がなくなる。

耕作放棄地かも知れない。

軌道跡のはずだが左に向かって傾いているのが気になる。

 

 

 

 

 

広かった軌道跡が突然狭くなると同時に、左から細い道が合流してくる。

地形図に実線で描かれた道がこれらしい。

「幅員1.5〜3.0mの道路」表記となった軌道跡を進む。

 

 

 

 

 

その先は切り通し・・・いや、掘割りになっていた。

振り返って撮影。

 

いい季節にいい場所に来れたなあ。

 

 

 

 

掘割りの延長は明確な築堤になっていた。

その築堤がS字を描いて画面左奥まで続いている。

 

ここで軌道は兵隊山から離れて行く。

 

 

 

 

休耕田の中の築堤を進むと住宅地に抜けた。

上り勾配もかなり緩やかになってきている。

 

 

 

 

 

 

<C地点>

ここで車道を横断する。

奥に見えるのが兵隊山。

 

 

 

 

車道脇の緑地が軌道跡と思われる。

電化されていたので架線柱があったはずだが、

ここには桜並木がある。邪魔にはならなかったのだろうか。

いや、廃線後に植樹されたものかも。

 

この左側にはかつて機関車の車庫があったが今は撤去されてしまった。

傍らに転がる枕木は、その名残りなのかも知れない。

 

その機関庫の画像を「河東町史」より引用。

かなり大きな建物だったようだ。

当然引き込み線があったはずだが、痕跡は見つからなかった。

 

 

 

 

 

軌道跡らしいのもここまでで、ここからは舗装道路と一体になってしまう。

ずっと連れ添っていた水路ともお別れである。

 

 

 

 

 

 

広田工場が見えてきた。

左は社員用の駐車場で、正面奥には磐梯山がそびえる。

 

この辺りで荷の積み下ろしをしていたのだろうか。

 

 

 

 

堰を渡る橋の向こうに見えるのが工場の正門である。

左にある古い木造の建物が駅舎に見えてくるから不思議(笑)

 

 

 

 

 

あまり期待はしていなかったのだが、この橋の南側を見て驚いた。

石積みの橋台が残っていたのだ。

短いガーダー橋が架かっていたと思われる。

幅員の狭さから鉄道用に見えるのだがどうだろうか。

とすると軌道は工場内部にまで達していたことになる。

 

 

 

 

 

広田工場の入り口に到達。

この先で荷を積み下ろししていたのか、線路が多数分岐していたのかは不明。

正門脇には工場設立の由来を記した記念碑が建ってた。

大正4年(1915)建立だから、この碑は出入りする機関車を見ていたはずである。

 

 


 

 

 

 

「国土情報ウェブマッピングシステム」より引用

昭和51年(1971)

 

 

 


[2009.06]追記

当地で生まれ育ち、現在は東京在住の二瓶敏雄様より、

氏が上京の際に兵隊山より撮影した写真を提供して頂いた。

手前に軌道跡、中央に機関車の車庫、奥に工場の煙突群。

そして冠雪の猫魔ヶ岳、磐梯山が美しい。

昭和33年(1958)撮影

 

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