安積開拓士族 「入植者の碑」  (郡山市)  2007/2012/2013    [TOP]  [寄り道]

   
  明治の初め、全国9藩から士族が郡山近辺に移住し、原野を開拓した。
  彼らが開拓した場所を示す石柱が、市内10箇所に設置されている。
  それらは移住者の子孫たちにより結成された安積野開拓顕彰会設立30周年にちなみ、
  郡山商工会議所青年部が平成5年(1993)から平成7年(1995)にかけて設置したものである。
  その位置と詳細、周辺情報を以下に示す。

 

              戸数   入植地   碑の位置
                       
  二本松藩   福島県   明治6年  

56戸

  大槻原、青田原(本宮市)、対面原   開成山大神宮
  久留米藩(1)   福岡県久留米市   明治11年   40戸   大蔵壇原   久留米3丁目
  久留米藩(2)           101戸   対面原   日和田町
  土佐藩   高知県   明治13年   120戸   広谷原、山田原、赤坂原   喜久田町卸センター
  会津藩   福島県   明治14年   33戸   南原、塩ノ原、北原、対面原、湯ノ原、山潟原   大槻町南原
  岡山藩   岡山県   明治14年   4戸   対面原の西北端   熱海町安子ヶ島
  鳥取藩   鳥取県   明治14年   69戸   広谷原   富久山町八山田
  棚倉藩   福島県棚倉町   明治14年   26戸   対面原   喜久田町堀之内
  伊予松山藩   愛媛県松山市   明治15年  

18戸

  牛庭原   安積町牛庭4丁目
  米沢藩   山形県米沢市   明治16年  

15戸

  四十坦原   三穂田町駒屋

※戸数は諸説ある


 

<二本松藩>

開成山大神宮の正面鳥居のやや南側にある。

前を通る国道49号は元々開拓の際に開削された道路で、

開成山を挟んで北町と南町に分かれていた集落間を結んでいた。

入植者は道路両側に並ぶ住宅に住んでいた。

 

2012.09

 

これが入植者の碑である。

もうちょっと日当たりの良い、人の目にも触れそうな場所はなかったのだろうか。

 

この辺りの開拓は県や開成社によるもので、国による安積開拓とは関係ない。

開拓村は後に桑野村となって独立することになる。

 

 

 

2012.09

 

説明文。

 

旧二本松藩士が城下の神社から分社して新設、という神社は見当たらない。

開成山大神宮がそれに該当するのであろう。

 

 

2012.09

 

※ 須賀川市に移住した二本松藩士が祀った神社については こちら


 

<久留米藩> 第一区

久留米公民館の駐車場内にある。

当初はすぐ東にある水天宮池畔に立っていたようだ。

隣にある「開墾百二十周年記念碑」を設置する際、併設するために移転したか。

 

 

2012.09

 

大蔵壇原の下に括弧して(南久留米)とある。

南北ある理由は次の「第二区」の項で述べる。

 

 

 

 

 

 

2012.09

 

説明文。

 

移住してきたのは、久留米藩難事件(大楽事件)に関与して、

有罪・投獄となった人々が中心となった。

赦免後も県では厄介視しており、当人も地元に居辛い状況があっての移住であった。

2015.05追記

2012.09

 

入植者は故郷の水天宮から分社し、明治15年(1882)この地に祀った。

境内には多数の記念碑があるので、別ページを設けて紹介する。

 

 

 

2012.09

 

 


 

<久留米藩> 第二区

旧久留米藩士の開拓地は第一区・大蔵壇原と第二区・対面原に分かれていた。

入植直後に内部対立が発生し、反主流派が二区に移転してしまい、

二区が独立したような形となったため、北久留米、南久留米と呼ばれるようになった。

百数十年経過した現在でも和解には至ってない模様で、

「旧久留米藩士 入植者の碑」も、それぞれ2箇所に設置された。

2012.08

 

碑文にも「対面原(北久留米)」とあるが、理由の説明はない。

 

背後には安積疏水の第1分水路が通っている。

 

 

 

 

 

2012.04

 

説明文。

 

 

 

 

 

2012.04

 

