裏磐梯の分校  (北塩原村)  2014.12          [TOP]  [寄り道]  [分校・廃校一覧]

   
  私にとって、会津地方の中で最も馴染みがあるのが、通称"裏磐梯"と呼ばれる一帯である。
  中でも旧桧原村エリアでは、かつて風景写真の被写体を探して求めて細い路地に入り込み、
  後には森林鉄道跡を探すために藪の中に踏み込んでいた。 発電所の水路を辿ったりもした。
  そんな探索を季節を問わず、数年に渡って続けていたわけだが、分校やその痕跡に遭遇したことは一度もなかった。
  当時は分校の存在を意識していたわけでもなかったので、気付かなかったのかも知れないが、
  改めて詳しく調べてみると、桧原湖の周囲に点在する小さな集落のひとつひとつに、分校が存在していたことが分かった。
  それら分校の在りし日の姿を、古い航空写真から見つけ出してみようと思う。
   
  なお、桧原村は昭和29年(1954)に隣接する北山村、大塩村と合併し、それぞれの村名から一字ずつ取って北塩原村となっている。
  基本的な資料は「北塩原村史(通史編)」によった。 開校・改称・閉校年に多くの矛盾があるが、そのまま記載した。
  (追記) 2022.01
  「会津地方の集落と分校」(鷲山義雄)の記述を追加。やはり矛盾があるが、そのまま記載し(鷲山)と付記した。

  <旧北山村>
  まずは「北塩原村」の「北」にあたる北山村から始めよう。
  現在、北塩原村の役場はここにある。 屈指の観光地となった桧原に人口の重心が移った今日でも、政治の中心は北山だ。
  ---- が、、、実を言うと北山と、次の大塩2村については、前述したような個人的馴染みは全くない。
  私がうろついた桧原側から見ると、この2村は「山の向こうの喜多方エリア」であり、さらには興味の対象外であったのだ。
   
  北山には小学校に加えて中学校もあったのだが、上記のような理由で近況だけを簡単に記す。
  北山小学校は平成19年(2007)に隣の大塩小学校を併合し、さくら小学校に改名して現存。
  それにしても、このどこにでもありそうな表情の見えない学校名はなんとかならなかったのだろうか・・・。
  また、北山中学校は昭和62年(1987)に隣の大塩中学校を併合し、第一中学校に改名して現存している。
   

  <旧大塩村>
  北山から米沢街道(現在はやや北側を国道459号が通る)を東へ進むと大塩村に入る。
  ここには国道沿いに大塩小学校、大塩中学校があったが、前述のように現在は廃校となった。
   

撮影は2013年と直近の様子である。

上から、大塩川、国道459号、旧米沢街道。

左の広い敷地が元大塩小学校。

右が大塩中学校跡で、現在は「活性化センター」が建てられている。

 

「国土画像観覧システム」より引用・加工(以下同じ)

 


  ・二ノ沢分校
  幹線から南に反れて山奥に入った所に一ノ沢、二ノ沢集落がある。
  このうち、二ノ沢に大塩小学校二ノ沢分校があった。
  残念ながら、さくら小学校の公式サイトでは二ノ沢分校に全く触れてない。
   
  昭和26年 (1951)   大塩小学校二ノ沢分校を設置
    ()   廃校

昭和51年(1976)の二ノ沢集落の様子。

川を挟んで北側が上二ノ沢、南側が下二ノ沢といい、分校は上二ノ沢にあった。

分校の正確な場所や原状は不明。

 

 

 

 

 


  ・滝ノ原分校
  再度幹線から反れ、大塩川沿いの道を上って行くと森の中にポツンと滝ノ原集落がある。
  ここに大塩小学校滝ノ原分校があった。
  ・所在地・ 北塩原村大字大塩字滝ノ原
   
    ()   滝ノ原家庭教育所を設置
  昭和4年 (1929)   廃校
  昭和9年 (1934)   民家を借りて滝ノ原季節分教場を設置
  昭和12年 (1937)   校舎を新設
  昭和23年 (1948)   季節分教場から常設の滝ノ原分教場になる (P493)
  昭和26年 (1951)   季節分校から滝ノ原分校になる (年表)
  昭和33年 (1958)   再び滝ノ原季節分校に戻る
  昭和43年 (1968)   鉄骨校舎に建て替え
  昭和57年 (1982)   廃校

