林業・鉱業・開拓の街にあった分校一覧 (福島県) 2014.09 [TOP] [寄り道]
中通り | 10 |
備考 |
原状 |
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福島市立 | 中野小学校大滝分校 | 明治23年(1890)〜昭和42年(1967) | 万世大路(国道13号)開通の際、宿駅として開設 | 更地 |
〃 | 庭坂小学校大平分校 | 昭和24年(1949)〜昭和45年(1970) | 大笹生の大平開拓地に開校 | 解体・更地 |
郡山市立 | 月形小学校安積鉱山冬季分校 | 昭和23年(1948)〜昭和43年(1968)頃 | 安積鉱山の鉱山宿舎に併設か | ここかな? |
〃 | 多田野小学校山田原分校 | 大正9年(1920)〜昭和47年(1972) |
開拓。明治の安積開拓で土佐藩士が入植 | 校舎の一部残存 |
三穂田村立 | 三和小学校高籏分校 | 昭和15年(1940)〜昭和38年(1963) | 現・郡山市。高籏鉱山の鉱山宿舎に併設 | 残骸があるらしい |
棚倉町立 | 高野小学校久慈川分校 | 年()〜昭和40年(1965) | 林業 | 土場(標柱あり) |
塙町立 | 高城小学校入山分校 | 年()〜昭和39年(1964) | 林業 | |
〃 | 高城中学校入山分校 | 年()〜昭和39年(1964) | 〃 | |
天栄村立 | 湯本小学校鎌房分校 | 昭和28年(1953)〜昭和32年(1957) |
林業。鎌房林道沿いか。4年間のみ存在 | ここかな? |
〃 | 湯本小学校河内分校 | 昭和26年(1951)〜昭和36年(1961) |
開拓。集落内を河内川森林鉄道が通過 | 林業かも |
河内川と胡桃沢の合流点に |
集落があり、分校もあったとのこと |
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浜通り | 6 |
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原町市立 | 石神第二小学校横川分校 | 明治44年(1911)〜昭和40年(1965) | 原町森林鉄道の横川入事業所に併設 | 更地 |
飯舘村立 | 飯樋小学校高倉分校 | 年()〜昭和35年(1960) | 高倉鉱山の鉱山宿舎に併設。専用鉄道あり | ここかな? |
大堀村立 | 大堀小学校三程分校 | 年()〜昭和62年(1987) | 現・浪江町。浪江森林鉄道の三程線分岐にあり | 更地 |
〃 | 大堀中学校三程分校 | 年()〜昭和48年(1973) | 〃 | 校舎・校門現存(2007) |
四倉町立 | 大野第一小学校八茎分校 | 明治9年(1876)〜昭和38年(1963) | 現・いわき市。八茎鉱山の鉱山宿舎に併設 | 藪(標柱あり) |
いわき市立 | 川前小学校神楽山分校 | 年()〜昭和34年(1959) |
神楽山森林鉄道の神楽山事業所に併設か | 更地 |
会津 | 12 |
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猪苗代町立 | 吾妻第一小学校議場分校 | 昭和24年(1949)〜昭和48年(1973) | 林業。「議場」は「ぎば」と読む | 藪 |
〃 | 吾妻第一中学校議場分校 | 〃 |
〃 | 藪 |
〃 | 吾妻第二小学校沼尻分室 | 明治45年(1912)〜昭和36年(1961) | 日本硫黄沼尻鉱山の鉱山宿舎に併設 | ゴルフ場 |
〃 | 元山小学校 | 大正9年(1920)〜昭和43年(1968) | 〃 | 更地 |
〃 | 元山中学校 | 昭和22年(1947)〜昭和43年(1968) | 〃 | 〃 |
西会津町立 | 奥川小学校弥生分校 | 昭和20年代()〜昭和58年(1983) |
開拓地に開校。奥川林鉄久良谷支線の沿線 | ここかな? |
昭和村立 | 大芦小学校玉川冬季分校 | 並松山開拓地に開校 | ||
田島町立 | 八総鉱山小学校 | 昭和31年(1956)〜昭和46年(1971) | 住友金属八総鉱山の鉱山宿舎に併設 | 2011解体 |
下郷町立 | 楢原小学校宮山分校 | 年()〜昭和36年(1961) | 林業 | |
檜枝岐村立 | 檜枝岐小学校赤岩分校 | 昭和32年(1957)〜昭和44年(1969) | 開拓 赤岩平か(14戸入植) | |