南にあるように、北にも水天宮がある。

同じく、久留米市にある総本宮から分社したもの。

彼らが植えたのであろう桜が大きく育ち、きれいな並木になっていた。

右には集会所、左には消防団の屯所がある。

 

2012.04

 


久留米からの入植者は水天宮だけでなく、金刀比羅神社も祀った。

彼らがなぜ船の神を祀ったのかは伝わっておらず、謎のまま。

長い船旅を経てこの地に辿り着いたからではないか、と推測されている。

 

 

2012.04

 

参道途中の鳥居が大震災の影響で倒壊していた。

奥の石灯籠も上部が撤去されている。

片方だけになった鳥居がなんとも痛ましい。

 

 

 

2012.04

 

 


<土佐藩>

国道49号から「卸センター」の標識に従い東へ入る。

すぐに卸町神社の緑地が見えるが、碑はその南東角に立っている。

 

 

 

2012.09

 

碑文には「廣谷原」とあるが、ここでは簡単な「広谷原」とする。

元は「荒野原」だったそうで、元土佐藩士らは刀を鍬に持ち替え、荒野を耕して美田に変えたのだ。

 

広谷原の南半分に入植した彼らは、高知開墾社を結成して開拓した。

 

 

 

 

2012.09

 

説明文。

 

移住してきたのは、高知の自由民権運動組織である共行社に所属していた人々であった。

国と県は移住を前提として社の内部分裂を謀り、主眼の民権運動沈静化にも成功した。

2015.05追記

 

2012.09

 

広谷原の土佐士族のうち、西原に入植した24戸が明治24年(1891)に祀った豊受神社は、

碑からやや西に離れたところにある。  

地図を見ながらなんとか辿り着くと、それは広い水田の中の高台にポツンと建っていた。

道が狭く、クルマを止める場所に苦労する。

境内は狭く、倉庫はあるが集会所などはなかった。

こんな乾いた荒野を開墾したのだな、とよく分かる場所だ。

2012.04

 

昭和29年(1954)、富田村は郡山市と合併することになったが、村議会は分裂し、すんなりとは決まらなかった。
反対したのは富田村の広谷原に住む土佐士族の子孫たちであった。
結果、古くからの住民が住む地域は郡山と合併したが、広谷原地区は隣接する喜久田村に編入されることになった。
 
広谷原のうち中原、東原に住む開拓民子孫は富田村の日吉神社の氏子になっていたのだが、
東原住民はそのまま継続し、中原住民は喜久田村にある宇倍神社の氏子に、と分かれた。
その喜久田村も昭和40年(1965)に郡山市へ吸収合併されている。

 


土佐からの第二陣は広谷原から遠く離れた山田原赤坂原に入植した。

こちらは高知協力組と称した。

ここは安積原野の西端にあたり、寒く乾燥した台地で稲作には全く適していなかったため、

彼らは桑を植えて養蚕をしたり、牛を飼って峠越えの荷運びなどで生計を立てていた。

 

県道6号郡山湖南線を西に進み、三森峠への上りが始まると、そこが山田原である。

今では黄金色の美田が広がっている。  2012.09

 

山田原バス停から更に300mほど西へ進んだところに八菅神社への入り口がある。

真っ直ぐな参道の奥に鳥居が見える。

開拓者住宅は道路北側に一列に並んでいた。

土佐からの入植者の多くは離村してしまい、ほとんど残ってないのだが、

この両側の民家は、移住士族のご子孫のお宅である。

2012.09

 

この地に入植した土佐士族が崇める菅原道真と、

地元の農家2戸が祀っていた八幡神社を合祀して八菅神社としたと言う。

 

ここに「入植者の碑」はなく、開拓記念碑もないようだ。

 

 

2012.09

 


「高知開墾協力組■」の碑
誰がどんな目的で建てたのか不明。
現物を拝見したいが、場所が分からない。
背景から見て墓地らしいのだが・・・。
   
「元高知県士族門田重賜墓」の碑
山田原への入植者名簿にもある門田重賜の墓碑。
彼がどのような人物であったのかは不明。
山田原には神社以外に開拓遺構がないので、ぜひ現物を拝見したいが場所がよく分からない。
こちらも墓地らしいのだが・・・。
 
