旧伊達橋 (伊達市)     2005.06        [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]  [橋梁Web]

「日本の廃道」第47号に投稿した記事に加筆・修正を加えたものです。


  長岡跨道橋から続く

 

 

 

 

 

 


伊達橋である。

架けられてから90年が経過しようとしてる。

すぐ脇に代替橋が架けられたにも関わらず、

撤去されることなく、今でも歩道橋として現役である。

そこには「後世に残したい」という地元の強い意思があるように思う。

 

まずは架橋までの苦難の歴史について語らねばならない。

 


<地域の歴史>

江戸時代の伊達地方。

領主は時期によりコロコロ変わったが、陣屋は最大の都市である保原にあり続けた。

一方、奥州街道が通る桑折は背後に半田銀山を抱えており、幕領だった。

銀山景気により、一時は城下町である福島を上回るほどの賑わいだったという。

そんな訳で、桑折にも陣屋(代官所)が置かれていた。

銀山は幕末に閉鎖されたが、この状態は明治になるまで続いた。

江戸時代

 
   
維新後の明治11年(1878)、各郡に郡役所を置くことが決まり、

伊達郡では地理的な中央でもある保原陣屋の建物を役所として再利用することになった。

しかしやがて手狭になり、老朽化も進んでいたため建て直すことになった、、、とされるが、

実はこの時期に福島県令をしていたのは"あの"三島通庸であり、

伊達郡長は三島の義弟が務めていたのだった。

彼らは洋風の官舎を建てたがっていた、という背景があった。

明治時代・初期

 
   
その頃、閉山していた半田銀山は近代技術の導入により再び隆盛期を向かえていた。

経営者は、三島と同じ旧薩摩藩士だった五代友厚である。

勢いに乗った桑折の人々は、役所建設資金の提供を条件に郡役所の移転を申し出た。

同じく西岸にある長岡の人々もこの誘致運動に協力している。

当初は移転を許可しなかった政府も三島県令の要請により一転し、

伊達郡の"首都"は桑折に取って代わることになった。

国重文・旧伊達郡役所

 
 
阿武隈川西岸地域の人々は当初から保原への郡役所設置に反対で、伊達郡を阿武隈川を境として東西に分割する願書を何度も提出していた。
加えて桑折には陸羽街道が通り、また代官所があった要地であるとしてこの地への移転を政府に要請したが、
「郡役所の設置場所は、主要道路や元代官所所在地であるとかは関係ない」として却下されていた。
しかし明治16年(1883)3月、三島県令から「伊達郡役所移転の伺書」が提出されると、
なぜか政府は、「桑折は江戸時代に代官所が置かれていた土地であり、また主要路線上にあって県庁との連絡にも便利である」との理由で桑折への移転を認めたのである。
薩長藩閥政治とはこういうものであった。
   
ご存知の通り、三島は「土木県令」である。

彼の施政によって道路整備が進むと、人や物資の往来が盛んになった。

しかし、相変わらず阿武隈川は小舟で渡るしかなく、

ひとたび増水すれば交通が断絶し、東岸地域では物価が上昇した。

保原地区の不便さは江戸時代と変わりはなかったのだ。

明治時代・中期

 
   
この問題を解決すべく、阿武隈川東岸・箱崎の有力者であった小野経一が中心となって

「伊達中央橋組合」が設立される。

出資者を募って明治37年(1904)、箱崎舟場に木橋を架け、伊達中央橋と名付けた。

これは利用者から料金を取る賃橋で、その収益を修理費や配当に充てていた。

国や県の費用で架橋されることは稀な時代の話である。

小野氏が落成式のために用意した式辞案によると、「延長百三十六間」、約247.2mとある。

「伊達郡今昔写真帖」より転載 提灯を並べて完成を喜ぶ人々

 
   
明治41年(1908)には信達軌道の長岡〜保原間が開通し、

伊達中央橋を機関車が走るようになった。

東岸地区は県庁のある福島と軌道で繋がるようになり、飛躍的に便利になった。

その結果、伊達郡内の物資の集散は東北本線と信達軌道が交差する伊達駅に集中し、

それに反比例するように桑折の重要度は低下していった。

明治時代・後期

 
   
 

