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海軍は福島県内に飛行場を建設するため、県内各地を調査して適地を探していたが、 |
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昭和17年(1942)2月に郡山市近辺に建設することが決定した。 |
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しかも一気に3箇所、大規模な航空隊基地が設置されることになった。 |
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敷地は自治体や地主らが進んで提供し、建設工事は突貫工事で進められた。 |
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なお、各基地の名称は市史ではなく、「アジア歴史資料センター」で公開されている海軍の公式文書を採用した。 |
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(「郡山第○」ではなく「第○郡山」) |
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陸軍と海軍の基地がある郡山市は、昭和19年「軍都」に指定される。 |
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これによって陸海軍の各基地を結ぶ2つの軍用道路が新設され、既存道路の拡幅・阿武隈川への架橋など、インフラ整備が進んだ。 |
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安積橋・上亀田線 |
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現在の「うねめ通り」のことで、かつては「軍用道路」と呼ばれていた |
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金山橋・開成山線 |
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現在は国道49号になっている |
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「国土地理院」より引用・加工 |
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・昭和20年(1945) [2016.11追記] |
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「国会図書館デジタルライブラリー」に現役時代の航空写真があった。 |
三日月湖の北側に兵舎や格納庫、エプロンなどが見える。 |
広大な滑走路の周囲には「コ」の字型の掩体壕が多数見られ、 |
航空機も各所に駐機している。 |
もっとも、これらは擬装用の木製飛行機だった可能性もある。 |
磐城常葉駅前にあった大森工業所にて製作されていたとのこと。 |
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この偵察写真が撮影されて約2週間後の4月12日、郡山はB-29による大空襲に晒され、 |
駅東部の工業地帯が壊滅し、多数の市民が犠牲になった。 |
8月には米英空母の艦載機により基地が攻撃され、機能を失った。 |
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・昭和22年(1947) |
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大きな三日月湖の北側にあるのが第二航空隊の本部跡である。 |
すでに多くの建物が撤去されている。 |
基地の敷地は、南端は三日月湖南側の道路から、北端は県道65号小野郡山線に及ぶ、 |
広大なエリアであったという。(読者様から情報を頂きました) |
太い道路が堤防上に設置され、南の第一航空隊と連絡していたことが分る。 |
上端には第一、第二航空隊と、郡山市街地や第三航空隊を結ぶために架けられた、 |
金山橋が見える。 |
以前からあった木橋を、丈夫なものに架け替えたものと思われる。 |
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・昭和23年(1948) |
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白いモザイク模様のように見えるのはエプロンだろう。 |
その南側には格納庫が並んでいたはずだが、すでに更地となっている。 |
周囲には、他にも施設があったことが伺える痕跡が多数見える。 |
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爆撃の痕跡らしきクレーターが、数え切れないほどたくさん見える。 |
格納庫があっただけに、こちらへの攻撃は第一郡空よりも激しかったようだ。 |
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・昭和39年(1964) |
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戦後20年ほどが経過しして、飛行場跡地のほとんどが耕地に戻っている。 |
格納庫北端にあるのは郡山自動車学校で、現在も同じ場所で営業している。 |
右下の大工場は森永乳業・郡山工場である。 |
屈曲していた軍用道路(現・国道49号)も改良されて直線化された。 |
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うっすらと飛行場の痕跡が残っているが、余りにも薄いので下図に枠を示してみた。 |
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・昭和50年(1975) |
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宅地化が進み、痕跡はほとんど見られなくなった。 |
A地点にエプロンの、B地点には軍用道路の痕跡がわずかにあるようなので、 |
現地を訪れてみた。(後述) |
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・平成26年(2014) |
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飛行場跡は、ほぼ建物に覆いつくされた。 郡山中央工業団地である。 |
右下にあった森永乳業・郡山工場は平成23年(2011)9月に営業を停止し、 |
現在は施設も撤去されて広大な更地になっている。 |
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<A地点> |
現在も下行合に残る、エプロンの痕跡。 |
畑の一角が何も利用されず、三角形に残っている。 |
現地で見ると不自然なのこと、この上ない。 |
なぜこうなったのだろうか? 地権者は誰なのだろうか? |
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<B地点> |
どうしたわけか、軍用道路の線形がこの一軒の建物にだけ残っている。 |
以前は左側に軍用道路が通っていたと思われる。 |
旧道と新道に挟まれて、建物が三角形になってしまったのだろう。 |
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資料によると、大槻町は昭和25年(1950)に金屋飛行場にあった兵舎の払い下げを受け、 |
下町104番地に移設して大槻公民館として再利用した、とのこと。 |
その後、大槻公民館は他の場所に新設されたため、旧館は下町集会所になった、、、 |
と推測しているのだが、これが当該の旧兵舎なのかどうかは確定できてない。 |
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<余談> |
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日本陸軍・郡山射撃訓練場 (郡山市片平町) |