昭和51年(1976)の滝ノ原集落の様子。

当時はまだ現役のはずだが場所が分らない。

大塩から九十九折れに上ってくる道が印象的だ。

 

  現在は3〜4軒しか見えない。

 


  <旧桧原村>
  ・雄子沢分校
  滝ノ原を過ぎ、取上峠を越えると桧原村に入り、やがて桧原湖畔に着く。
  ここの狭い土地に雄子沢集落があり、桧原小学校と中学校の雄子沢分校があった。「おしざわ」と読む。
  雄子沢はもっと南東に立地する木地師集落だったが、磐梯山爆発に伴う土砂崩れにより全世帯が埋没。
  たまたま集落外に出ていた人だけが助かり、あとは全員死亡。 埋もれた集落跡も、やがて桧原湖に水没した。
  残った住民は長峯地区に移転したため、最初にできた時の校名は長峯家庭教育所であった。
  後に地名が改称されたのか、雄子沢分校となった。
  ・所在地・ 北塩原村大字桧原字雄子沢1157
   
  大正6年 (1917)   長峯家庭教育所を設置
  昭和9年 (1934)   長峯家庭教育所を桧原小学校雄子沢分校に改称
  昭和22年 (1947)   桧原中学校雄子沢分校を併設 (P493右)
  昭和23年 (1948)   桧原中学校雄子沢分校を併設 (P493中)
  昭和24年 (1949)   桧原中学校雄子沢分校を併設 (P493左)
  昭和30年 (1955)   桧原中学校雄子沢分校を廃し、新設の桧原中学校裏磐梯分校に統合
  昭和32年 (1957)   雄子沢分校の校舎を新築 (鷲山)
  昭和34年 (1959)   桧原小学校雄子沢分校が、新設の裏磐梯小学校雄子沢分校になる
  昭和54年 (1979)   休校
  平成2年 (1990)   廃校

昭和51年(1976)の雄子沢の様子。

土地がなかったのか、集落からだいぶ離れた所にあった。

あるいは北側にある細野集落から通う児童への配慮だろうか。

ちなみに、細野では磐梯山爆発の際に全世帯、全住民が死亡した。

 

  現在、分校跡地は「道の駅 裏磐梯」の一部になっている。

 

  昭和56年(1981)に桧原湖を一周する車道ができるまで、各集落間の往来は岸を歩くか、船で移動していた。
  写真には、そのための「はしけ」が写っている。
  昭和36年(1961)12月には、雄子沢へ向けて越冬物資を運搬中の船が沈没し、乗っていた6名の住人全員が溺死するという悲劇も発生している。
   

  ・桧原小学校中学校
  大塩から国道を進まずに北の旧米沢街道に入り、大塩峠、蘭峠(あららぎ)を越えると、やがて大きな集落に着く。
  これが桧原村の中心・桧原集落である。
  かつての桧原宿はさらに東へ進んだ所にあったのだが、明治21年(1888)磐梯山爆発のあと、桧原湖に水没してしまった。
  桧原には桧原小学校、桧原中学校があり、各地に多数の分校を持っていた。
  昭和52年(1977)には鉄筋コンクリート2階建ての桧原小中学校が建てられたが、
  平成9年(1997)に廃校となり、現在は明治大学の桧原湖セミナーハウスとして再利用されている。
   
  明治24年 (1891)   大塩小学校桧原分教場を設置
  大正7年 (1918)   桧原小学校として独立
  昭和11年 (1936)   桧原高等小学校となる
  昭和22年 (1947)   桧原小学校、桧原中学校となる
  平成7年 (1995)   桧原中学校を廃し、裏磐梯中学校に統合
  平成9年 (1997)   桧原小学校を廃し、裏磐梯小学校に統合

昭和51年(1976)の桧原集落の様子。

現在、分校跡には村役場の「桧原出張所」や「桧原診療所」が建っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

