福島県中通りの飛行場跡_1  2016.02                    [TOP]  [寄り道]  [飛行場リスト]


  海軍は福島県内に飛行場を建設するため、県内各地を調査して適地を探していたが、
  昭和17年(1942)2月に郡山市近辺に建設することが決定した。
  しかも一気に3箇所、大規模な航空隊基地が設置されることになった。
 
  徳定河原・日出山河原   第一郡山海軍航空隊
  金屋館ノ内・行合河原   第二郡山海軍航空隊
  大槻原   第三郡山海軍航空隊
  敷地は自治体や地主らが進んで提供し、建設工事は突貫工事で進められた。
  なお、各基地の名称は市史ではなく、「アジア歴史資料センター」で公開されている海軍の公式文書を採用した。
  (「郡山第○」ではなく「第○郡山」)
   
  陸軍と海軍の基地がある郡山市は、昭和19年「軍都」に指定される。
  これによって陸海軍の各基地を結ぶ2つの軍用道路が新設され、既存道路の拡幅・阿武隈川への架橋など、インフラ整備が進んだ。
 
  安積橋・上亀田線   現在の「うねめ通り」のことで、かつては「軍用道路」と呼ばれていた
  金山橋・開成山線   現在は国道49号になっている
  「国土地理院」より引用・加工

 
第一郡山海軍航空隊 (郡山市徳定)
  航空機の整備士を育成するため、田村郡守山町徳定に設置された。
  現在は、郡山市田村町徳定である。


・昭和22年(1947)
 
大きな三日月湖の南側に見える広大な敷地が第一航空隊の跡である。
私は幼少の頃より「飛行場があった」と聞かされていたが、
どうやら滑走路はなかったようだ。
整備士の育成が目的であるから、なくて当然と言える。
 
北側に設置された第二航空隊とは太い道路で結ばれていたことが分る。
阿武隈川捷水路工事によって完成したばかりの新堤防の上に設置された。


・昭和22年(1947)
 
この年、郡山市の誘致により日本大学工学部が東京・神田から移転してきた。
航空隊の兵舎を校舎として使い、昭和24年から授業が開始された。
この木造兵舎は10年ほど使用されたようだ。
 
中央やや右よりにある台形の森は、中世の城・金屋館跡とのこと。
高射砲でも設置されてたのか、中央部が更地になっている。
よく見ると、各所に爆撃の痕跡らしきクレーターがある。


・昭和50年(1975)
 
戦後30年が経過して兵舎だった木造校舎はなくなり、
鉄筋校舎の建設やグラウンドの整備が進んだ。
付属高校も隣接して建設され、さらに規模が大きくなっている。
基地跡の雰囲気は薄れ、館跡も完全に消失した。


・平成26年(2014)
 
学校敷地は南側の水田にまで拡大。
耕地の宅地化も進んでいる。
基地の痕跡は、敷地形状だけになってしまった。
 
校内の資料館には、航空隊に関する展示物があるとのこと。


   

 
第二郡山海軍航空隊・金屋飛行場 (郡山市金屋)
  航空機のパイロットを育成するため、田村郡高瀬村金屋に設置された。
  現在は、郡山市田村町金屋である。


・昭和20年(1945)  [2016.11追記]
 
「国会図書館デジタルライブラリー」に現役時代の航空写真があった。
三日月湖の北側に兵舎や格納庫、エプロンなどが見える。
広大な滑走路の周囲には「コ」の字型の掩体壕が多数見られ、
航空機も各所に駐機している。
もっとも、これらは擬装用の木製飛行機だった可能性もある。
磐城常葉駅前にあった大森工業所にて製作されていたとのこと。
 
この偵察写真が撮影されて約2週間後の4月12日、郡山はB-29による大空襲に晒され、
駅東部の工業地帯が壊滅し、多数の市民が犠牲になった。
8月には米英空母の艦載機により基地が攻撃され、機能を失った。 


・昭和22年(1947)
 
大きな三日月湖の北側にあるのが第二航空隊の本部跡である。
すでに多くの建物が撤去されている。
基地の敷地は、南端は三日月湖南側の道路から、北端は県道65号小野郡山線に及ぶ、
広大なエリアであったという。(読者様から情報を頂きました)
太い道路が堤防上に設置され、南の第一航空隊と連絡していたことが分る。
上端には第一、第二航空隊と、郡山市街地や第三航空隊を結ぶために架けられた、
金山橋が見える。
以前からあった木橋を、丈夫なものに架け替えたものと思われる。


