十綱橋 (福島市飯坂町)   2009.10        [TOP]  [寄り道]  [橋梁Web]

「日本の廃道」第43号に投稿した記事に加筆・修正を加えたものです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  飯坂町は福島県福島市の北に位置し、古来より温泉地として知られた所である。
  町の中央を摺上川(すりかみ)が縦断し、その深い渓谷が東西の往来を遮断していた。
  そのためか行政区域も異なり、かつては川を境に西が信夫郡飯坂町、東が伊達郡湯野村であった。
  しかし両者は声を出せば届くような距離にあり、また福島と米沢を結ぶ要路の通過点ということもあって、
  摺上川への架橋は住民にとって悲願であった。
   
 
  大正末期の飯坂中心部の状況を示すために加筆した。赤矢印が十綱橋。
  飯坂温泉という一大観光地を目指し、福島駅を起点として西から東から、2社の私鉄が開通した。
  やがて両社は福島交通に統合されたが、結局最後まで接続することはなかった。

  <序>
  この橋の歴史は非常に古く、最初に架けられたのがいつの頃なのか判然としない。
  資料によると、川の両岸に10本の藤のつるを渡し、それに横板結び、板を敷いて橋にしていたという。
  そこから"十綱橋"と呼ばれるようになったわけだが、"十綱"ではなく“藤綱”が語源かも知れない。
  京都の公家の間では歌枕として知られており、"十綱の橋"を詠んだ歌が多くの和歌集に収録されている。
   
  陸奥の十綱の橋にくる網の 絶へつも人にいひ渡るかな    藤原親隆 「千載和歌集」
   

  参考に、徳島県三好市西祖谷山村にある「祖谷(いや)のかずら橋」を掲載する。

これは藤ではなく葛(かずら=サルナシ)であるが、

形状はこのようなものであったと思われる。

   
  平安時代の末期、十綱橋は戦乱に巻き込まれる。
  平泉の奥州藤原氏に匿われた源義経を追討すべく、鎌倉から源頼朝の大軍が北上。この地に迫った。
  奥州藤原氏の一族で信夫庄司であった佐藤基治は三方を川に囲まれた天然の要害・大鳥城の防備のために十綱橋を切り落としたのだ。
  鎌倉時代になっても摺上川に橋が架けられることはなく、以後、明治初期まで渡し舟による交通が続いた。
  これを"十綱の渡し"と呼んだ。
  (※佐藤氏は石那坂の戦いで破れ、やがて奥州藤原氏も滅びた。戦功によりこの地を与えられた武将が伊達を名乗り、これが伊達氏の始祖となった)
   

   
  <初代>
  明治5年(1872)、福島県令であった安場保和は、ケガの治療のため飯坂温泉に宿泊していた。
  そこで、ひとりのあんま師と出合う。
  彼は摺上川に橋がないことを憂い、少しずつ貯めた金を橋の建設資金として寄付することを安場県令に申し出た。
  この話に安場県令は感激し、さっそく部下に命じて橋の建設を具体化させたが、
  この時期、公費で橋が建設されることは珍しく、住民の寄付金に頼っていたのが実情であった。
  建設費の集金には菓子商の熊坂惣兵衛や前述のあんま師・伊達一(いち)らが尽力し、
  これに以前より積み立てていた渡船賃も加えられた。
  そして、信夫庄司・佐藤一族の菩提寺であった医王寺の大杉を使用して、
  明治6年(1873)12月、木製のアーチ橋が完成。「摺上橋」と命名される。(十綱橋ではない)
  平安時代以来、実に約700年ぶりの架橋であった。
   
  住民悲願の摺上橋であったが、翌年9月、暴風雨にため1年ともたずに大音響と共に崩落してしまった。
  この日は医王寺の祭礼の日であったため、「薬師様の古木を切った祟りだ」と噂になったと言う。
  (※福島の北よりにある瀬上(旧奥州街道・瀬上宿)から西に分岐し、飯坂、湯野を通って鳩峰峠を越え、山形に入った所で七ヶ宿街道に合する道は山形街道と呼ばれ、
  十綱の渡しはそのルート上にある難所であった。明治14年に万世大路が開通するまでよく使われていた)
   

   
ランガーアーチの摺上橋。
写真は現存せず、錦絵のみ残る。
アーチ部と橋桁が木製、縦材は鉄線と思われる。
図中には長サ三十四間 幅三間とあり、
石製の親柱には「摺上橋」の文字も見える。
橋台も石積みだったようだ。
「文化福島」より転載  
   

