大槻飛行場専用鉄道  (郡山市)  2016.11        [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]


  「大槻飛行場工事用軌道」から続く
   
  郡山第三海軍航空隊・大槻飛行場の建設に伴って敷設された鉄道が、さらにもう一本存在した。
  こちらは工事用のトロッコではなく、実際に運用が始まった基地内で使用される物資や燃料、
  時には人員も含めて、安積永盛駅から輸送するために敷設された、と想像したので、勝手ながら"専用鉄道"に分類した。
  結局は完成することなく建設途中で敗戦を迎えたので、この軍用鉄道は未成線ということになる。
   
  さて、実は読者の方から頂いた地図の中に、この鉄道に関する記述やルートを発見したわけだが、
  非公開資料のためUPできないので、古い航空写真に反映させてみた。
  なお、ご提供頂いた地図には北側の一部しか載ってないため、残りの部分は写真から推測したラインである。
   
 
  永盛大槻間軌道工事    
 
  延長:6000m  有効幅員:4m (複線)
 
  切土量  

10500m3

  盛土量  

9500m3

  橋梁    4ヶ所
     
複線というのは驚き。かなり本格的だ。しかし、軌間と動力は不明。
 
 
笹原川南川の他、2箇所に計画されていた。木橋だろうか?
  通産出来高 (昭和20年5月現在) 32%       道床はほぼ完成し、残るは架橋やレールの敷設だけだった模様。
   

 

昭和22年(1947)撮影の航空写真。

道床跡がまだ鮮明に残っているが、

現在では宅地化が進み、ほぼ消失している。

 

 

「国土地理院」より引用・加工

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


   
昭和23年(1948) 平成26年(2014)
   
  新旧の航空写真を比較してみたところ、なんと、針生地区には現在でも軌道跡が車道として残っているようなので、
  ここを北から南に向かって探索してみた。
  黄色が残存区間、オレンジは消失区間である。 ただし、E-F間は当初から車道との併用軌道する計画だった。
   

   
<A地点>
軌道はコンビニの駐車場を斜めに横切っていた。 
当初は、店舗前にある赤いアスファルト&ゼブラゾーンとなった細長い区間を発見して、
「これが軌道跡に違いない! おそらく今でも国有地のため、手が出せないのだ!」 
と興奮したが、よく観察すると実はこれ、暗渠化した水路であった・・・。
どうやら大きな構造物を建築できず、駐車場にすらできないことになってるらしい。
   
A地点から安積永盛駅方面を望む。 
ここから車道となった軌道跡が現れる。 
軍用鉄道の痕跡である。 
 
この奥で小川を渡るが既に暗渠化しており、橋梁の痕跡などはない。 
軍の境界標のような標識類も見つからなかった。
   
<B地点>
さらに進むと、正面に崖が見えてくる。 
軌道は崖に沿って、その裾を通っていた・・・と考えていたが、 
古写真をよく見ると、ここを直進していたように見えるし、 
さらに、切り通しか切り取り工事が成されたようにも見える。 
この10mほどの段差を越えるため、緩やかなスロープを設置したのかも知れない。
とすると、ここは戦後に埋め戻されて宅地になったことになる。
   
<平成23年(2011)4月撮影>
軍による軌道開削工事と関係あるのかどうかは不明だが、 
ここは東日本大震災の際に大きな被害を受けている。 
無理な開削工事や、杜撰な現状回復工事が遠因となって、、、 
なんてことでなければ良いが・・・。 
   
手前は震災後に修復された法面。奥は被災を免れた石垣である。 
石垣の古さから推測すると、鉄道開削時期と一致するように見えるが、 
どうやら、戦後の埋め戻し工事の際に築かれたもののようだ。 
   
<C地点>
軌道跡のスロープは、崖の上下を行き来する住民には便利だったようで、 
埋め戻し工事後も通行できるよう、上下を連絡する通路が新設された。 
・・・と、この急坂は、そんな背景から設置されたのではないか、と推測した。 
   
現在の急坂道がそのまま軌道跡だったとは断言できないが、 
古写真を見ると、当時はこんな状態だったように見える。 
   
 
 
 
 
   
狭い急坂を登ると、崖上にある平坦な車道に出る。 
 
狭いし、急勾配だし、クランクだし、側溝にフタがないし、、、で相当慎重に運転した。
   
当時は耕地だったようだが、現在は住宅密集地となっている。 
軌道跡の車道は、その中を真っ直ぐに貫いている。 
当時はなかったはずだが、現在は少なからずアップダウンがあるようだ。
また、古写真では浅い切り通しだったように見えるが、現在そのような遺構はない。 
埋め戻したのだろうか?
資料にある「切土量 10500m3とは、ほとんどがこの区間で生じたものと思われる。
   
<D地点>
「有効幅員 4m」のまま、車道化されたのかな? 
これで複線と言うことは、軌間は762mmの狭軌だったのかな? 
などと考えていたら、ここで急に狭くなった。 
さらに直進していたはずだが、矢印の先で軌道跡も消えてしまう。 
   
<E地点>
久留米街道まで迂回してきた。 
明治初期に移住してきた旧久留米藩士が、自力で開削した開拓道路である。
軌道は久留米変電所前辺りで合流し、ここからは併用軌道になる計画だったが、
それらしき痕跡は何も無い。 
道路の左右どちら側にレールを敷く計画だったのかも不明。 
複線だと、ほぼ全幅が軌道敷きになってしまいそうだ。
   
真っ直ぐ南下すると、やがて南川を越える。 
列車を通すには橋の補強か、あるいは架け替えが必須だったはずだが、 
おそらく工事は行われることなく、敗戦を迎えたと思われる。 
   
<F地点>
水天宮池脇の交差点の手前で、軌道は車道から離れ、再び専用軌道になる。 
ここから安積永盛駅までまだまだ長いが、軌道の痕跡は皆無のようである。
   

 
   
  何も痕跡はないのだが、最後に安積永盛駅付近について触れておく。 
  耕地を潰して作られた築堤を南下した軌道は、笹原川を越える。
  昭和23年(1948)撮影のこの写真に橋梁は写ってないが、おそらくは架橋されることなく、敗戦を迎えたと思われる。
  橋台くらいは完成していた可能性があるが、笹原川は流路が変わるほど大規模な改修工事が施工されているので、遺構の残存は望めない。
  笹原川を渡り、南インター通りと交差して更に南下すると、国道4号から分岐して北西に伸びる道に合流する。
  この道の正体がよく分からない・・・。
  国道〜駅間は現在でも残っているのだが、駅の西側は全く残ってないのだ。
  線路に切断されていることから、おそらく東北本線が開通するより前に開削された明治新道だと思われるが、これもまた推測でしかない。
  軌道はこの新道と併用軌道になり、安積永盛駅に達していた。
   

   
[追記]
テキサス大学のサイトにて、戦後に米軍が作成したと思われる地図が公開されていた。
ここの「Koriyama」に、当該鉄道が「UNDER CONSTR(工事中)として掲載されていて超ビックリ!
ただし、車道なのか軌道なのかの区別はされてないのが残念。
 
ちなみに、右上を横切る国道49号にも「工事中」と記載されている。
   

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