  左上に見えるのが旧桧原小中学校。

 


  ・金山分校
  桧原の北東に金山集落がある。
  地名が示す通り、ここはかつて会津藩の金鉱山があった。 江戸初期には桧原宿と合わせて4000人が住む大集落だったとのこと。
  この数字は、3村が合併してできた今日の北塩原村の人口よりもずっと多かった。
  ・所在地・ 北塩原村大字桧原字無縁原1035
   
  大正8年 (1919)   桧原小学校金山季節分教場を設置 (年表)
  大正9年 (1920)   桧原小学校金山季節分教場を設置 (P440)
  昭和15年 (1940)   桧原小学校金山季節分校を設置 (鷲山)
  昭和25年 (1950)   校舎が新築され、常設の桧原小学校金山分校となる
  昭和41年 (1966)   4月、教員の放火により校舎を焼失。 12月に再建
  昭和53年 (1978)   廃校。 旧校舎は「桧原児童館」として再利用していた

昭和51年(1976)の金山集落の様子。

まだ現役だった頃の写真だが、分校の位置は古地図を参考にした推定である。

現在、この建物は撤去され、金山の集会所である「生きがい学習施設」が建っている。

 

 

 

 

 

 

 

  旧県道は舗装が剥がされ、橋も撤去されて通れない模様。

 


  ・早稲沢分校
  金山から東へ進むと早稲沢集落がある。
  ここもかつては木地師集落であった。
  昭和38年(1963)に建て替えた際、旧校舎は細野に移築され、「細野青少年の家」として再利用された。
  昭和40年代には開拓事業なども施行されたが過疎化は止まらず、平成6年(1994)に廃校となった。
  昭和30年(1955)まで桧原中学校早稲沢分校も併設されていた模様。
  ・所在地・ 北塩原村大字桧原字早稲沢558-9
   
  大正7年 (1918)   桧原小学校早稲沢季節分教場を設置
  大正8年 (1919)   4月、早稲沢家庭教育所を廃し、常設の早稲沢分教場になる (鷲山)
  大正8年 (1919)   再び早稲沢季節分教場に戻る
    ()   常設の早稲沢分校になる
  平成6年 (1994)   廃校

昭和51年(1976)の早稲沢集落の様子。

現役だった頃の分校が写っている。

現在、校舎は撤去され、農産物加工施設「裏磐梯大地の工房」が建っている。

 

 

 

 

 


  ・曽原分校
  大正12年(1923)に曽原家庭教育所として設置されて以来、昭和34年(1959)に創立した裏磐梯小学校に併合されたるまで続いたのだが、
  手持ちの各地図どれにも記載がないため、場所が分からない。 (2016年4月、記載のある地図を発見す)
  ここは磐梯山の土石流に覆われた荒れ地で、旧版地図には「曽原開墾」との地名が見られる。
  昭和30年(1955)までは桧原中学校曽原分校も併設されていた。
  ・所在地・ 北塩原村大字桧原字曽原
   
  大正12年 (1923)   曽原家庭教育所を設置 (年表)
  昭和6年 (1931)   曽原家庭教育所を設置 (P455)
  昭和15年 (1940)   桧原小学校曽原分教場を設置
  昭和22年 (1947)   桧原中学校曽原分校を併設
  昭和30年 (1955)   桧原中学校曽原分校を廃し、新設の桧原中学校裏磐梯分校に統合
  昭和33年 (1958)   9月、台風により校舎が倒壊
  昭和34年 (1959)   1月、校舎を再建し、曽原季節分校として再開。 4月、曽原分校を廃し、新設の裏磐梯小中学校に統合 (年表)

市販の古い地図には、曽原湖の東に「文」の記号がある。

この写真は昭和51年(1976)撮影で、廃校になってから17年が経過しているから、

矢印の建物は旧校舎ではないかも知れない。

 

現在は跡地(推定)に消防団のポンプ庫が建っている。

 

 

 