〃 | 檜枝岐中学校赤岩分校 | 昭和34年(1959)〜昭和44年(1969) | 〃 | |
〃 | 檜枝岐小学校大杉分校 | 年()〜昭和48年(1973) | 開拓 小沢平か(14戸入植) | |
28 |
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旧桧原村 | 裏磐梯の分校群 | 噴火により壊滅的被害を受けた村にあった分校 | ||
現在建物はなく更地になっているが、廃村となった今も元住人たちが集まり、
春と秋に開催される親睦会の場所として使われ続けている。
写真は平成22年(2010)春に分校跡で行われた観桜会の様子。
「わが大滝の記録」より転載
旧土佐藩士が入植した山田原にも分校があったと知った時、
集落の中ほどにある、現在ゲートボール場として利用されている広場が思い浮かんだ。
奥には藪に囲まれた廃屋があり、元はなんだったのだろうか? と奇妙に思った場所だ。
再訪してみると広場には厚い鉄板が敷かれ、周囲は大型車のタイヤ痕で荒れており、
片隅にはプレハブの工事事務所が建てられていた。
確かにここが山田原分校の跡で間違いないとのこと。
「児童数が増えたので校舎を増設したのだが、
いま残っているのがその増設部分で、古い校舎は撤去された。
ここは現役当時からずっと私有地で、今は持ち主が倉庫代わりに使っている」。
などなど、寒風の中お話して頂けた。
ここは森林鉄道の本支分岐にあたり、営林署の横川入事業所があった。
軌道跡が車道林道になり、県道に昇格した珍しいルートである。
分校は手前の空地に建っていた。
[2006.06]
本支分岐点を俯瞰で捉える目的のポジショニングだったが、手前の空地を大きく入れたアングルでも撮っておいたのがこれ。 | |
藪になるわけでもなく、耕地にするわけでもない、この不思議な空地は訪れるたびに気になっていたのだが、 | |
後年発刊された「原町市史」にて、分校跡であることが判明した。 | |
そう言えば、郡山市立図書館は「原町市史」の発刊に気付いておらず、私が連絡して急ぎ蔵書にしてもらった本だった。 | |
お蔭で後日、まだ図書館印も押してないまっさらな新品を顔パスで読ませてもらえたっけ。 | |
飯樋小学校高倉分校 (飯館村) | |
写真はないのだが、「おはようドミンゴ」というサイトに古い「原高新聞」の「高倉鉱山見聞記」が転載されており、 | |
この中で高倉分校にも触れているので参考にさせて頂く。 | |
時期の表記がないが、「引き揚げ者」とあるので戦後間もない頃と思われる。 | |
「宝山寮」というのは鉱山事務所のことだろうか。 「高倉分教場」はさらに「山の上」にあったようだ。 | |
教師は男女各1名、児童は30名で、分校校舎は「福島第二」の大きさとのこと。 | |
週に2回、原町からトロッコで約3時間掛けて食料が運ばれてくる、とある。 | |
廃校後は「少年自然の家」として使われていた時期があったようで、
平成15年(2003)発行の地図にはそんな記載がある。
相当痛んでいたが、大震災、原発事故を経た今も残っているだろうか。
Yahoo地図では屋根が見える。 北側の広場が大堀小学校三程分校の跡。
なんとか「大堀中学三程分校」と読める。
この時は、まさか浪江町全体が無人の街になるとは夢にも思ってなかった。
[2007.04]
田神林道から支線が分岐する辺りに広がる荒れた平場。
私はここを神楽山事業所跡と想定しており、分校もここにあったと考えている。
朽ちた柱や空き瓶がある程度で、痕跡は何もない。
[2005.04]
吾妻第一小学校 議場分校・吾妻第一中学校 議場分校 (猪苗代町)
「続・懐かしの沼尻軽便鉄道」掲載の写真だが、小学校なのか中学校なのか不明。
昭和24年頃撮影とのことなので、完成直後の様子だ。
校庭、畑、校旗掲揚ポールなどが見える。 詳細は →こちらで。
当初は日本硫黄が設置した沼尻鉱山小学校であった。
村立、町立、分室、を経て昭和36年(1961)に廃校となった。
詳細は →こちらで。
猪苗代町立元山小学校・元山中学校 (猪苗代町) New! 当初は日本硫黄が設置した沼尻鉱山小学校 元山分教場であった。 村立、中学校併設、町立、を経て昭和43年(1968)、閉山と共に廃校となった。 詳細は →こちらで。 |
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<福島県の廃校> | |
以下は、表題とは無関係な「その他の廃校」の写真である。 | |
探す意思を持って訪ねたのは少数で、ほとんどが通りすがりに偶然見つけた学校跡ばかりだ。 | |
