小原田の休み石  (福島県郡山市)  2016.05        [TOP]  [寄り道]

  偶然見つけた「郡山の伝え語り」という本が面白くて読んでいたら、表題の昔話が出てきた。
  郡山市小原田は、かつては奥州街道・小原田宿として栄えた街だが、農業を兼業している世帯がほとんどであった。
  しかし、農地は自宅から離れた所にあり、農作業に通うだけでも大変だった。
  それを気の毒に思った古川清蔵という人が、昭和の初め頃、4箇所に休み石を設置した。
  これは現在で言うと歩道に設置された"ベンチ"のようなもので、
  小原田の人々は、農地への行き帰りに腰を下ろして休憩したり、世間話に花を咲かせたり、と憩いの場として親しんでいた。
  使われなくなった後も、昭和30年代まではそのまま路肩に放置されていたが、
  やがて道路拡張などのために、全て撤去されてしまった。
   
  しかし上記の本によると、その4つの休み石は現存しており、今も見ることができるとのこと。
  これは何とも興味深い!、と所在地を巡ってみることにした。
   

   
まず、当初の設置場所だが、
・A 図景(萱森木材店の西、国道4号辺り)
・B 西田(福島病院前)
・C 明地(東北音響前)
・D 古御角(小原田中学校西南の信号機付近)
とのこと。
   
  都市整備の際に消えてしまった地名が並び、現地の方ならともかく、余所者の私には見当が付かない・・・。
  C・Dは今もあるので凡その位置が推定できたが、A・Bについては木材店も病院もなくなっており、位置特定ができなかった。
  しかし、図書館にて古地図を参考に旧地名の位置を確認したり、実家にある古い都市地図から探し出したりして、
  休み石が設置されたと思われる4箇所を、なんとか地図上にプロットすることができた。
  全て推定なので、正確な位置をご存知の方がいれば是非ともご教授願いたい。
   
  次に、移転されたり、再利用されて現存する場所を緑色の星印で示した。
  、休み石を設置した古川清蔵の子孫が開業している古川歯科医院の裏にある氏神の脇
  香久山神社境内にある記念碑の台石に転用
  3・4小原田中学校の校門として一対
  ここまで詳細に説明されているので、再移転さえされてなければ発見はそれほど困難ではなさそうだ。
  さっそく行ってみよう。
   

   
<古川家>
 
まず最初に、休み石を設置した古川清蔵の家を確認すべく、
久し振りに旧奥州街道・小原田宿を訪ねる。
 
このビルが古川歯科医院で、奥に住居があるようだ。
間口が狭くて奥に長い、街村の特徴が今でも残っている。
   
医院の裏手にまわると、確かに小さな祠がある。
これが古川家の氏神様らしい。
 
道路に面したところにあるとは意外。
   
祠の周囲は廃材置き場になっており、割れた屋根瓦や古い石材が乱雑に置かれている。
その中に、休み石と思われる大きな四角い石があった。 
かなり荒削りな仕上げの御影石で、ベンチとして使用したらお尻が痛くなりそうな気がする。
 
転用されることもなく、原状を留めている唯一の休み石なのだが、
この状況を見てだいぶ感動が削がれてしまった。


   
<香久山神社>
 
祠の場所から少し南に進んだ所に香久山神社がある。 
門柱や鳥居が真新しい。
おそらく大震災で倒壊し、その後再建されたものであろう。
   
参道を進むと正面に立派な社殿があり、その左側に大きな石碑が立っている。
「社殿改修・神楽殿改築」の記念碑である。
建立は昭和51年9月とあった。
   
これか。 これが休み石か。
廃材に紛れて置かれた先のものより、かなり"良い顔"をしているように見える。
   
裏面を見ると、「台石寄進 古川清左衛門」とあった。
これは古川家の歴代当主が継いでいる名前のようだ。
おそらくは二本松藩から苗字・帯刀を許された資産家なのであろう。
 
試しに名前で検索してみたところ、なんと自サイトがヒットした(笑)。
先祖が「郡山湯本電鉄」に出資していたのだ。
時期からして、休み石を設置した古川清蔵本人なのではなかろうか?


   
<小原田中学校>
 
それらしい石を探して、学校を一周してみた。
すぐに見つけたものの、「これかな? これで合ってるのかな?」と確信できなかったのは、
石の各辺がきれいに整形されていたからだ。
4分の1ほどが地中に埋まっていると思われる。
   
ここにも「贈 古川清左衛門」の名があった。
やはりこれが休み石が転用された校門で間違いなかった。
銘板が埋め込まれていて助かったな。


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