・昭和23年(1948)
 
白いモザイク模様のように見えるのはエプロンだろう。
その南側には格納庫が並んでいたはずだが、すでに更地となっている。
周囲には、他にも施設があったことが伺える痕跡が多数見える。
 
爆撃の痕跡らしきクレーターが、数え切れないほどたくさん見える。
格納庫があっただけに、こちらへの攻撃は第一郡空よりも激しかったようだ。


・昭和39年(1964)
 
戦後20年ほどが経過しして、飛行場跡地のほとんどが耕地に戻っている。
格納庫北端にあるのは郡山自動車学校で、現在も同じ場所で営業している。
右下の大工場は森永乳業・郡山工場である。
屈曲していた軍用道路(現・国道49号)も改良されて直線化された。
 
うっすらと飛行場の痕跡が残っているが、余りにも薄いので下図に枠を示してみた。


 
 
 
 


・昭和50年(1975)
 
宅地化が進み、痕跡はほとんど見られなくなった。
A地点にエプロンの、B地点には軍用道路の痕跡がわずかにあるようなので、
現地を訪れてみた。(後述)


・平成26年(2014)
 
飛行場跡は、ほぼ建物に覆いつくされた。 郡山中央工業団地である。
右下にあった森永乳業・郡山工場は平成23年(2011)9月に営業を停止し、
現在は施設も撤去されて広大な更地になっている。


<A地点>
現在も下行合に残る、エプロンの痕跡。
畑の一角が何も利用されず、三角形に残っている。
現地で見ると不自然なのこと、この上ない。
なぜこうなったのだろうか? 地権者は誰なのだろうか?


<B地点> 
どうしたわけか、軍用道路の線形がこの一軒の建物にだけ残っている。
以前は左側に軍用道路が通っていたと思われる。
旧道と新道に挟まれて、建物が三角形になってしまったのだろう。


資料によると、大槻町は昭和25年(1950)に金屋飛行場にあった兵舎の払い下げを受け、
下町104番地に移設して大槻公民館として再利用した、とのこと。
その後、大槻公民館は他の場所に新設されたため、旧館は下町集会所になった、、、
と推測しているのだが、これが当該の旧兵舎なのかどうかは確定できてない。


   

 
第三郡山海軍航空隊・大槻飛行場 (郡山市大槻町)
  資料によると、大型爆撃機の基地として安積郡大槻村北部の北ノ山地区に設置された。
  現在は、郡山市大槻町である。


・昭和22年(1947)
 
街の北側エリアは"北ノ山"と呼ばれており、
松しか育たないような痩せた荒地であったが、
戦時中の食料増産計画により、昭和16年(1941)から開拓が始まり、 
翌年には希望者の入植が始まった。 通称・北ノ山開墾と言う。 
 
しかし、この入植地に飛行場が設置されることが突然決まり、
入植して間もない住人たちを強制移住させた上で、
昭和19年11月に起工式が執り行われた。
地元住民や学生を動員して工事が進められたが、
90%ほどが完成したところで敗戦となった。
基地として運用されることはなかったが、練習機程度の小型機は来ていたようだ。
そのためか、米軍機による爆撃にも晒された。
 
基地の範囲を特定したかったのだが、いくら資料を当たっても分らず。
街の北側に広がる楕円形のエリアが基地跡ではないかと推定した。
 


・現在 
 
戦後には再び耕地化が進められたのだが、
更地となった飛行場跡地から舞い上がる砂塵が酷く、対策として松が植林された。
その松林の一部が、今でも大槻中学校の敷地内に残っている。
 
その後、基地跡には陸上自衛隊が誘致され、郡山駐屯地となって現在に至る。 
学校なども設置されたが大部分は住宅地になり、 
現在、跡地は民家で埋め尽くされている。


<★地点>
大槻中学校敷地南端の交差点に、大きな石碑が2基設置してある。 
共に、昭和43年(1968)に設置された新しいもので、 
そのうち右にある「開拓之碑」の裏面には、 
"旧郡山第三海軍航空隊跡"の文字が見られる。
 