よって特に思い入れがあるわけでもなく、しかも10年も前の撮影なので、印象も希薄である。 | |
どこで撮ったのか忘れてしまう前に書き留めておこう、という備忘録が目的なので、内容はいつもより更に薄め。 | |
<中通り>
旧八丁目宿を探索中、奥州街道から分かれて板谷街道に入ったところで、
路肩に立派な階段を見つけたので上ってみた。
案の定、学校跡であった。
既に校舎は撤去されており、やたらと広い敷地があるだけだった。
実を言うと松川小は廃校になったわけではなく、東へ移転したのだが、
校門の門柱だけはそのまま残されていた。
現在は、東日本大震災被災者用の仮設住宅が立ち並んでいるようだ。
[2004.03]
当初は東和町岩代町組合立小学校として、両町の境界であるA地点に建設された。
昭和38年(1963)、B地点に移転して東和町立上太田小学校になり、
合併後は二本松市立上太田小学校となったが、
平成22年(2010)に市立東和小学校に統合され、上太田小学校は廃校になった。
なお、中央の集落は相馬街道・白髭宿である。
「国土地理院」より引用・加工 1975年
旧相馬街道を夏刈から白髭に向かって下って行く途中で偶然見つけた。
正面に見える平場に上太田小学校があった。
現在は耕地となっている。
[2004.08]
「旧上太田校舎跡記念碑」とある。
詳しい説明が彫られているようだが、
たった1枚撮影しただけで、読むこともなく立ち去ってしまった。
おそらく10数年前、まだデジカメを持ってない頃に一度訪問している。
「巨木巡り」と称して市内各地をドライブした時、ここにも寄ったことを現地で思い出した。
この奥にある薬師堂の両脇に、「夏出の大キャラ」と「夏出の大イチョウ」があるのだ。
堂宇の前にある無駄に広い平場が気になり、旧版地図を見てみると「文」の記号があった。
1km南西に移転する前の夏出分校だ。 その新分校も2011年に廃校となってしまった。
昔ここには寺があり、寺子屋を開いていたため、その跡地に分校が設置された。
かつては薬師堂前の階段まで、参道が真っ直ぐに伸びていて、
そのせいで分校敷地が狭かったのだが、後に南側に迂回する道を作り、敷地を拡幅した。
写真右側の坂道がそれである。
「狭い校庭に白線を引いて、運動会もやってたんだ」、と苦笑いしながら語ってくれた。
(「大槻町の歴史」より引用)
大槻村立大槻小学校の分校として大正8年(1919)に創立。
昭和30年(1955)に郡山市と合併したため、昭和33年3月に廃校となった。
校舎は同年5月から公民館として再利用されていたが、
後年、前記の建物に建て替えられた、、、との資料を発見した。
よく見ると、「郡山■針生分教所」とあるように見える。
その跡地が行ったことのある場所だったことも驚いた。
中央公民館針生分館である。(平成19年建設)
学校跡なら桜の古木がある理由も納得である。
上の写真にある石の土台や、校門などの遺構は残ってないようだ。
校名の標識を誰か保存してないだろうか。
裏面によると大正9年(1920)の建立とのこと。 分校創立の翌年である。
地元にとって、それだけ嬉しい出来事だったのであろう。
その経緯らしきものがびっしりと彫られているが、コケや汚れで読みづらくなっている。
現在は郡山市富久山町北小泉にある市立小泉小学校の初代があった場所。
前の道を三春馬車軌道が通っていたため、その探索中に通りがかった際、
城址のような石垣に惹かれて、とりあえず撮影しておいたもの。
かつて村役場があり、その前は小学校があった場所とのこと。
やはり素晴らしい石垣だ。
一部、剥がれ落ちそうになっている点が心配ではある。
[2017.03]
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旧白河街道・勢至堂宿にある。
これを撮影した当時はまだ現役だったので、「跡」ではない。
しかし、撮影から一年後の平成16年(2004)に廃校となった。
「最後の桜」とは知らずに撮影したのだった。
校舎はしばらく残っていたが、数年後には撤去されてしまった。
門柱には「長沼町立勢至堂小学校」、と昭和46年(1971)までの旧名の表記が残る。
更地となった現在は手入れする人もなく、藪になっているようだ。
[2003.04]
旧御斉所街道沿いにあった。
現在は草薮に覆われた更地である。
田口小学校は古殿小学校に改称して現在に至る。
よって田口という名の小学校は現存しない。
[2006.01]
<浜通り>
新町軌道のルートを追って旧県道を進んでいる時に見つけた。