共に「こおりやま逢瀬ふるさと町史」より転載
2015.05 追加
   

上記の2基の石碑を確認するため、まずは山田原地区の墓地の所在を探した。
航空写真にて周辺を観察してみると、集落から南にだいぶ離れたところにあった。

2017.06 追加

   
墓地の敷地は狭く、すぐに門田重賜の墓碑が見つかった。
この一画だけ雑草がぼうぼうに生えているので目立つのだ。
現在、集落に門田家の子孫は住んでおらず、無縁仏になっているのだろう。
しかし、最低限の手入れは集落の人々によって続けられてるように見える。
 
なお、「協力組」の碑もここにあるはずと踏んでいたのだが、今回は見つからなかった。
   
資料にある通り、正面に「元高知縣士族門田重賜墓」とある。
向かって左の側面には、「明治二十五年旧五月三日没」
右側面には、「行年四十五才」とあった。
没年に「旧」とあるので数え年であろう。
 
  嘉永元年 (1848)   土佐で生まれる
  明治14年 (1881)   34歳 7月、安積開拓のため、山田原に入植
        (入植地を離れ、高知に帰郷)
  明治25年 (1892)   45歳 五月、没す
   

<会津藩>

東北自動車道と県道55号郡山矢吹線が交差する辺りに南原集会所がある。

碑はその一角に建てられている。

 

 

 

2012.09

 

旧会津藩士に与えられた土地は他藩の半分ほどで、しかも水の便が悪く、痩せていた。

集団での移住も許されず、少数かつ分散するように配置された。

安積疏水開通後も分水路開削工事は自腹を強いられた。

しかし水路の末端に当たり、十分な水を得られなかったと言う。

彼らは県に何度も改善の要請をしたが、県令の三島通庸はそれらをことごとく却下した。

 

会津というだけで徹底的に苛められた。

 

2012.09

 

説明文。

 

 

 

 

 

2012.09

 

集会所の一角に区画整理記念碑と並んで小さな石碑があった。

 

 

 

 

 

2012.09

 

「南原開拓記念碑」とある。

昭和37年(1962)に設置された。

開墾80周年記念碑に該当するのだろうか。

 

 

近くに「入植100周年記念供養塔」というのもあるそうだが未見。

 

 

2012.09

 

石碑の裏面には移住した旧会津藩士21人の名が刻まれていた。

前述のような状況下で彼らの多くは生活苦に陥り、借金を返せずに土地を取られ、

ある者は小作になり、またある者はこの地を離れていった。

かつては彼らが祀った神社があったそうだが、

その敷地すら手放さざるを得ない惨状に陥り、現在は残っていない。

会津藩士の子孫も、ほとんど残ってないとのこと。

2012.09

 

 


<岡山藩>

安子ヶ島駅のやや東、国道49号沿いにある。

ここは何度も通ってるし、反対側にあるドライブイン「幸華」にはよく通ったものだが、

この碑には全く気付いてなかった。

 

 

2012.09

 

10戸の士族が国の許可を得たが、実際に入植したのはわずか4戸だったらしい。

主に酪農を営んだそうだがうまく行かず、早々に全戸がこの地を離れた。

そのせいか、神社や記念碑などは残っていない。

明治政府は農業、製鉄、築港などの分野で西洋の技術をそのまま日本に移植しようとしたが、

ことごとく失敗した。

 

地元の人には近代酪農が珍しかったのか、古老は今でもこの辺りを「備前開墾」と呼ぶのだそうだ。

 

2012.09

 

説明文。

 

 

 

 

 

2012.09

 

 


<鳥取藩>

鳥取市にある宇倍神社の分社が遠く離れた郡山市にある。

明治初期に開削された安積街道(県道296号荒井郡山線)に面しており、

碑は鳥居の脇に立てられている。

 

 

2007.09

 

土佐藩と同じ広谷原の北半分に旧鳥取藩士は入植した。

明治16年(1883)、彼らが故郷の鳥取から分社して祀ったのが、この宇倍神社である。

 