「福島交通七十年の歩み」より転載

長岡から保原に向かって伊達中央橋を渡る蒸気機関車
   
   
ご他聞に漏れず、この木橋は増水の度によく壊れ、その都度修繕が繰り返された。

しかし、大正2年(1913)に発生した大洪水の際、ついに跡形もなく流されてしまう。

組合は橋の再建を諦めざるを得なくなり、小野経一は県からの補助を得て、

岐阜の岡田只治が開発した「岡田式自動渡船」を購入してここに設置した。

これは従来の渡し舟とは違い、船頭が不用な渡船システムであった。

渡船料を見ると「自動車一台 金二十銭」とあるから、かなり大きな船だったようだ。

自動渡船の仕組み (nagajis画伯謹製)

 

「岐阜県図書館」

 
   
   
[追記]

伊達地区ではないが、自動渡船の写真を見つけたので参考写真として掲載する。

想像した通り、渡し舟としては大型であったことがわかる。

説明には「馬車を4台くらい乗せることができた」とあるが、納得である。

「ふくしま100年」より転載  (大沼郡金山町水沼)

 
   

   
  しかし、橋が架かり、機関車まで走ったルートの一部が江戸時代同様渡し舟のままでは、不便さが今まで以上に際立って当然である。
  橋が流出した年内には伊達郡議会から県知事に「鉄橋架設意見書」が提出され、
  県議会も伊達郡の東西を結ぶ永久橋の必要を認め、補助金を出す議決をした。
   
  -------- 議決はしたのだが、
  この時、架設場所を特定しなかったことが、後の大混乱の原因になった。
  それもそのはず。
  県議会は流出した伊達中央橋の地点に鉄橋を架け直すつもりで可決したし、地元もそれが当然として場所など気にもしてなかったのだ。
   

鉄橋建設費用の分担を巡って揉めている間、密かに動いていたのが桑折の人々であった。

郡会議長・議員に対し、多額の費用分担と引き換えに、架設地点を箱崎舟場ではなく、

より桑折に近い伏黒舟場にしてもらおうと多数派工作を進めていたのだった。

彼ら"桑折派"は郡内での地位回復を目指して必死であった。

一方、伊達駅のお蔭で潤っていた"長岡派"は完全に油断しており、

対策が後手に回ったまま郡議会の開催日を迎えてしまう。

長岡派の"逆転負け"が明確になったのは議会開催日の前日だった。

保原の人々は郡役所移転に続いて「またか」という憤りを感じただろうし、

役所の移転に協力した長岡の人々も、今度は桑折と対立することになったのだった。

   
   
そして議会当日、長岡派は徒党を組んで郡議会が行われる桑折に集結し、

議員の宿泊先や郡役所を取り囲んだ。

その数、15000人とも言われる。

しかし、警察が出動して群集を排除し、郡議会は1日遅れで開催され、

桑折派の作戦通り架橋地点は伏黒舟場に可決されてしまった。

怒りの収まらない長岡派は、桑折派の工作によって寝返った議員の自宅に押しかけ、

投石、さらには放火の暴挙に出た。

後に30余名が検挙、うち18名が起訴され、16名が有罪になる結果となった。

以上が「伊達橋騒擾事件」として、県内はもちろん、

全国にも報道された騒動のあらましである。

「伊達町史」より転載

 
   

<コラム>

伊達中央橋や自動渡船を設置し、伊達橋騒擾の収束にも尽力した小野経一の顕彰碑が、

生まれ故郷である伊達市箱崎に建てられている。

 

 

 

この道を奥に進むと電車路線があり、そこに箱崎停車場があった。

現在も福島交通の箱崎バス停がある。

 

  小野経一翁、幼名直次郎、小野家十五代の主たり。文久元年12月4日、我が伏黒村箱崎字大舘に生る。
  長じて杉田周諭先生の門に学び、明治9年地租改正に当り、少にして野取測量委員に。
  同14年3月箱崎村用係に選ばれ、鋭意村治に参し、組合会議員、村会議員、村長、郡会議員、
  県会議員、名誉職常置委員、県参事会員等に歴任して地方自治に貢献すること40余年。
  其間伊達町の前身長岡村、保原町間、所謂郡道中村線、後日の県道開通に努力し、
  同30年区有財産として国有林大平山、聖天森等の山林、計14町7畝25歩の払下に関し、
  三代金子與左衛門と共に奔労し、且該土地の一部売却により払下の資金を支弁し、区民より一金をも徴せず。
  同41年福島電気鉄道株式会社、即ち当時の大日本軌道株式会社の設立に関し、地方有志と共に奔走し、
  各線に対する軽便鉄道の布設に盡力。
  大正3年2月伊達鉄橋架設地点争奪の紛議より第二の伊達騒動勃発するや、決然起ちて東奔西走、七星霜の久しきに及び、
  8年12月円満解決し、伊達並に大正両鉄橋の架設を見るに至れり。
  (以下略)
  昭和17年10月建設   福島県伊達郡伏黒村大字箱崎
  (碑文は旧字、カタカナ、漢数字。句読点なし)
   