   
  <二代目>
  摺上橋の崩落を受け、熊坂、伊達らは直ちに再建を県に申請。
  「崩落は県による設計ミスが原因」とする立岩一郎区長の尽力もあり、今度は全額県費にて建設することを安場県令が決定する。
  主塔は先代同様、医王寺の杉を使用したと言われ、鉄線"10本"にて橋桁を吊った。
  明治8年(1975)5月、吊り橋が完成し「十綱橋」と命名される。
  京の都にまで届いた橋の名が、ついに復活したわけである。
  しかしこの橋は地盤が弱かったのか設計が悪かったのか、度々傾いたり落ちたりと毎年莫大な修理費が掛かり、中々安定しなかった。
  --------- ここで悲劇が起きる。
  盲目の伊達一が責任を感じ、また十綱橋の恒久を願って自ら人柱となるべく入水自殺を遂げたのである。
  この事件に対する当時の住民の反応が残ってないので不明だが、
  昭和43年(1968)になって、伊達一の頌徳碑が上流にある新十綱橋の袂に建立されている。
  (※立岩一郎:旧米沢藩士。後に安積開拓出張所々長となる。退官後、桑野村長となって安積開拓を先導する。当時の立岩邸が郡山市に保存されている)
   

当時、飯坂地区の区長を務めた立岩一郎の子孫が保管している、
十綱橋の側面図と写真。
そのうち側面図には、
摺上川再架之圖
長 三十六間
巾 三間
朱ハ鉄縄
黄ハ渡板
墨ハ手摺
とある。どうやら原版はカラーのようだ。
 
主塔の横材には右から白字で「十綱橋」とあるように見える。
「立岩一郎の生涯」より転載  

三十六間とは約65mである。

現在の橋より10mも長い。

 

 

 

 

絵葉書になった二代目十綱橋の全景

「土木学会図書館」より転載(許諾済み)

 

「福島県土木史」によると、明治16年と24年に大規模な修理が行われたが橋の傾斜は治まらず、本格的な架け替えが検討されたとある。

そして明治43年(1910)8月、洪水のために落橋し、ついに架け替えが決定した。

 


<仮橋>

現十綱橋着工までのわずかな期間存在した、木製の仮橋の写真が残っていた。

夏休みの工作 ・・・・いや、林鉄の木橋を思わせる造作で、華奢な印象を受ける。

流されてしまったのか、橋台が見当たらない。

 

 

 

 

「福島・伊達の100年」より転載

 

 


<三代目>

大正3年(1914)4月に着工した三代目は、

工事に1年5ヶ月を費やして大正4年(1915)9月に完成した。

伝統の吊り橋ではなくアーチ橋になってしまったが

十綱橋の名は受け継がれた。

形式は"2ヒンジブーレストリブアーチ"という。

"橋の両端にヒンジがあり補強された肋骨みたいな形の橋"

という意味らしい。

 

「土木学会図書館」より転載(許諾済み)


            全長

形式

               
平安時代まで       藤のつるで両岸を繋ぎ、板を渡していた     吊り橋
               
鎌倉・室町・江戸       小舟にて往来し、十綱の渡しと呼ばれた      
               
明治6年 12月 1873   住民の寄付金により摺上橋が完成   61.8m 木製ランガーアーチ橋
               
明治8年 5月 1875   県費により十綱橋が完成   65.4m 吊り橋
               
大正4年 9月 1915   現在の橋が完成   54.0m 鉄製上路アーチ橋
               

 

「福島市史 別巻5 福島の町と村2」によると、

中世の十綱橋の位置は「赤川と摺上川の合流点の100m程下流」とある。A

河床には支柱を立てた跡と思われる2つの穴が現存しているらしい。

しかし「同 福島の町と村1」では、「渡し場より300程上流」とある。B

現在、新十綱橋が架かっている辺りだろうか。

は明治8年に吊り橋が架けられた所で、東側橋台の位置が現在と異なる。

は十綱の渡しがあったところ。

 


<現地へ>

ORJ2008年1月号(第21号)の「三島が描いた直線」にて紹介した飯坂街道を通り、

その終点である飯坂温泉にやって来た。

地図上では直線だが思ったよりアップダウンが多く、強引な設計であったことが体感できた。

この直線道に沿って敷設された鉄路の終点もまたここである。

 

福島交通飯坂線・飯坂温泉駅前に到着。

 

 

駅の入り口に建つ松尾芭蕉像。

芭蕉は元禄2年(1689)5月、佐藤一族の菩提寺である医王寺に立ち寄り、

義経に忠誠を尽くして戦死した基治の二人の息子に思いを馳せ、

また戦死した夫の代わりに甲冑を身に着けて凱旋した彼らの嫁に涙している。

 

笈も太刀も 五月にかざれ 紙のぼり

 

 

その芭蕉像の背後に十綱橋が架かる。

完成後100年近く経過しているが、今も現役である。

 

 

 

近代化土木遺産:ランクA

2004年 土木学会選奨土木遺産に認定

 

さっそく、「2ヒンジ ブーレストリブ アーチ」の"ヒンジ"ってどこだろう?