  ・小野川分校
  磐梯山の爆発によって生まれた小野川湖の東湖畔に小野川集落がある。 やはり木地師集落であった。
  元は北にひとつ尾根を越えた所にあったのだが、磐梯山噴火後に現在の位置に移転した。
  ここに桧原小中学校の小野川分校があった。
  ・所在地・ 北塩原村大字桧原字小野川1082-2
   
  大正14年 (1925)   小野川家庭教育所を設置
  昭和8年 (1933)   小野川家庭教育所を桧原小学校小野川分教場に改称
  昭和22年 (1947)   桧原中学校小野川分校を設置 (P493)
  昭和24年 (1949)   桧原中学校小野川分校を設置 (年表)
  昭和30年 (1955)   桧原中学校小野川分校を廃し、桧原小中学校裏磐梯分校に統合
  昭和32年 (1957)   小野川分校の校舎を新築 (鷲山)
  昭和34年 (1959)   桧原小学校小野川分校が、新設された裏磐梯小学校小野川分校になる
  昭和57年 (1982)   休校
  平成2年 (1990)   廃校

昭和51年(1976)の小野川集落の様子。

現役だった頃の分校が写っている。

ここは現在、更地となって放置されている。

 

渇水期には湖底に沈んだ墓石が現れるとのこと。

 

 

 


  ・蛇平分校
  裏磐梯の中で最も賑わう五色沼。その入り口駐車場がある辺りを蛇平という。
  ここに昭和24年(1949)になってようやく、桧原小学校蛇平分校が設置された。
  一帯は磐梯山の土石流に覆われた荒地で、戦後には開拓事業も行われて水田化に成功した。
  分校が設置されたのもその頃である。
  しかし減反政策により、せっかく開墾された水田は全て消えたとのこと。
  ・所在地・ 北塩原村大字桧原字蛇平
   
  昭和24年 (1949)   桧原小学校蛇平分校(分教場 P493)を設置
  昭和34年 (1959)   蛇平分校を廃し、新設の裏磐梯小中学校に統合

昭和51年(1976)の蛇平集落の様子。

左下が五色沼の駐車場。

分校の位置は旧版地図を元にした推定である。

ここは現在でも更地として放置されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

  ・桧原中学校裏磐梯分校
  昭和30年(1955)、桧原中の曽原・小野川・雄子沢の3分校を廃止・統合し、
  剣ヶ峯桧原中学校裏磐梯分校が新設された。
  やがて観光化により人口が増え、生徒数も増加したため、昭和34年には独立して裏磐梯小中学校に発展し、
  ついには本校である桧原小中学校を統合するにまで至った。
   

  ・秋元分校?
  実を言うと、「桧原小学校秋元分校」という学校は村史に載っておらず、ネット検索してもヒットしない。
  にも関わらず、古地図にはそれらしき学校記号が記載されているのだ。
  これは何だろうか?

左は昭和33年(1958)発行の地形図「磐梯山」である。
秋元湖の堰堤の西側に「文」の記号とL字型の建物が見える。
こいつの正体が分からない。 なぜ集落から離れた場所にあるのだろうか?
 
想像でひねり出したのが、東京電力が設置した私立学校ではないか、というもの。
図の右上に小野川発電所があるが、その南西にある建物は職員宿舎である。
職員の子弟が学校に通うわけだが、あいにく近所に公立学校がなかったので、
子弟のため、さらに地域の児童のために東電が自前で設置したのではなかろうか。
その際、堰堤建設(大正14年)時に移転を強いた秋元住人にも配慮して、
集落と宿舎の中間地点を選んで設置したのではなかろうか。
職員子弟の為にも、たった数人しかいない学校よりは賑やかで良いだろうから、
双方にとって好都合に思える。
 
 

 

撮影は昭和51年(1976)。

中央の集落が北塩原村(旧桧原村)秋元。

境界の川を挟んで右下にあるのが猪苗代町(旧吾妻村)千貫である。

 

 

 

 

 