「小野経一翁頌徳記念碑」

 

 

 

 

 

 

 

裏面の筆頭に「撰文 県会議員 金子與左」とある。

この金子氏は碑文にも登場する金子與左衛門の御子息で、

伊達橋騒擾の時は31、2才の青年だった。

氏の著作である「伊達鉄橋騒擾史」は各市町村史に必ず引用される貴重な記録である。

 

 

 

 

「福島電気鉄道」

鉄道の敷設にも尽力しているところを見ると、

伊達中央橋は、当初から鉄道橋としても耐えられるように設計されていたのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

伊達鉄橋架設地点争奪の紛議」

「争奪」や「紛議」などの文字から、当時の騒然とした雰囲気を感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

第二の伊達騒動勃発」

「第一」は何だろうか?

慶応2年(1866)にこの地方で起きた大規模な世直し一揆、「信達騒動」のことだろうか。

約7万人が6日間に渡って村役人宅や桑折代官所を襲い、

さらには福島城下にまで突入した一大事件のことを指しているのかも知れない。

 

ちなみに、信達騒動も伊達橋騒擾も、寅年に発生している。

 

 

 

  こうして架橋地点が決まったわけだが、伊達郡内の世論を二分する険悪な状態に陥ったため、県は着工許可を出せずにいた。
  長岡派はまだ諦めずに架橋運動を進めていたし、また落橋のため信達軌道が不通のままであることも無視できなかった。
  箱崎舟場に永久橋が必要であることは県側も理解していたが、2本同時架橋を公共事業として認めるわけにも行かなかった。
  最大の問題は、言うまでもなく財源である。
   
  長岡派は粘り強く県と交渉を重ね、県・郡や近隣町村からの補助に加え、信達軌道からも資金提供の約束を取り付けて、
  ようやく長岡村の村営事業という形で架橋の許可を得ることができた。
  当時、これほど近接した地点に永久橋を2本架けることは極めて異例なことであったから、県としても苦心の末の判断だったと思われる。
   

桑折に通じる伏黒舟場へは、議決通り鉄橋が架けられることになった。

予定より遅れたが大正4年(1915)5月に着工。

工事は順調に進んで大正6年(1917)4月に完成し、「大正橋」と命名された。

郡の事業だけに、実に堂々とした巨大鉄橋である。

「伊達郡の歴史」より転載 右から「大正橋」とあるのが見える

 

  箱崎舟場への架橋工事に着工したのは、建設許可から1年も経過し、隣りの大正橋が完成に近づいた大正5年(1916)のことであった。
  苦労の末にようやく辿り着いた念願の着工であったが、長岡派の苦難はその後も続いていた。
   
  ・橋桁は、鉄道省から払い下げてもらった中古の鉄道用橋桁を、道路用に改造して流用することにした。
  ・そのままでは長さが足りないので、30mの桁を2本繋げて60mの桁を作り上げた。
  ・第一次世界大戦の影響で諸物価が高騰し、特に鉄は数倍に上昇した。
  ・よって予算の組み替えを強いられ、県に補助金の増額を要請するに至った。
  ・床板には鉄板を敷く予定だったが、費用を節減するため杉板に変更した。
  ・大正9年(1920)7月の完成を予定していたが、その直前の5月に発生した洪水で橋脚の1本が崩壊してしまった、等々・・・。
   
  こうした艱難辛苦の果て、大正10年(1921)7月、ついに鉄橋が完成し、「伊達橋」と命名された。
  予算12万円で着工したものの、最終的な工費は総額17万円にもなってしまっていた。
  なお、この中には県との交渉費用や、伊達橋騒擾事件で投獄され、大黒柱を失った家族への生活支援金などは含まれていない。
   

