日本硫黄沼尻鉄道1 (猪苗代町)   2006.09        [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]

 

初めてこの廃線跡を訪れたのは、いつ頃だろうか。
既に観音寺川の橋は架け替えられていたから、1990年代後半か。
その後も何度かドライブの帰りに車で通ったり、未転用区間を歩いたりした。
未だパソコンもデジカメも持っておらず、「廃線跡」という単語も知らなかった頃だ。

「遺構」というものは、新たに発見することはあっても、年々増える性質のものではない。
ご多分に漏れずこの鉄道遺構も、訪問する度に少しずつ減少していった。

沼尻鉄道を扱う書籍は多数存在し、(中でも「懐かしの沼尻軽便鉄道」正・続は決定的資料)
地元主催で廃線跡を歩くイベントも毎年開かれるなど、全国的にも名が知られ、ネット上にも多数のレポが見られる。
よって「何を今さら」な感がないでもないが、思い出深い場所でもあり、
また昨年、各駅跡に駅名標が設置されたこともあって、自分なりにまとめてみたくなったので本格的に探索する事にした。


安達太良山にある沼尻鉱山で採掘、精錬され、索道で麓の沼尻駅まで下ろされた硫黄を、
磐越西線・川桁駅まで運んでいた。逆に川桁駅からは、精錬所で使う石炭を運んでいた。
沿線住民の足としても親しまれ、また、関東方面からのスキー客を沼尻スキー場まで運び、
隣接する沼尻温泉、中ノ沢温泉と共に大いに繁栄した。

なお、軌道が敷設される前は馬車(冬は馬橇)で硫黄を運んでいた。また、精錬のための薪炭は
近隣の山の木材を使用していたが、採り尽くしてしまうと、遠く横向山まで馬車軌道を敷設して精錬所に運んでいた。

1890年代   採掘、精錬の近代化により、生産量が増大
明治41年(1908) 「日本硫黄耶麻軌道」が人車軌道(軌間609mm里道併用)を敷設
     敷設の許可は得られたが資金難により頓挫、との説もあり。(「続・懐かし」P58の青木教授の記述)
大正2年(1913)   ルートを一部変更し、軌間762mmの馬車軌道が竣功 (翌年、蒸気機関車導入)
     川桁、下館、樋ノ口、木地小屋、大原(後の沼尻)の五駅で開業。それぞれに駅員が配置された
大正12年(1923)   国鉄との重複を避ける為、下館→会津下館、樋ノ口→会津樋ノ口、大原→沼尻、に改称
昭和2年(1927)   順次、六箇所に停留場を開設。駅員は無配置
昭和20年(1945)   「日本硫黄沼尻鉄道」と改称。 S23〜27頃に貨物輸送のピークを迎える
昭和29年(1954)   ディーゼル機関車を導入
昭和35年(1960)   会津下館と木地小屋を無人化
昭和39年(1964)   鉱山の閉山により旅客専用に転換。 「日本硫黄観光鉄道」に改称
昭和42年(1967)   磐梯急行電鉄」に改称
昭和43年(1968)   電化されることなく休業が決定。 翌昭和44年(1969)廃止

下が川桁駅

観音寺川を渡り、やがて県道と合流。

上端に見えるのが白津集落。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国土情報ウェブマッピングシステムより転用)

赤い点線が軌道跡。緑の実線は旧県道。

 


これは磐越西線の川桁駅である。

比較的大きな集落内にあるにも関わらず、

明治32年(1899)の開業当時は貨物駅としてスタートしている。

この頃から沼尻鉱山と関係があったのだろうか。

(翌年から旅客営業を開始している)

 

 

駅前広場には平成15年(2003)、地元有志によって

沼尻軽便鉄道記念碑」が設置された。

表には「高原列車が行く」の歌詞と路線図、

裏には略歴が刻まれている。

「高原列車が行く」は沼尻軽便がモデルらしい。

石碑の陰にあるのは老舗の滝見屋旅館。

 

 

跨線橋から構内跡を俯瞰する。

ポストの辺りに駅舎があり、画面左が沼尻方面。

(画面左の車庫を駅舎跡とする「続・懐かし」P54の表記は誤り)