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私が小学生か中学生の頃のことだと思うが、同級生から「デケーサン」という不思議な響きの言葉を聞いた。 |
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地域の名前なのか、山の名前だか分らないが、「そこには古い射撃訓練場があり、地面を少し掘っただけで弾丸が出てくるぞ」、 |
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とのことだった。 それを聞いて私のテンションは一気に上がった。 |
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しかし、地元の子供たちにとっては普通のことで、みんな弾丸を持っており、それほど珍しい話ではないようだった。 |
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興奮した私は「タマを見せてくれ。 場所はどこ? 今も入れるの?」と聞いたのだが、急に歯切れが悪くなる。 |
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どうやら親か教師から行かないように注意されているのか、あるいは堂々と入ってはマズイ場所なのかも、との雰囲気が察せられた。 |
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なんとか大体の場所を聞き出したが、「タマはもう掘り尽くされて、もう見つからないと思う」との残念な情報も添えられていた。 |
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いま考えると、私を行かせないための方便だったのかも知れない。 |
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調べてみると、「デケーサン」というのは、出磬山(出珪山)という低山の名前であることが分った。 |
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地図にて場所を確認し、自転車に跨ってひとりで出掛けた。 射撃訓練場の跡地はすぐに見つかった。 |
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見た目は単なる広いススキ野原で、軍用地なのに立ち入りが規制されている様子もなく、"子供たちが遊ぶ空地"といった態であった。 |
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ただ、正面にある山の斜面の中腹に、横一直線に駐輪場のような屋根が掛かっている点が異彩を放っていた。 |
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標的を並べる施設があったのであろう。 やはりただの空地ではないな、と少し緊張した。 |
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細長いススキ野原を横切り、山の斜面を上ると、土がむき出しになった平場に達する。 例の"駐輪場"である。 |
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草むらになってないのは、常に誰かが出入りしては、そこら中をほじくり回してるかららしい。 そんな痕跡があちこちに見られた。 |
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「さて、どの辺りを掘ったらタマが出てくるのやら・・・」と戸惑いつつ、適当な場所を掘ってみたところ、あっさりタマが出てきた。 |
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小指の爪ほどの小銃弾だったが、私は大満足であった。 |
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さて、誰かに見つかって叱られるのも嫌だし、何しろ"射撃の的"があった場所に身を置くことに恐怖を感じていた。 |
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長居する場所ではないなと感じ、早々に帰宅したと記憶している。 |
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持ち帰ったタマは家族や友人に見せびらかすこともなく、"宝箱"に収納された。 |
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今でも自宅のどこかにあるはずである。 |
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しばらくしてその訓練場跡に、今度は"公式に"訪問する機会があった。 |
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通っていた中学校の屋外学習が、そこで行われたのだった。 |
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ひとクラスが5、6人の班に分かれ、リヤカーに食材や薪を積んで運び、現地にて豚汁だかカレーだかを作ったような記憶がある。 |
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そして、飲料水は、、、なんと、自衛隊の給水車(ジープがタンク車を牽引)が来ていたのであった。 |
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この学校行事は、場所も水も自衛隊が提供するという、全面協力のもとに行われていたのだ。 |
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今も行われているのだろうか。 |
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<追記> 2018.02 |
他のモノを探していたら、偶然見つかった。 |
何十年も前に射撃練習場跡で見つけた弾丸がこれだ。 |
今でも旋条痕が鮮明に残っている。 |
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射撃訓練場跡地には戦後、自衛隊の官舎が建てられ、高森宿舎となった。 |
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現在は鉄筋コンクリートの高層住宅になっているようだ。 |
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私が「ススキ野原」と称した北部については、未だに再利用が進んでないように見える。 |
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今も、「陸上自衛隊 高森訓練場」との標識が掲示されているとのこと。 |
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ところで、この出磬山(出珪山)という山は、安積開拓と大変深い関係のある場所でもあった。 |
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中條政恒が度々上っては山頂から原野を見渡し、開拓の構想を練った、とか、 |
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福島県令として赴任してきた安場保和とも一緒に上り、開拓計画の語らった、などと伝わっている。 |
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そのため、山頂には中條の偉業を顕彰する石碑が明治24年に建てられた。 |
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市ではこの記念すべきエリアを取得すべく、現在も国側と交渉を重ねているという。 |
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