   
ほどなく、信達軌道も8年ぶりに開通。

大正15年(1926)には改軌、電化され、福島電気鉄道に改称した。

伊達橋にも架線柱が増設され、電車が走るようになった。

「伊達町史」より転載

 
   
同じ角度から見た現在の伊達橋。

桁の一部は取り替えられ、橋脚も改変されている。

   
   

   
伊達橋の詳細に触れる前に、先に完成した大正橋のその後についても少し触れておく。

完成から5年後の大正11年(1922)、保原〜桑折間にも念願の軽便軌道が開通した。

しかし客足は伸びず、大正15年に行われた改軌・電化を期に廃止されてしまう。

大正橋を機関車が走ったのは、たったの5年間だけであった。

レールが外されて純粋な車道橋となった大正橋だが、交通量は寂しいものだったらしい。

橋が開通しても、桑折の"地盤沈下"は止まらなかったのだろう。

大正15年に郡制が廃止されて伊達郡役所が不用になると、停滞は更に顕著になった。

大正時代・後期

 

  「伊達町史」によると、川の東岸伏黒の住民は大正橋を「たんがら橋」と呼んでいたそうである。
  "たんがら"とは農夫が使う背負いカゴのことで、「田畑に向かう農夫しか通らない」という寂しい状態を皮肉ったものであった。
  さすがにクルマ社会になると県道橋として活躍したが、老朽化のため昭和46年(1971)に二代目大正橋が架けられた。
  それが完成すると初代は撤去されてしまい、今や跡形もなくなってしまっている。
  旧伊達橋との扱いの差が歴然である。
   
新大正橋建設工事中の大正橋の様子。

末期は一方通行になり、また通れるクルマもかなり制限されていたことがわかる。

「伊達郡今昔写真帖」より転載 扁額は「たいしやうばし」か。

 
   
   
  阿武隈川への架橋が大正橋一箇所だけであれば、ことは桑折派の思惑通り、桑折町の発展に繋がったかも知れない。
  しかし、橋がもう1本架かったことは大きな誤算であり、桑折派が大正橋に託した思いは叶わなかった。
  結果として伊達郡に2本の鉄橋が架かったことは、地域の発展に寄与したが、住民の間に根強い遺恨を残すことにもなってしまった。
   
  現在、伊達市の市役所は保原に置かれており、
  いわゆる"平成の大合併"の際、桑折町は伊達市への合併協議から土壇場になって離脱している。
   

 

<伊達橋の下部構造>

では伊達橋の詳細を見て行こう。

ここから見ると、橋脚は全てコンクリート製に交換済みのように見える。

竣工時は切り石積みだった。

 

 

 

 

 

橋桁を横から撮るために河原に下りて驚いた。

石積みの橋台が現存していたのだ!

桁の荷重が掛かる部分はコンクリートで補強されているが、

その他の部分は大正10年(1921)の竣工当時のまま残っていた。

 

 

 

 

慌てて堤防を上り返して詳細を確認。

藪の中にごつい石積みが見える。

目地に充填したセメントは後世の補修と思われるが、剥離が著しい。

積み石の一部は欠落しているように見える。

ここだけ見るとまるで廃橋のようだ。

 

 

 

水流に晒される橋脚は、さすがに全面コンクリートだった。

この内部に石積みの橋脚が塗り込められている、、、

なんてことは厚みから考えるとなさそうだ。

土木学会のサイトにも「橋脚:鉄筋コンクリート」とある。

 

ちなみに伊達橋は近代化土木遺産のランクBに指定されている。

 

 

 

 

よく見ると橋脚の周囲が増水時に洗掘されたのか、えぐれて窪地になっており、

そのお蔭で切り石を敷き詰めた竣工時の基礎工を見ることができた。

 

----- いや、橋脚を作り替えたとしたら、基礎工事の際に破壊されてしかるべき部分だ。

竣工当時の土木遺構と考えるのは早計かも知れない。

もしかして、撤去した橋脚の石材を敷いて洗掘防止としたものだろうか。

 

 

第4連目が前述のニコイチ桁である。

100feet(約30m)のイギリス製中古トラスを2本繋ぎ、200feetの桁を作ったのだ。

そんな規格外な桁を見られるのは、日本でもここだけだ。

 