右奥の農協倉庫までの広い範囲が日本硫黄の構内だった。

現在、荒地になっている手前部分は国鉄用地であったが、

日本硫黄の側線が設置されており、画面右端に見える

貨物専用線へ荷物の積み替えをしていた。

 

その貨物専用線がこちら。

石積みの古いホームが見える。

当時はもっと手前の、現在駐輪場がある所まで

伸びていたようだ。

ここで硫黄や石炭の積み替えをしていたのだ。

 

 

 

沼尻鉱山の閉山と時を同じくして、この側線は使われなくなったと

思われるが、現在でも最低限の保守は行われている模様だ。

 

右奥ある乗客用ホームが、合流点付近まで伸びてきている。

長い編成の列車に対応しているようだが、

現在では無用の長物になっている。

 

 

 

 

上図やその上の画像の奥に、古い倉庫が写っているが、

これは当時からあった「長瀬農業倉庫」で、

第一から第四まである。

川桁駅の構内配線図を見ると、引き込み線がこの倉庫の

前まで伸びて来ているが、関連は不明。

現在、倉庫前にある土手は、その築堤の痕跡かも知れない。

 

 

同じ構内配線図には、倉庫脇に「農協事務所」の表記がある。

どうやらこれがそのようだ。

現在は廃墟になっている。

 

 

(倉庫群をもっと詳しく見たい、という変わった方は→こちら

 


<川桁駅> かわげた

沼尻鉄道・川桁駅舎の跡地には駅名標が建っている。

画面左奥に続く道が沼尻へ続く廃線跡である。

 

 

 

 

 

駅名標の写真を接写。

昭和39年5月の様子である。

国鉄・川桁駅を背にして撮影している。

二つの川桁駅は対面していたのだ。

「沼尻鉄道のりば」ってのが遊園地みたいで癒される。

 

 

 

さて、駅から一直線に延びる廃線跡に入る。

ここは専用軌道であった。

右の建物の所には、信号機の支柱があったのだが、

両側の側溝工事の際に撤去されてしまったらしい。

どこかに保存されているのだろうか。

 

 


1990年代後半の同所の様子。

側溝が整備される前は非常に狭い道だった。

狭軌の道床にアスファルトを敷いただけの状態に見える。

 

 

[2009.01]追記

 


非力な蒸気時代、この坂を上るのには苦労したらしい。

資料によると33‰と言うから半端な数字ではない。

坂を上り切った所に川があり、

ここに観音寺川橋梁が架かっていた。

 

 

 

せっかくなので、桜の時期の画像を使用。

観音寺川の両岸は桜並木になっており、

開花時期には大勢の観光客が訪れる。

名の由来となった観音寺にはカタクリの群生も見られた。

 

 

 

 

廃線後、ずっと車道橋として転用されていたガーダー橋は、

1990年代中頃に架け替えられてしまった。

一本あった橋脚も撤去され、橋台も作り変えられた。

 

 

 

[2006.04]

 

観音寺川橋梁を渡った先の右カーブ。

「鎮守の森」の暗がりを抜けて行く。

 

 

 

 

 

 

カーブの先の築堤は旧状を残している。

一車線の細道だが、けっこう車が通る。

 

 

 

 

 

 

その築堤を反対側から見る。奥が川桁駅。

1.0ton」の重量制限標識があるが、

これは鉄道のガーダー橋がそのまま転用されていた時代の「遺構」である。

なるほど、1ton制限じゃ撤去されるわけである。

ちなみに現在の橋には「9.0ton」との制限標識があるが、

逆にオーバースペックな気がする・・・。

切立橋より上じゃないか!)

 

 

 

すぐ先で県道と交差、ここには小さなコンクリート橋と踏み切りがあった。

現在は県道322号壷楊本町線であるが、

当時は「郡山猪苗代線」という名称だった。

名前から察するに、R49ができる前は、

この道が郡山〜猪苗代のメインルートだったようだ。

 

 

集落を抜け左にカーブすると、

左から来る県道323号野老沢川桁停車場線と合流。

ここからは併用軌道になる。

停車場とは、もちろん川桁駅の事である。

後方は、これからずっと付き合う事になる磐梯山。

 

 

 

上記、合流点を振り返る。

右が県道である。

現在軌道跡は、樋ノ口までこのK323になっている。

よって、軌道の痕跡はほとんど見られない。

 

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