 

 

 

 

 

2007.09

 

説明文。

こちらは「宇倍」ではなく「宇部」となっている。

 

 

 

 

2007.09

 

何度も改築を繰り返したであろう立派な社殿。

戦前までは、鳥取士族とその分家以外は氏子になれなかったのだそうだ。

 

境内は広く、改築記念碑や鳥取から運んだ巨石など、多くの石碑が見られる。

 

 

2007.09

 

上の写真左側の石灯籠は大震災で倒壊していた。

1年半が経過した今でも修理されず、残骸がシートに乗せられていた。

この石灯籠は鳥取開墾所が大正4年(1915)に奉納したものである。

 

郡山市と鳥取市は姉妹都市関係にあり、

その縁で大震災の折にはいち早く人的、物的支援を頂いている。

2012.09

 

明けて正月に再訪したところ、粉々になっていた灯篭が修復されていた。

砕けたパーツを接合して再現したようだ。

大した技術である。

 

 

 

2013.01

 

境内で最も巨大な石碑がこれ。

「廣谷原開墾碑」である。 大正9年11月の建立。

移住40周年を記念して立てられた。

副題には「廣谷原開墾紀功碑」とあった。

 

 

 

 

2012.09

 

廣谷原開墾碑。

漢文がびっしり並ぶ、苦手なタイプである。

 

 

 

 

2012.09

 

入植者が結成した鳥取開墾社が奉納した手水鉢。

明治29年(1896)の銘がある、とても古いものであった。

台座の切り石がL字型であることに気付き、その手間の掛けように感動する。

 

開墾社とは今で言えば農協のような組織になろうか。

開拓を終えて土地が払下げられた時に解散し、「鳥取開墾所」と改名した。

2012.09

 

参道の途中にある鳥居には「鳥取高知開墾八十周年記念」とあった。

反対側には「昭和三十七年一月吉日献納氏子一同」とある。

広谷原には鳥取と高知の士族が入植したが、その子孫たちが共同で立てたのだろう。

 

(広谷原に入植した土佐士族のうち、中原の入植者は富田村にある日吉神社の氏子になっていたが、

富田村が郡山市に合併されることに反対して喜久田村への編入を選び、同村にある宇倍神社の氏子となった)

 

 

2012.09

 

 

神社の少し北側に十四戸(じゅうしこ)というバス停がある。

これは入植者の住宅が14棟あった地区の意味で、そのまま地名になったわけだ。

付近には他に三戸、十二戸、十五戸、三十戸の地名がある。

 

待合室の背後には安積疏水の第2分水路が通っている。

2012.09

 

さらに離れたところに鳥取集会所がある。

鳥取という地名はないはずだから、これも鳥取藩から取ったのだろう。

かつて存在した集会所を再建し、これで4代目だそうである。(平成8年建)

 

 

2012.09

 

鳥取集会所のすぐ西側には東北自動車道が通っている。

明治14年の明治天皇東北巡幸の際、有栖川宮が天皇の名代としてこの地を訪れている。

大正12年4月になって「有栖川宮野立所記念碑」が、

この付近にあった移住者宅前に立てられたが、そのお宅は自動車道工事により移転。

石碑は道路脇に移されたとのことだが、見つけられなかった。

 

2013.01

 

当時、鳥取開墾社の副頭取・坪内元興(もとおき)が住んでいた家。

これは入植者向けに用意された規格住宅4種の中でも最上級の一号住宅。

視察に訪れた三島通庸がこの坪内家で休憩した、との記録がある。

 

移築・復元されて保存されている。

 

2007.09

 

 


<棚倉藩>

国道49号に面した磐梯ドライブイン脇のY字路にある。

この碑の存在には気付いていた。

 

 

 

2012.08

 

与えられた開拓地は他藩より狭く、苦労したとのこと。

棚倉も会津同様、明治政府に苛められた。

 

 

 

 

 

 

2012.08

 

説明文。

 

 

 

 

 

2012.08

 