 

 

 

 

左がポニーワーレントラス。

右がそれを2本繋げたワーレントラス。

長さだけでなく、高さも2倍になっている。

その「工作」の痕跡は、今でもはっきりと見ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

橋の床板は、トラスに渡した横桁の上に乗っている。

その横桁は珍しい魚腹型。

 

連続する曲線にしばし見惚れる。

 

 

 

 


 

<伊達橋の上部構造>

さて、やっと橋を渡る。

竣工時は7連トラスだったが、現在は改修されて6連になっている。

そのうち第1、2、3、6連目はイギリス製で、同じ型の100feetポニーワーレントラスである。

トラスの背が低く、上部に左右を連結する横材がないのが特徴で、

日本では鉄道黎明期によく使用されたが、今では稀少になってきている。

 

 

 

左右共に橋名標が残っていて喜んだのだが、

どうやら歩道橋化した際の後付けのものらしい。

これは対岸に渡ってから気付いたことなので後述する。

ちなみに右側には「阿武隈川」とある。

 

明治時代はどこの川に架かっていたのだろうか。

 

 

イギリスの橋梁製造会社名が入っているであろう、肝心の銘板は見つからかった。

が、この写真を良く見ると小さい穴が4つ開いている。

これは銘板を取り外した跡だろうか?

それとも、土木学会のサイトにある「撤去の際に横取り台車を取り付けたボルト穴」

というのがこれだろうか?

   
それにしては小さ過ぎるように思えるが、どうだろう。

この4つ穴は反対側のトラスにも開いている。

 

W型斜材構造はワーレン氏考案のもの。

そいつをピンで接合してある。

ピンを固定するナットがでかい。

リベットだらけの本体が、古風な鉄橋特有のいい雰囲気を醸している。

鉄橋はこうでなくてはいけない。

 

 

 

ここはボルトのアタマ側がこちらを向いている。

特に統一する気はないらしい。

 

それにしても、どうしてこんな中途半端なところで塗装が途切れてるのだろうか?

 

 

 

 

100feetのトラスを3本渡ると、例のニコイチ橋が現れる。

中古の桁を2本繋げて作った200feetトラスである。

上部に横材を追加したため、ポニーが取れて「ワーレントラス」になったわけだ。

 

 

 

 

 

古写真を見ると、その横材には大きな橋名標があったようだ。

右から「伊達橋」とある。

取り外してどこかに保存されていれば良いのだが、聞いたことがない。

レールは南側に寄せて敷かれていた。電化後の軌間は1067mmである。

当時、左側の車道は舗装ではなく、砂利が敷かれてあった。

 

「伊達町史」より転載

 

上記の古写真を見ると、ここに「細長いなにか」が写っているように見えるのだが、

やはり取り外されていて正体がわからない。

河川名のプレートか、あるいはイギリス製の銘板でもあったのだろうか。

 

 

 

 

 

不用になった穴をパッチで塞いである。

大袈裟なので、あるいは開口部の補強も兼ねているのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

かと思うと、開いたままになっていたりする。

その奥の穴はちゃんと塞がれてある。

 

まあ、とにかく色々と規格外の橋なのである。

 

 

 

 

延長材を繋げた部分の裏側。

補強板がずれているの見て、当初は「杜撰だな」と苦笑したのだが、

実は、ずれないように互い違いになっているのかも、

と気付いて無知を恥じた。

 

その補強板は錆でかなり膨らんでいる。

そろそろ塗装の上塗りだけでは限界かも。

 

あまり負荷が架からない横材ではあるが、

こんな状態であった・・・。

 

 

 

 

 

 

斜材にもツギハギの痕跡が見られた。

ボルトを通した穴の一部が、そのまま残っている。

 

 

 

 

 

 

欄干から身を乗り出してピンを撮影。

前々回の十綱橋と同様、荷重や熱膨張を吸収して動くのだろうか?