石碑の背後に見える松林が、前述した防風林の名残りである。
   

  2016.10追記 
  読者の方より大槻飛行場について詳細な資料や情報を頂いたので、現在の地図に反映させてみた。
  驚くべきは、未完成だったとは言え、その長大な大型機用滑走路の存在である。
  「マジか!?」と驚いてしまうが、それを証明する図面が存在する。
  しかし、残念ながら非公開資料なので、自作したわけである。
  詳細とは言えないざっくりした図面からの書き起こしゆえ、概略図程度に考えて頂ければ幸い。


青で囲んだエリアは現在の陸上自衛隊の範囲。緑が第三航空隊のエリアである。 
これだけでも広大なのだが、滑走路は基地を突き抜け、更に南東方向へ伸びていた。 
計画では全長は2500m、全幅200m(ピンク)で、
そのうち中央の幅70mが舗装され、滑走路になる予定だった。
昭和20年5月末の段階では、そのうち1500mが完成していた(赤)とのことで、 
既に仮運用が始まっていたと思われる。
8月の敗戦時には、更に建設が進捗していたはずだが、それを示す資料はない。
 
2500mの滑走路というと、現在の福島空港と同じである。
大成小学校の南を通り、国道4号を越えて台新2丁目まで伸びる予定だったのだ。
「連山」など、大型の4発爆撃機の離着陸も十分可能な規模だったことになる。
   
  また、上図のように滑走路が県道を塞いでしまうため、南側へ迂回する付け替えも同時進行で計画されていた。
   
  <参照>
  「大槻飛行場工事用軌道」
  「大槻飛行場専用鉄道」

  2016.11追記 
  テキサス大学のサイトにて、戦後に米軍が作成したと思われる地図が公開されていた。
  ここの「Koriyama」に、第一、第二、第三航空基地が全て、しかも詳細に描かれていて超ビックリ!
  兵舎や格納庫などの建物群や、掩体壕まで詳細に記載されているのだ。
  おそらく、基地が描かれた唯一の地図なのではなかろうか?
   
第一航空隊の建物群と、第二航空隊の広大な滑走路が描かれている。 
「Koriyama Airfield」とあるから、米軍では「郡山飛行場」と命名していたらしい。 
滑走路の周囲には、「コ」の字型の掩体壕や誘導路が描かれている。 
5万図の割りにはかなり詳細と言える。
 
現在では国道49号となった軍用道路には、「UNDER CONSTR」とあり、
この時点ではまだ工事中で未完成であったことが分かる。
しかも、ルートは堤防上を通り、第一と第二の境界を抜けており、現在とは全く異なっている。
これはこれで大変興味深い。
   
こちらは未完に終わった第三郡山海軍航空隊・大槻飛行場の全景。
「Koriyama West Airfield」とあるから、米軍では「郡山西飛行場」と命名していたようだ。
やはり「Under Construction(工事中)とあるが、
完成済みの建物が10棟ほど描かれている。
しかし、前述した巨大な滑走路は見当たらない。
   



   
  <余談>
日本陸軍・郡山射撃訓練場 (郡山市片平町)
  私が小学生か中学生の頃のことだと思うが、同級生から「デケーサン」という不思議な響きの言葉を聞いた。
  地域の名前なのか、山の名前だか分らないが、「そこには古い射撃訓練場があり、地面を少し掘っただけで弾丸が出てくるぞ」、
  とのことだった。 それを聞いて私のテンションは一気に上がった。
  しかし、地元の子供たちにとっては普通のことで、みんな弾丸を持っており、それほど珍しい話ではないようだった。
  興奮した私は「タマを見せてくれ。 場所はどこ? 今も入れるの?」と聞いたのだが、急に歯切れが悪くなる。
  どうやら親か教師から行かないように注意されているのか、あるいは堂々と入ってはマズイ場所なのかも、との雰囲気が察せられた。
  なんとか大体の場所を聞き出したが、「タマはもう掘り尽くされて、もう見つからないと思う」との残念な情報も添えられていた。
  いま考えると、私を行かせないための方便だったのかも知れない。
   