碑から少し西へ進んだ所にバス停がある。

入植者は少なかったがなんとか定住したためか、現在でも「棚倉」との地名が存在している。

生垣の向こう側には安積疏水の第1分水路が通っている。

 

 

2012.08

 

上の写真に写る砂利道を進むと三柱神社がある。「みはし」と読む。

これは対面原に入植した棚倉、二本松、会津の士族が共同で建てたものである。

社殿に接して棚倉集会所が立てられている。

境内の周囲には堀が巡らされ、安積疏水の水が引かれていた。

小さいながらもなかなか風流な神社である。

 

2012.08

 

対面原に入植した旧会津藩士は春日家ただ一戸であったが、

その春日茂を称える「功労碑」が鳥居の脇に立てられている。

昭和13年建立とある。

 

 

 

2012.08

 

 


<伊予松山藩>

県道143号仁井田郡山線と市道の交差するところに安積公民館・牛庭分館があり、

碑はその西側にある。

 

 

 

2012.09

 

なんと、碑は安積疏水の真上に立てられていた。

立てられそうなスペースは他にいくらでもあるようだから、意図的にここを選択したのだろう。

 

 

 

 

 

 

2012.09

 

説明文。

 

 

 

 

 

2012.09

 

牛庭分館は大久保公園の一角にあるのだが、以前ここは大久保神社であった。

大久保とは大久保利通のことで、公園内に巨大な「追遠碑」が残っている。

明治44年(1911)社殿が老朽化したためこれを廃し、代わりに立てられた碑がこれである。

安積永盛駅(当時は笹川駅)に到着した石碑を、村人総出でここまで運んだのだそうだ。

周りを囲む石柱は牛庭原開墾百周年記念として昭和58年(1983)に設置されたもの。

 

2012.09

 

扁額は「業廣真崇」だろうか。

漢文がびっしり並んでいる。

 

 

 

 

2012.09

 

少し離れた水田の中に小さな神社がある。

入植者たちは故郷松山の三嶋神社から分社し、この地に祀った。

 

 

 

2012.09

 

ここの鳥居も大震災で倒壊していた。

しかし早くも新しい鳥居が参道入り口に立てられている。

 

 

 

 

2012.09

 

新しい鳥居にはこんな銘板が付けられていた。

あの大震災がすでに歴史の一部になったような、複雑な感覚である。

 

私が100年、200年前の物件を見て何らかの感慨を抱くように、

100年、200年後の人はこの銘板を見て何かを思うのだろう。

 

 

 

2012.09

 

境内に「移住記念碑」が立っている。

開拓80周年を記念して昭和36年に立てられたもので、

文末には「旧松山藩主第十五代 定昭 孫  現愛媛県知事 久松定武書」とあった。

定昭とは松山藩最後の藩主・松平定昭のこと。

松山藩は代々久松松平家が藩主を継いでおり、維新後は久松姓を名乗った。

殿様の孫が知事になったわけだ。

 

 

2012.09

 

移住記念碑。

 

 

 

 

 

2012.09

 

裏面には「伊豫松山藩士族 移住者氏名」とあり、ずらりと名が並んでいる。

2、3戸を除いてほとんどが小作に転落したが、離脱者は少なかったという。

よほど結束が強かったのであろう。

 

 

 

2012.09

 

最初に入植した16戸のために建てられた住宅が現存している。

明治32年まで室崎久遠が住み、転出後は小山宇太治が住んでいた。

規格住宅には一号、二号、三号甲、三号乙があったが、

これは三号のどちらかだろう。

 

移築・復元され、市の重要文化財に指定されている。

2007.09

 

 


<米沢藩>

県道55号郡山矢吹線沿い、駒屋四十坦原集会所前にある。

「しじゅうだんばら」と読む。

 

 

 

2012.09

 

入植者の碑。

15戸が入植したがうまく行かず、10年ほどでほとんどが離脱していった。

そのため当時の資料が散逸してしまい、彼らが祀った神社も見当たらない。

これといった記念碑もないようだ。

 

 

 

 

2012.09

 

説明文。

3箇所中2箇所が四十「垣」原になっているが、まあ見なかったことにしよう・・・。

 

 

 

 

2012.09

 

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