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「大槻飛行場工事用軌道」から続く |
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郡山第三海軍航空隊・大槻飛行場の建設に伴って敷設された鉄道が、さらにもう一本存在した。 |
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こちらは工事用のトロッコではなく、実際に運用が始まった基地内で使用される物資や燃料、 |
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時には人員も含めて、安積永盛駅から輸送するために敷設された、と想像したので、勝手ながら"専用鉄道"に分類した。 |
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結局は完成することなく建設途中で敗戦を迎えたので、この軍用鉄道は未成線ということになる。 |
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さて、実は読者の方から頂いた地図の中に、この鉄道に関する記述やルートを発見したわけだが、 |
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非公開資料のためUPできないので、古い航空写真に反映させてみた。 |
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なお、ご提供頂いた地図には北側の一部しか載ってないため、残りの部分は写真から推測したラインである。 |
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永盛大槻間軌道工事 |
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延長:6000m 有効幅員:4m
(複線) |
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切土量 |
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10500m3
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盛土量 |
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9500m3
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橋梁 |
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4ヶ所 |
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| → 複線というのは驚き。かなり本格的だ。しかし、軌間と動力は不明。 |
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| → 笹原川や南川の他、2箇所に計画されていた。木橋だろうか? |
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通産出来高
(昭和20年5月現在) 32% |
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→ 道床はほぼ完成し、残るは架橋やレールの敷設だけだった模様。 |
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| <A地点> |
| 軌道はコンビニの駐車場を斜めに横切っていた。 |
| 当初は、店舗前にある赤いアスファルト&ゼブラゾーンとなった細長い区間を発見して、 |
| 「これが軌道跡に違いない! おそらく今でも国有地のため、手が出せないのだ!」 |
| と興奮したが、よく観察すると実はこれ、暗渠化した水路であった・・・。 |
| どうやら大きな構造物を建築できず、駐車場にすらできないことになってるらしい。 |
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| A地点から安積永盛駅方面を望む。 |
| ここから車道となった軌道跡が現れる。 |
| 軍用鉄道の痕跡である。 |
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| この奥で小川を渡るが既に暗渠化しており、橋梁の痕跡などはない。 |
| 軍の境界標のような標識類も見つからなかった。 |
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| <B地点> |
| さらに進むと、正面に崖が見えてくる。 |
| 軌道は崖に沿って、その裾を通っていた・・・と考えていたが、 |
| 古写真をよく見ると、ここを直進していたように見えるし、 |
| さらに、切り通しか切り取り工事が成されたようにも見える。 |
| この10mほどの段差を越えるため、緩やかなスロープを設置したのかも知れない。 |
| とすると、ここは戦後に埋め戻されて宅地になったことになる。 |
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| <平成23年(2011)4月撮影> |
| 軍による軌道開削工事と関係あるのかどうかは不明だが、 |
| ここは東日本大震災の際に大きな被害を受けている。 |
| 無理な開削工事や、杜撰な現状回復工事が遠因となって、、、 |
| なんてことでなければ良いが・・・。 |
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| 手前は震災後に修復された法面。奥は被災を免れた石垣である。 |
| 石垣の古さから推測すると、鉄道開削時期と一致するように見えるが、 |
| どうやら、戦後の埋め戻し工事の際に築かれたもののようだ。 |
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| <C地点> |
| 軌道跡のスロープは、崖の上下を行き来する住民には便利だったようで、 |
| 埋め戻し工事後も通行できるよう、上下を連絡する通路が新設された。 |
| ・・・と、この急坂は、そんな背景から設置されたのではないか、と推測した。 |
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| 現在の急坂道がそのまま軌道跡だったとは断言できないが、 |
| 古写真を見ると、当時はこんな状態だったように見える。 |
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| 狭い急坂を登ると、崖上にある平坦な車道に出る。 |
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| 狭いし、急勾配だし、クランクだし、側溝にフタがないし、、、で相当慎重に運転した。 |
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| 当時は耕地だったようだが、現在は住宅密集地となっている。 |
| 軌道跡の車道は、その中を真っ直ぐに貫いている。 |
| 当時はなかったはずだが、現在は少なからずアップダウンがあるようだ。 |
| また、古写真では浅い切り通しだったように見えるが、現在そのような遺構はない。 |
| 埋め戻したのだろうか? |
| 資料にある「切土量
10500m3」とは、ほとんどがこの区間で生じたものと思われる。 |
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| <D地点> |
| 「有効幅員 4m」のまま、車道化されたのかな? |
| これで複線と言うことは、軌間は762mmの狭軌だったのかな? |
| などと考えていたら、ここで急に狭くなった。 |
| さらに直進していたはずだが、矢印の先で軌道跡も消えてしまう。 |
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| <E地点> |
| 久留米街道まで迂回してきた。 |
| 明治初期に移住してきた旧久留米藩士が、自力で開削した開拓道路である。 |
| 軌道は久留米変電所前辺りで合流し、ここからは併用軌道になる計画だったが、 |
| それらしき痕跡は何も無い。 |
| 道路の左右どちら側にレールを敷く計画だったのかも不明。 |
| 複線だと、ほぼ全幅が軌道敷きになってしまいそうだ。 |
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| 真っ直ぐ南下すると、やがて南川を越える。 |
| 列車を通すには橋の補強か、あるいは架け替えが必須だったはずだが、 |
| おそらく工事は行われることなく、敗戦を迎えたと思われる。 |
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| <F地点> |
| 水天宮池脇の交差点の手前で、軌道は車道から離れ、再び専用軌道になる。 |
| ここから安積永盛駅までまだまだ長いが、軌道の痕跡は皆無のようである。 |
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