  ところが、「北塩原村史(通史編)」にて意外な記述を見つけた。
  「昭和23年(1948)、秋元の児童が通う吾妻村立の千貫分教場建築のため、桧原村が3万円を寄付した」、とあるのだ。
  つまり、秋元から村境を越え、隣町の分校に通学していたようなのだ。
  更に調べると、千貫分校は昭和33年(1958)に煙突の過熱が原因で火災を起こしていたことが分かった。
  この件が同年発行の前述地図に反映されたとは考え難いのだが、千貫にあるはずの学校記号がない理由も、これなら納得できる。
  つまり、秋元分校ではなく、"千貫分校の仮設校舎"という可能性である。
   
  ・・・・と思ったら、昭和57年発行の市販地図でも、同じ場所に「文」の記号があった。
  とすると、吾妻村立千貫分校はなぜか桧原村内に建っており、秋元、千貫の児童が通っていた、ということだろうか。
  千貫分校の廃止は昭和52年(1977)とあるから、市販地図は古い情報を元に作られたのかも知れない。
   
  さらに明治41年の地形図を見たところ、この図には千貫集落が存在してないことに気が付いた。
  秋元集落が、まだ小野川発電所付近にあった時代である。
  と言うことはもしかすると、堰堤建設により移転を強いられた際、秋元の住人は現・秋元と千貫に分かれたのではなかろうか?
  この想像通りだとすると、秋元と千貫は"兄弟"のような存在ということになる。
  村境を越えて分校を共有、という特殊な状況も、そういう経緯があるならば納得である。
   

 

 

 

 

 

 

 

  「続・懐かしの沼尻軽便鉄道」にて"証拠写真"を見つけた。
  撮影は昭和30年とのことなので、背景の校舎は桧原村からの寄付金を加算して建てられたものかも知れない。
   
  写真中央に写る分校教員の手記が掲載されていたので要約する。
  分校の近くには小野川発電所の社宅があった。
  分校を使用して年に何度か映写会が催されており、それが地区住民の唯一の娯楽であった。
  豪雪地帯であったが、発電所に装備されたブルドーザーが除雪してくれた。 発電所様々だった」、とのこと。
  分校は社宅の近くにあった、との証言なのだが、"近く"とはどの程度の距離なのか判然としない。
  前述地図にある「文」の位置ならば、確かに"近い"かも知れない。
 
で、その"証拠"だが、入り口脇に掲げられた校名を拡大してみると、
[ 吾妻村立 第一小学校 千貫秋元分校 ]、とあるように見える。
 
公式には「千貫分校」であるが、桧原村も出金し秋元の児童が通っていたからか、
分校の入り口には「千貫秋元分校」との木札が掲げられていたのだ。
 
この校舎はいったいどこに建っていたのだろうか?
秋元湖堰堤の西側にある「文」がこれなのだろうか?
   
  参考に、猪苗代小学校千貫分校の略歴を載せておく。 2022.01 追記 (鷲山)
   
  明治21年 (1888)   吾妻第一小学校千貫分校を設置
  昭和31年 (1956)   千貫分校吾妻第一小学校から猪苗代小学校に編入
  昭和51年 (1976)   12月、廃校 (7.15火災焼失)

<秋元集落の変遷>

噴火前は@の秋元原にあったが、秋元湖が形成されたためAに移転。

その後、猪苗代湖の貯水量管理のため電力会社が堰堤を建設。

水位上昇によりAの移転地が再度水没することになったため、Bに移転した。

その際、千貫に移転した住民もいたのではなかろうか。

 

 


水面が低下した時の秋元湖の様子。

上部に見える小野川発電所付近に明治〜大正期の秋元集落があった。

その南側に広がる格子状の土地は耕作地の跡だろうか。

斜めに走る道路の跡も見える。

 

水門東側には浚渫して掘り下げた水路があるようだ。

水流のためだろうか、それとも木材運搬通路だろうか。

 

 

 

 

 


<付録>

新旧の小野川集落を示す。 黄色で囲んだのが旧集落である。

作業小屋だろうか、数件の建物が見える。

耕作地らしき痕跡もあるようだ。

小野川湖が形成されたことにより道路が水没し、

西側への移動が不便になったのが移転の理由だろうか。

 

しかし、ひと尾根越えた南側に移転したからと言って、

新たに道を開削しなければならないことに変わりはないように思える。

 

 

 


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