いや、それにしてはピンの数が多過ぎるか(笑)

 

右に見える丸い鉄棒は補強のために後から追加されたものと思われる。

その根拠も後述する。

 

 

200feetのニコイチ橋を渡り終える。

この狭い橋を、電車や歩行者に混じってクルマも走っていたのだ。

 

 

 

 

 

 

見上げると、今も架線を吊っていたボルト穴が開いたままになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

同桁を振り返る。

この写真ではトラスの上部に鉄棒の先端が突き出ているが、

同位置から撮られた古写真にはないので、「鉄棒は後補」と考えたしだいだ。

前出の古写真にはあるので、初期には早くも補強工事が行われたようだ。

強度に問題があったのだろうか。

それとも、当初からこんな風にバラバラだったのだろうか?

 

   
こちら側の橋名標には、右から「だてはし」とあるように見える。

右側にはやはり「細長いなにか」が写っているが、現状は穴があるだけである。

こちらの写真には架線がないので、改軌・電化前の、より古いものと思われる。

軌間762mmの蒸気機関車が走っていた時代の貴重な写真だ。

路面は板敷きのように見える。 確かに予算不足のため、当初は杉板を敷いていた。

床板が鉄板、あるいはコンクリートに替えられたのはいつ頃だろうか。

「伊達郡の歴史」より転載

 

ニコイチ橋から東側には100feetトラスが3連架かっていたのだが、

そのうち中央寄りの2連だけが架け替えられ、長い1連になっている。

福島県県北建設事務所に問い合わせたところ、

「老朽化のため昭和53年頃に交換した」との回答を頂いた。

 

 

 

 

昭和41年(1966) 新・伊達橋が完成(画面奥)

昭和46年(1971) 路面電車が廃止

昭和53年(1978) 2連が撤去され、長い1連のトラスに架け替えられる

昭和54年(1979) 改修されて、歩道専用橋になる

 

新伊達橋と旧伊達橋の新造部分は、なぜかそっくりである。

面影を残すため、意図的に設計したのだろうか。

 

新造トラスの中間部で川を見下ろしてみる。

橋脚の痕跡がないかと期待したのだが、何も見つからなかった。

この消えた橋脚は西から5番目にあたる。

奇しくも、完成を間近に控えた大正9年(1920)5月に発生した洪水によって、

崩壊した橋脚も5番目であった。

2連架け替えの理由は橋桁ではなく、橋脚の不具合が原因か、

あるいは、元々橋脚を支える地盤に問題があったから、繰り返されたのかも知れない。

   

 

 
   
  昭和50年(1975)に撮影された航空写真には、オリジナルの桁が全て残っており、7連だった頃の伊達橋が写っている。
  都合の良いことに渇水期に撮影されたため、撤去された橋脚は最も深いところにあったものであることが見て取れる。
  常に水流に洗われる場所だったのだ。 なるほど、撤去されてしまうわけだ。
  これを見ると、交換された部分にこそ200feet桁を架けるべきだったのではないか、と考えてしまうが、
  そんな簡単な問題ではないのかな?

 

6連目のポニーワーレントラスを渡ると、そこにも橋名標が付けられていた。

「だてはし」 ---- 「ばし」と濁らないのが正解らしい。

(「川の水が濁らないように」と、わざと「ば」を「は」にする習慣があるらしい)

 

原因はわからないがこの破損具合は凄い。

 

 

 

反対側には「昭和54年3月竣工」とあった。

これは歩道橋に改修された年だから、4枚の橋名標は竣工当時のものではなかった、

というわけだ。

 

 

 

 

 

これで対岸に到着かと思ったら、もう1本短いガーダーがあった。

古写真を見ると、ガーダー部分は当時からある。

しかしこれも交換されており、以前は木製の桁で、中央には橋脚があったようだ。

架け替えられる直前まで木橋であったとは思えないので、

現在のガーダーも何代目かになるのだろう。

 

 

 

このガーダーには銘板があった。

1972年制定の道示(道路橋示方書)「鋼橋編」に基づく歩道橋、の意味だろうか。

橋名標にもあったように、伊達橋は昭和54年(1979)、歩道橋に改修された。

 

伊達市ではなく、福島県による施工であることが分る。

 

 

 

対岸に渡ると箱崎である。

伊達中央橋を架け、自動渡船を設置し、

この伊達橋の架設にも尽力した小野経一は、この村で生まれた。

 

この橋を伊達地方のシンボルとする認識が当局にあるかどうか分らないが、

少なくとも橋の袂に説明板くらいあってもいいのにな、とは思う。

 

 

箱崎停留場

「福島交通七十年の歩み」より転載

 

 

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