福島交通軌道線・長岡跨道橋 (福島市)   2009.11 / 2010.01    [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]  [橋梁Web]

「日本の廃道」第46号に投稿した記事に加筆・修正を加えたものです。


   
 
   
  前回の飯坂界隈廃線紀行では、長岡分岐点から西の飯坂方面に向かった。
  今回は分岐点から東の保原方面に向かってみる。
 
   
 
   
  江戸時代の奥州街道を改良し、陸羽街道→国道4号線と進化してきた大動脈であったが、
  戦後の高度経済成長期を迎えてさすがにキャパ不足になり、解決策として東側にバイパスを設置することが決定。
  この国道バイパス道が既設の福島電鉄・保原線を横断することになったため、ここに跨道橋を設置することになった。
  跨道橋は昭和33年(1958)1月に着工、その3月に完成、というスピード工事であった。
 
   
 
   
  跨道橋工事の期間中、電車の運行を止めるわけにいかないので、仮線を敷設して工事区間を迂回させる措置が取られた。
  跨道橋工事着工に先駆け、前年の昭和32年(1957)11月に着工し、翌月にはこの仮線を使用して運行が開始されている。
  この仮線なのだが、「従来の国道から分岐し都市計画道路の路側を使用した」とあるだけで、ルートが判然としない。
  上図には想像したルートを記載してみたのだが、資料にある「布設延長は630m」とほぼ合致している。 (布は原文のママ)
 
   
 
   
  こうして、跨道橋前後の築堤部を含めると250m余りの長い鉄道陸橋が完成した。
  そして、昭和33年(1958)3月の完成以降、飯坂東線が廃止される昭和46年(1971)4月まで電車を通し続けた。
  この跨道橋が今回の主題である。
   

   
 
 

「福島県直轄国道改修史」より転載・加工

  電車よりもバス事業がメインとなった福島電鉄は、昭和37年(1962)に福島交通と社名を変更。
  その後、前述したように飯坂東線は廃止されたが、不要となった跨道橋には床板を敷き、歩道橋として使用されていたようだ。
   
  しかしその後、下を通る4号バイパスの拡幅工事に伴ってほとんどの部分が撤去&架け替えられてしまい、
  鉄道遺構として現存する部分は、上図の第3高架橋のみになってしまった。
   

長岡分岐点駅跡付近から北を望む。

江戸時代は向かって右が岡村、左が長倉村だったが、明治に合併して長岡村になった。

飯坂東線は直進して奥に見える信号を左折。

仮線はその右折方向に敷設されたと思われる。

保原線はここで右折していた。

   
この分岐は当時、デルタ線になっており、その名残りで今も角が丸くて広い。

現在デルタの中央には、三角形のロータリーが設置されている。

それくらい広いスペースがあるのだ。

奥に見えるこの狭い狭い道を、電車が走っていた。

進んでみよう。

   
すぐに熱田神社の杜が見えてくる。

熱田神社は岡村の鎮守で、旧国道を挟んで反対側には長倉村鎮守の八雲神社がある。

両社とも「天王様」と呼ばれており、祭礼も同じ6月14、15日であった。

この日に催される天王市は「糸市」とも呼ばれ、

全国から生糸商人が集まって大変賑わったという。

当時はそんな商人や見物客も乗せて走っていた。

それにしても、いくら路面電車とは言え、この道幅で併用軌道とはなかなか厳しい。

   

前掲写真にも既に見えているが、線路はここで国道4号バイパスを越えていた。

築堤の先には第1高架橋があったが、

廃線後に行われた国道拡幅の際、跨道橋共々架け替えられ、

このような形状になった。

 

 

 

 

国道は4車線に大きく拡幅されたため、

現在はこのように長大な下路式プレートガーダーが架かっている。

しかも少しアーチ状であるようだ。

 

 

 

 

 

南西側に銘板を見つけたので撮影。

「長岡歩道橋 1982年11月」とある。

こう見えて既に30年近く経過していた。

 

製作したのは東開工業。

 

 

 

長岡歩道橋を渡って東端に到着。

国道に下りる階段が左にあるが、そこから奥側が極端に細くなっている。

ここからが現存する鉄道遺構である第3高架橋で、

本来の幅員はこの程度しかなかったことが分かる。

 

 

 

 

高架橋はアパート2階の前を通って徐々に下って行く。

廃線後に建てられたものだと思うが、

アパート住人と目が合ったら、なんとなく気まずいだろうな(笑)。

 

