原町森林鉄道・馬場線2 (原町市)   2006.06        [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]

 

ダムの上流は当然水没しており、

軌道跡を辿ることはできない。

 

 

 

 

 

              

さらに上流に向かい、ダム湖から川になっても

川岸に軌道の痕跡を見つけることはできなかった。

軌道跡は県道として転用されたはずだが、

これほどまでに痕跡を残さないものなのだろうか。

ダム湖から陸に上がる地点、現県道に合流する地点、

ともに発見することはできなかった。

 


ダム建設により廃された部分を

見つけることはできなかったが、

ここから先はほぼ完全に車道化されており、

軌道跡としての魅力には乏しい。

数少ない遺構を拾いながら進もう。

 

 

 

 

  <横川入〜十間橋>

K49を南下。

ダム管理用道路の入り口に架かる「小袖橋」の近くに

軌道当時の距離標が残されている。

(画像は振り返って撮影)

[2007.03] 追記
馬場線や明治支線の距離標は車道化の際に設置されたもので、
軌道とは無関係、との情報が寄せられた。
(やまちゃん氏投稿の元営林署職員の証言)

 

「五五○○」とある。

起点から5500m地点を意味するものだが、

起点がどこなのか、まだ確定できないでいる。

 

[2007.03] 確定 こちら→
「馬場字萱堀子地内(県道34と49の信号のある分岐点近くの中野幹夫氏宅付近」
(やまちゃん氏投稿の元営林署職員の証言)

<距離標の起点に関する考察> [追記]
明治41年
(1908)、最初に軌道が敷設されたのが、馬場〜バッカメキ間とのことなので、
当初は馬場に最終貯木場があり、そこを「起点」に設定したのであろう。
その後、貯木場が原町駅前に移転しても、昭和14年
(1939)に路線が付け替えられた為、
当初の起点が消失しても、名目上の「起点」は馬場のまま継承されたのかも知れない。

 

この付近には廃レールとワイヤでできたガードレールがある。

同じく林鉄由来の県道253号落合浪江線も、

数年前までこんなガードレールが延々と続いていたらしい。

県道に昇格してからも見られるのはここ位ではないだろうか。

なお、この路肩は古い玉石垣になっている。

軌道時代のものだろうか。

 

 

 

 

さらにK49を南下すると分岐がある。

右が本線たる馬場線である。

 

 

 

 

 

山側の法面は石垣になっている。

軌道時代の遺構と思われる。

 

 

 

 

 

 

すぐ先に、また分岐があるが、

ここが馬場線と鉄山支線との分岐点であった。

車道化した馬場林道の起点でもある。

左が支線で、原町営林署により橋が架け替えられ、

県道に昇格し、今は廃されている。

(参照 橋梁Web>横川橋

[2003.11]

 

上図の左奥に見える県道から、同地点を見下ろす。

本支分岐点には一軒の民家があり、古い倉庫が並んでいるが、

これも林業関連施設だったと思われる。

横川入事業所とはここの事であろうか。

手前の空地には分校があった。 石神第二小学校横川分校と言う。

明治44年に塾として開校し、昭和40年3月に閉校した。

 [2014.09]追記

 

それらの倉庫群も老朽化が進み、

3年前には立っていた「○号倉庫 2A」

上図を見ると倒壊してしまっている。

 

 

 

[2003.11]

 

ここと思われる写真を見つけたので引用する。

手前が鉄山支線、左へ伸びるのが馬場線と思われる。

右の建物には「横川入○○事業所」とあるようだ。("斫伐"か"製品"かな)

奥には倉庫群が並んでいる。

 

放し飼いされたニワトリが和みますな。

 

 

 

上の写真の下にチラッと写っているのがこの鉄橋ではなかろうか。

橋脚まで備えた二径間の立派なガーダー橋である。

建物が二棟見えるが、現在手前は畑、奥は空き地になっている。

一応、原町森林鉄道・馬場線・横川橋梁、としておく。

[2009.02]追加

「交通にみる近代化」(野馬追の里歴史民俗資料館)より引用

 


拡幅され、軌道跡の面影を失った馬場林道に入る。

すぐに資材置き場があるが、元は土場だろうか?

右に赤錆びた看板がある。

 

 

 

 

 

これは驚いた!

非常に古い速度制限標識であった。

「dark的道部屋」さんによると、昭和35年制定の規制標識らしい。

どこからか移設された物だろうか? しかし、よく残ったものだ。

最高速度

35
km/h

MAXIMUM
SPEED

 

さらに進むと再び距離標を見つけた。

 

 

 

 

 

 

 

今度は「六○○○」とある。

先ほどの「五五○○」から500m進んだらしい。

この二等辺三角形の断面を持つ、鉄製の距離標は

かつて鉄山支線で見たものと同じ形状だ。

 

 

 

 

 

 

車のメーターに気を付けながら進むことにする。

すると路肩に危なげに傾いたのを発見。

 

 

 

 

 

 

「六五○○」

5500、6000、6500、と三連続の残存である。

一つだけでも珍しい物件だけに、これは嬉しい。

しかしこの後暫く、距離標は見られなくなる。

(見つけた方はご一報ください!)

 

 

 

 

 

すぐ先に馬頭観世音の石碑があった。

「明治三十三年」とあるから、軌道敷設より以前のものだ。

この山は江戸期より石材や鉄を産したと言う。

軌道とは無関係に、古くから産業の道だったのだ。

(「椿辰之助」との銘あり)

 

 

 

石碑の少し先で太田川を渡る。

林道橋「じゅっけんばし」のすぐ下流に、

軌道遺構と思われる石積みの橋台が一対残存している。

十軒橋なのか、十間橋なのか銘板がなく不明。

 

[2007.02] 倒れた親柱が現存。「十間橋」とのこと。

 

上記物件を橋の上から見る。

これが対岸の橋台で、すでに樹木が根を張っている。

この付近だけ非常に川幅が狭くなっており、

橋を架けるのはベストであろう。

 

 

 

 

手前の橋台は藪に覆われてやや見にくいが、

丸太の橋桁を載せたのであろう切り欠きは確認できる。

 

 

 

 

 


[2007.03] 再訪

読者様より「親柱がある」との情報を頂き、再び訪問した。

確かにあるにはあるが、根元から折れてひっくり返っているではないか。

なんとも惨い状況だ。

しかも前回訪問時には正常だった欄干まで折れている。

 

 

 

 

 

天地を反転して掲載。

「十間橋」との銘板が見える。

 

 

 

 

 

 

maximum_speed300さんに感謝!

 

樹木に覆われていた橋台も鮮明に見られる。

この季節ならでは、だね。

 

 

 

 

 

 

夏にはほとんど隠れてしまう対岸の橋台もこの通り。

画面奥が原町駅方面。

 

 

 

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