  調べてみると、「デケーサン」というのは、出磬山(出珪山)という低山の名前であることが分った。
  地図にて場所を確認し、自転車に跨ってひとりで出掛けた。 射撃訓練場の跡地はすぐに見つかった。
  見た目は単なる広いススキ野原で、軍用地なのに立ち入りが規制されている様子もなく、"子供たちが遊ぶ空地"といった態であった。
  ただ、正面にある山の斜面の中腹に、横一直線に駐輪場のような屋根が掛かっている点が異彩を放っていた。
  標的を並べる施設があったのであろう。 やはりただの空地ではないな、と少し緊張した。
  細長いススキ野原を横切り、山の斜面を上ると、土がむき出しになった平場に達する。 例の"駐輪場"である。
  草むらになってないのは、常に誰かが出入りしては、そこら中をほじくり回してるかららしい。 そんな痕跡があちこちに見られた。
  「さて、どの辺りを掘ったらタマが出てくるのやら・・・」と戸惑いつつ、適当な場所を掘ってみたところ、あっさりタマが出てきた。
  小指の爪ほどの小銃弾だったが、私は大満足であった。
  さて、誰かに見つかって叱られるのも嫌だし、何しろ"射撃の的"があった場所に身を置くことに恐怖を感じていた。
  長居する場所ではないなと感じ、早々に帰宅したと記憶している。
  持ち帰ったタマは家族や友人に見せびらかすこともなく、"宝箱"に収納された。
  今でも自宅のどこかにあるはずである。
   
  しばらくしてその訓練場跡に、今度は"公式に"訪問する機会があった。
  通っていた中学校の屋外学習が、そこで行われたのだった。
  ひとクラスが5、6人の班に分かれ、リヤカーに食材や薪を積んで運び、現地にて豚汁だかカレーだかを作ったような記憶がある。
  そして、飲料水は、、、なんと、自衛隊の給水車(ジープがタンク車を牽引)が来ていたのであった。
  この学校行事は、場所も水も自衛隊が提供するという、全面協力のもとに行われていたのだ。
  今も行われているのだろうか。
 
 
  昭和23年(1948) 昭和50年(1975) 平成26年(2014)
 
  射撃訓練場跡地には戦後、自衛隊の官舎が建てられ、高森宿舎となった。
  現在は鉄筋コンクリートの高層住宅になっているようだ。
  私が「ススキ野原」と称した北部については、未だに再利用が進んでないように見える。
  今も、「陸上自衛隊 高森訓練場」との標識が掲示されているとのこと。
   
  ところで、この出磬山(出珪山)という山は、安積開拓と大変深い関係のある場所でもあった。
  中條政恒が度々上っては山頂から原野を見渡し、開拓の構想を練った、とか、
  福島県令として赴任してきた安場保和とも一緒に上り、開拓計画の語らった、などと伝わっている。
  そのため、山頂には中條の偉業を顕彰する石碑が明治24年に建てられた。
   
  市ではこの記念すべきエリアを取得すべく、現在も国側と交渉を重ねているという。
   

2016.10追記  
数十年ぶりに高森訓練場に行ってみた。
当時は丸太の杭に針金を張っただけだったので、あちこち隙だらけで自由に入れたが、
現在は高いフェンスで厳重に囲われていた。
敷地は汚染土の仮置き場になっているようだ。
 
奥に見えるのが出珪山である。
   
退色が進行し、しかもサビサビである 最近設置されたと思われる、ドローン禁止の看板 これも退色して色が抜けている
     
「防衛庁」の境界標がある、とのことなので探したのだが全く見つからず。 
しかし、営林署と同じ仕様の境界見出標の存在に気付いて以降は、いくらでも見つかるようになり、 
途中から見つけても撮影しなくなってしまった。 
 
見出標には「防衛省」のシールが貼ってあった。(2007年に庁から省に昇格) 
この境界標には側面に「6」のプレートが貼ってあるが、何を意味するのかは不明。 
プレート付きの境界標はこれ1本だけだったと思う。
 
写真を見ても分るように、標柱は宿舎敷地ではなく、その外周道路のさらに外側にある。 
道路も防衛省敷地だったのだ。 うっかり入れませんな・・・。 
   
標柱には何種類かあって、フォントの形や大きさに違いが見られた。 
さらに、これは文字面が凹んでるが、上記のはフラットである。 
設置時期によって差があるのだろうか。 
「衛」の略字に萌える。
   
帰り際に、もうひとつ別な種類の境界標を偶然見つけた。 
宿舎からやや離れた、しかも路上に打ってある金属製の標識。 
こんな手前から既に防衛省の敷地だったのね・・・。 
   
これも、意識して探せばいくつも見つかるのかも知れない。
金属フェチとしては、これはこれで萌える。
   

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