 

 

 

 

国道に下りる階段の踊り場から第3高架橋を見る。

細かく言うと、手前のベージュ部分は架け替えで、

その奥の青いガーダーが第3高架橋の遺構である。

 

 

 

 

 

新旧の橋桁を支える橋脚の形が面白いので暫し鑑賞。

段差を曲線にて処理した設計者の感性も"やわらかい"のだろうなあ、、、

と勝手に納得する。

 

右奥に見えるコンクリート敷きは、国道拡幅の際に立ち退いた住居の痕跡であろうか。

 

 

 

I型ビーム鋼材製の桁が電柱を輪切りにしたような橋脚に支えられている。

標準軌用の鉄橋の割にはスッカスカだな〜、というのが正直な感想。

編成の短い路面電車用だとこれで十分なのかも知れない。

 

手前の道路が、高架化前に電車が通っていた旧路面なのだろうか。

 

 

 

第3高架橋の工事中の写真が「福島県直轄国道改修誌」にあった。

両側に民家が並ぶ狭い道路上に線路が敷いてあったのに、

それを高架化したため、更に窮屈になってしまったように見える。

「工事中も住民の出入りに配慮しなけければならなかったため、工事の進捗に影響が出た」、

との記載が「改修誌」にもあった。

 

高架脇には簡素な工事用トロッコが敷設されたようだ。

 

I型ビームを溶接しただけの単純な梯子状の橋桁。

各横桁に用途不明の穴が開いているが、なんだろうか?

ちなみに銘板は見つからなかった。

 

戦後に作られた小規模鉄橋って地味だなあ・・・。

 

 

 

高架橋の先はコンクリート築堤のスロープになっている。

阿武隈川に向かって河岸を下っているとは言え、

目で見ても分るくらい勾配がキツい。

パワーのある電車だからこそ可能だったのだろう。

電化(大正15年)前の蒸気機関車は、下の車道を走っていたから平気だったのだろう。

 

 

 

築堤をどんどん下って末端が見えてきた頃、なんとここに跨道橋が現れる。

--------- 低っ!!

 

旧来からある道を通すためとはいえ、

ずいぶんとシビアな場所を選んだものだ。

 

 

 

ちょうど軽自動車が通りかかった。

軽だからこそ、これだけの余裕があるのだが、

次に通った自転車に乗ったおじさんは、体を低くして通過していた。

私もくぐってみたが、頭上に乗せた拳がぶつかった。

クリアランスは180cmくらいか。

 

夜間の通過は命懸けだな・・・。

 

構造は第3高架橋とそっくりである。

しかし、この橋は前述の「福島県直轄国道改修誌」になぜか載ってない。

ここだけ後補なのかも、と思って橋台と築堤見比べてみたが、

コンクリートの質や型枠の痕などに大差がない。

 

後補なら最低でも下路式にしただろうと思うが、どうだろうか?

 

 

跨道橋の橋桁上面の様子。

下を通る車道が、すぐ近くに見える。

 

 

 

 

 

 

築堤の末端が近づいてきた。

ここまで来たらこれを紹介しない訳には行くまい。

ここに、有名かつ重要な物件がある。

線路跡であることを物語る架線柱が現存しているのだ。

--------- 半分だけね。

 

 

 

現役当時はこんな形をしていた。

「馬ヅラ」と呼ばれた狭い電車の幅員が伺い知れだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

架線柱はレールでできていた。

遠目には華奢に見えたが、こうして見るとけっこうゴツイな。

 

現在は街路灯の支柱として利用されている。

 

 

 

 

築堤を下りたところで振り返る。

右側が高架化前の路盤面だと思われるが、

やや掘り下げられているようにも見える。

 

 

 

 

 

同じ場所から阿武隈川方向を見る。

 

 

 

 

 

 

 

跨道橋を渡って車道を進むと、すぐに阿武隈川の右岸に至る。

線路はここで、右奥に見える旧伊達橋を渡っていた。

左に見える大きな橋は、現在の伊達橋である。

 

クルマはここで鋭角なUターンを強いられる。

 

 

 

旧伊達橋を背にして振り返った図。

右側の車道が、昭和32年(1957)に敷設された仮線の跡だと思われる。

たった4ヶ月間、ここを電車が走った。

 

 

 

 

 

そして旧伊達橋。

地元の政治史や日本の土木史にも名を残す、

この有名な古橋のついてのレポートは次回の予定。

 

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