この記念碑がなければ、学校敷地だったことに気付かなかっただろう。
昭和40年(1965)に廃校となった。
[2007.05]
夏井川沿いに点在する発電所を訪ね歩いた時に寄り道した。
旧版地図の妙な場所に「文」の記号を見つけていたからだった。
ちょっと長くなるので →こちらで。
[2007.06]
これも発電所見物の途中だが、見つけたのは偶然である。
県道脇にある学校にいつもの活気がないので行ってみたら、空っぽであった。
知らない間に移転していたらしい。
現在はもっと西、夏井川の向こう側に建っている。
何代か前のものであろう。
これも新校舎に移してやればいいのになあ。
余計に寂しさが募る。
[2007.06]
<会津>
「現役当時の写真」を貼りだすとキリがないので除外していたのだが、
この学校についてはネット情報が皆無であり、
しかも既に「跡地」すら存在しないので例外的に取り上げてみた。
二本松裏街道を探索中に見つけた。
昭和27年(1952)開校〜平成7年(1995)閉校、と40年ほどの期間存在していた。
何かに転用・管理されているらしく、きれいな外観であった。
調べてみると福祉施設が入り、校庭は花壇になっているようだ。
[2003.06]
学校は北に移転して現存しているが、バス停の名前は「中学校入口」のままである。
校門の銘板は外されてしまっている。
[2004.07]
二本松裏街道の名所・強清水の東にある。
民家にしては広い敷地と、廃れた門柱だけが痕跡である。
跡地には近年蕎麦屋が建てられたようだが、休業状態のようだ。
[2003.07]
蝉峠の旧道を探索した帰路に見つけた。
標柱に誘われて集落の奥へと進んでみる。
なお、現在この標柱はない。
きれいなのは閉校してからまだ一ヶ月しか経ってないから。
江川小学校の分校群は2005年、一斉に統廃合され、
高陦分校、大内分校、雑根分校なども同時に廃校となった。
校庭の片隅には、昭和26年(1951)の銘がある「枝松分教場新築記念碑」が建つ。
まだクルマが通える道路が出来てなかった時期である。
小さな集落の分校としては、かなり立派な石碑と言えるのではなかろうか。
住民の喜びと期待が伝わってくるようだが、前述のように廃校となってしまった。
どうやら校舎は撤去された模様。 南会津の「ロケーションライブラリ」にも掲載されてたのに。
[2005.05]
旧越後街道を辿っていたら道を間違え、鬼光頭川沿いの道に入ってしまった。
迷ったついでに数々の廃橋を探索し、その帰路に見つけたのがこれであった。
いかにも「学校」という形に魅かれる。
ドラマや映画のロケに使えそうである。
大きな時計と授業開始を知らせるスピーカーが見える。
入り口には跳び箱が放置されていた。
実を言うと撮影場所をすっかり忘れていたのだが、
そんな時のために、とメモ代わりに撮っておいた下の一枚が大いに役に立った。
お蔭で場所と名前が特定できた。
かつては群岡小学校屋敷分校だったのが、後に独立して屋敷小学校になったようだ。
航空写真を見ると、校舎は車道からだいぶ奥まった所に建っている。
車道から見えたのだろうか?
自分がどうして気付くことができたのか、思い出せない。
(日が暮れて暗くなり始めており、しかもかなり疲れていたことは覚えている)
[2004.10]
余談だが、宝坂字屋敷というと、オパールが採れることで有名な屋敷鉱山の所在地でもある。 | |
場所は、分校より1kmほど北に下った字向屋敷にある個人所有地内で、既に閉山している。 | |
<メモ> | |
「福島の町と村1」によると、庭坂鉱山にも学校があったようだ。 | |
鉱山の場所は、「高湯付近の烏川上流およびその北側の中ノ堂の谷筋(水沢の支流中ノ堂沢)」とある。 | |
休山中だったが、昭和13年に日本製鉄、昭和14年から日本鉱業が経営するようになってから本格化し、 | |
奥羽本線・庭坂駅まで鉄索を架設。社宅や学校も併設された。 | |
釜石に次ぐ東北第二の鉄山とまで言われたが、昭和18年に再び休山してるので、 | |
学校があったのも4年ほどの短期間だった可能性がある。 | |
私設だったのか公立だったのかも不明。 | |
なお、高湯温泉の西、神ノ森にある信夫硫黄鉱山に小学校があった、とのネット情報があるが、ソースが不明。 | |
私が持ってる資料には記載がないので、もしかしたら上記した庭坂鉱山併設の学校と混同している可能性がある。 | |
今でも精錬所の巨大な煙突が残り、また、専用の運鉱道は「硫黄やまみち」と呼ばれて一部が現存している。 | |