几号水準点 1 (白河〜郡山) 2008.03 [TOP] [寄り道]
明治8年(1875)、政府は内務省に命じて東京〜塩釜間の測量を実施した。 測量と標識設置は、イギリスから招いたマクヴィン技師の指導で行われたためイギリス式となった。 すなわち、旧奥州街道に面した所にある既存の鳥居、石碑、石灯篭など不動の構造物に「不」に似た記号を刻み、 この横棒の位置を標高としたのである。 これを「几号水準点」(きごうすいじゅんてん)と言う。 |
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現在は栃木県と福島県の県境である。
ここを通る奥州街道は明治6年(1873)になって陸羽街道と改称されたが、
几号水準点設置後に三島通庸県令による換線のため、
すぐに旧陸羽街道になってしまった。
この県境に几号水準点がある。
台帳上は栃木県に属するようだが、馴染みの場所でもあるので加えておく。
几号の位置を示す「国界標石」とは東側にある江戸期の「従是北白川領」のことだろうか。
西側にある標石は昭和3年(1928)に設置されたものなので、明治期には存在しない。
土に埋もれているとのことでシャベルを持参したが不要だった。
少し落ち葉を払い除けただけで全容が現れた。
荒々しいノミ痕を平らに均したところに几号を彫ってある。
「ストリートビュー」にて残存を確認。
明治9年と明治14年に行われた明治天皇の巡幸の際に明神峠は掘り下げられている。
上段の石垣は明治9年の巡幸の際にできたものだと思っていたが、
几号水準点の設置は明治8年内に終了している。
巡幸の前年には既に完成していて、そのできたばかりの石垣に几号を彫ったのか、
あるいはもっと古い時代の石垣なのだろうか。
いずれにしても明神峠は明治初期には既にこの姿になっており、
現状はそれを拡幅&舗装しただけということになる。
峠から2kmほど北上した所に、県内最初の几号がある。
林の中にポツンと開けた空き地の一角に石碑群を見つける。
周囲が除草され、花が添えられていた。
苔生しており、一般の人が気が付くことはなさそうだ。
「ストリートビュー」にて残存を確認。
さらに国道を北上すると旧皮篭宿に入る。
「金売吉次の墓」の標識があるが、几号があるのはここではない。
隣に皮篭集会所があるので、ここに駐車させて頂く。
竹に覆われてやや暗い。
すぐにでも竹薮に没しそうだが、地元の方の手入れにより、
なんとか藪化を免れているようだ。
さりげない供花が嬉しい。
「ストリートビュー」にて残存を確認。
戊辰戦争の際、激戦地となった白河市の九番町。
ここに権兵衛稲荷神社がある。
ちょうど真ん中で割れてしまっている。
「ストリートビュー」にて残存を確認。鳥居は倒壊・撤去された模様。
国道4号線を北上、右折して旧国道に入り旧踏瀬宿方面へ向かう。
集落入り口の西側に愛宕神社の鳥居がある。
夏には草に埋もれそうだ。
「ストリートビュー」によると倒壊・撤去された模様。
国道4号線の東側を通る旧国道を進む。
旧矢吹宿の北端西側には一里塚があったと伝わるが、
現在そこに大きな地蔵像がある。
下ノ地蔵と呼ばれている石像にはきれいな花がたくさん供えられていた。
「ストリートビュー」にて残存を確認。
鏡田・笠石・成田・久来石が合併して鏡石村となったが、
その鏡田村も鏡沼・高久田・仁井田3村が合併して成立している。
旧鏡沼村にあるのが西光寺である。
寺は旧国道に面して建っている。
個人の墓所なので全体画像の公開は控えるが、
最も背の高そうな石塔を探して歩くとすぐに見つかった。
「豎通三界横括九居」と彫られた大きな供養塔がある。
街道沿いにあったものがここに移設されている。
横棒の上部が欠けてしまっているのが残念。
バイパスにより切断されてしまった旧街道を北へ進む。
右奥に見える石碑群は森宿の一里塚があった場所である。
藪に覆われており余り目立たない。
かつては白石坂の頂部にあったとのことで、
道路拡張の際、ここに移設された。
2013.06 震災後の残存を確認
神社は旧街道に面しているが、
几号があるのは一本西側を通る道路沿い。
総合病院前で客待ちするタクシーの脇に裏口がある。
[2008.04]
おそらく旧街道に面した表口から移設されたであろう鳥居がある。
あちこち補修された形跡が見られる。
[2008.11] 追記
氏子から新しい鳥居が寄進されたため、
この古い鳥居は解体されていたが、
几号の消失を惜しんだ研究者が宮司さんに提言し、
2007年11月ここに再建された、とのこと。 「あぶくま時報」より
震災でどうなったか気になっていたが、やはり撤去されて基礎だけになっていた。
基礎自体も割れてしまっている。
[2011.08]
柱に張り紙の跡が見える。おそらく「危険」の類ではなかろうか。
つまり倒れたわけではなく、傾いた程度で済んだのだろう。
分解されているが、パーツ自体に損傷はないように見えた。
鳥居再建の予定はあるのだろうか。
大震災から6年。
2017年の正月に訪れてみたところ、なんと鳥居が再建されていた。
いや〜、廃棄されてなくて本当に良かった良かった。
前述したようにパーツに破損がなかったため、修復も容易だったのだろう。
[2017.01]
御影石らしき、丈夫で大きなものに替えられていた。
地下深くにも基礎が埋まっているらしく、路盤の状態にも変化が見られる。
もちろん、几号の刻印も健在である。
・昭和5年(1930)5月 表参道から移設
・平成19年(2007)12月 解体修理
とあるが、大震災後の修理・再建については記載がなかった。
旧国道4号線、現県道355号線西側に面している。
書体が独特。
素人が記憶を頼りに真似て彫ったのか。
以前は街道に面した所に建っていたと思われる。
旧街道のここから奥へ入る。
左側に市指定天然記念物の「西方寺の傘マツ」がある。
これは偶然こうなったんですかね?
これも街道沿いから移設されたものと思われるが、
正確な元位置は不明である。
さて・・・これは問題の物件。
不可解なことに蛇骨地蔵堂の入り口から家2軒挟んだだけ、
という非常に近接したところにも几号があるのだ。
[2009.01]追記
どこからか持ってきたけどよそ者なので境内には入れてもらえず、
取り合えず駐車場の隅っこに集めておきました、
といった空気が漂う一角である。
壁際に立っているため非常に見辛い。
うわあ、、、信仰心の篤い寄進者の名前がズタズタである。
これはどこから移設されたのだろうか。
2013.05 震災後の残存を確認
この几号に関して「あぶくま時報」という地域新聞に、須賀川市在住の伊能忠敬研究会員・松宮輝明さんによる検証が載っていた。 昨年連載された「安積疎水と明治の標石」というコラムの中で、これは東京〜塩釜間の測量時に刻印されたのではなく、 安積疎水開削に伴う測量の際に刻印されたのではないか、と推測されている。 「あぶくま時報」 2007 11/16〜12/3 連載 |
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