束松洞門1 (会津坂下町)   2004.06   [TOP] [寄り道] [廃隧道]

  江戸期の越後街道・束松峠は難所であった。明治15年、越後街道は「会津三方道路」の一つとして改修されたが、
  その際ルートは束松峠を避け、2kmほど南の
藤峠を通ることになった。現在のR49旧道である。
  馬車が通れる藤峠開通により貨物輸送の主流はそちらに移り、駄馬しか通れない束松峠の交通量は激減した。
  人力や駄馬による貨物輸送で生計を立てていた束松峠沿線の住民にとっては死活問題である。
  このため沿線住民は束松峠に新しく馬車道を開削、峠には洞門を穿つことを計画、実行しほぼ独力で明治27年に完成した。
  この新道を以て県道昇格を申請したが叶わず、さらにその後、貨物輸送の主流は鉄道に変わっていった。
  
130間(約230mに及ぶ手掘りの洞門も、数年後には崩落したと言う。
  そんな、地元住民の執念と哀愁が漂う隧道を尋ねる。

かつて越後街道の宿場町であった

天屋・本名の集落に車を置き、

江戸時代と同じように徒歩にて

束松峠に入る。

歩くこと45分程で前方にT字路が見えてくる。

 

 

 

このT字路に標識がある。

左が旧街道で、右が明治の新道である。

ずばり「洞門」と書いてあるのが凄い。

崩落した隧道が観光地化しているようだ。

危険は無いのだろうか?

 

 

                     

左側の旧街道方面を見ると、

深い切り通しの先がT字路になっている。

右が旧街道、左が明治新道である。

つまり、この画像に写る区間は

新旧重用なのである。

この切り通しにより、旧状は破壊されたと思われる。

 

 

さて、標識から右側、新道方向を見る。

洞門道」と書かれた標柱が建つ。

その奥には車止めの杭が建っているが、

轍が続いている。

 

 

 

 

当初から馬車が通れるように造られただけに

幅員が広い。

以前は深い藪だったらしいが、

今はこのように整備されている。

 

 

 

 

浅い切り通しの左カーブ。

この辺りまではクルマが入っている様子。

 

 

 

 

 

 

その先は道が崩落したらしく、

幅員が狭くなっている。

0.3車線程しかなく、クルマはおろか

馬車も通行不能である。

バイクの轍だけが続いている。

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