と覗き込んでみたが、草木の陰になって見えない・・・。

上流側から見たり、対岸から見たりしてみたものの、どうしても基部が見えないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

仕方がないので「土木学会」から古写真をお借りする。

矢印の部分がヒンジになっているはずだ。

 

 

 

 

「土木学会図書館」より転載(許諾済み)

 

 

アーチの末端が細くなっており、そこがヒンジになっているのがお分かりだろうか?

分かり辛いですね、すいません・・・。

 

 

 

 

これです、これ!

 

 

 

 

 


そして、丸印の部分の原状がこれ。

完成時はI型の断面で、側面には隙間がないほど大量のリベットが打たれていたのだが、

昭和42年(1967)の改修時に鋼板が溶接されて箱型断面になった。

延命のための補強工事なのだが、

お蔭で古橋における重要な萌え要素であるリベットが隠されてしまった。

 

 

 


さて、十綱橋を渡ってみよう。

親柱は黒御影石を使った大変立派なものだが、取材対象とはなり得ない。

対岸の親柱には「竣工 平成四年三月」なんてあって更に萎える。

そこは誇り高く「大正4年9月」と書くべきではなかろうか。

 

右側の標柱は名所・旧跡を表すもので、町内各所にあるようだ。

 

 

橋を渡ると交差点がある。

これが国道399号線で、前述した山形街道の今の姿である。

当時はもっと高い所を通っていたそうだが、

明治19年(1886)の工事で橋の高さにまで掘り下げたという。

 

この交差点に、今では珍しい存在となった白看が残っていた。

 

 

しかもただ漫然と放置してあるわけではなく、

国道標識としての役割も新たに背負わせつつ、

これからもずっと使い続ける気満々である。

 

 

 

 

 

橋を渡る途中、川岸に「十綱の渡し」という看板が見えたので、

お、あそこに行けるのか? 何かあるのか? と期待して交差点を右に曲がる。

 

 

 

 

 

 

渡し場に下る道の入り口を探しながら国道を歩く。

この道は真直ぐ桑折町まで続いている。

真直ぐ ---- そう、これは三島県令が作った直線道路の一つである。

桑折町に移転した伊達郡役所と飯坂温泉を、最短距離で繋ぎたかったのだろう。

 

やがて狭い路地の奥に白い標柱が立っているのを見つけた。

 

 

 

 

その標柱には「奥の細道(旧道)」とあった。

芭蕉がここを通ったかどうかはわからないが、

"旧道"とあるので、ここが十綱の渡しへ至る道だったのであろう。

 

標柱には「危険なので通行禁止」とあったが、

それに従うまでもなく、この光景を見て行く気をなくしてしまった。

理由は、、、「夢を見続けたかったから」とでもしておこう。

 


<ちょっと寄り道>

飯坂温泉の北に「奥飯坂温泉」と呼ばれるエリアがある。

摺上川を挟んで向かい合う穴原温泉天王寺温泉を合わせた名称で、広義の“飯坂温泉”にはここも含まれる。

前述の安場県令が湯治していたのは穴原温泉だったらしい。

 

冒頭の写真を撮るべく、日没を待つ間、奥飯坂の古刹・天王寺を訪ねた。

駐車場の一角に「天王寺温泉碑」という大きな石碑がある。

碑文によると、温泉の安定供給を目指して源泉から隧道を掘削したとのことだが、

その隧道の長さが「百十余間」、つまり約200mというから長大である。

明治17年5月に着工、翌年1月完成とあるから、

三島が作った飯坂街道の開通に刺激されたのかも知れない。

温泉がこの地域の経済を支える重要な資源であったことが伺える。

 

 

 

 

 

 

 

 

「壱百十餘間之隧道」とある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その隧道の原状が気になるが、残念ながら期待はできないようだ。

裏面に「建碑復旧之銘」とある。

そして「地辷(すべ)リノ奇禍ヲ禀(う)ケ倒壊シテ久シ」と続いている。

どうやら元の石碑は土砂崩れに遭って失われてしまい、

これは大正7年(1918)になって再建されたものらしい。

その"奇禍"に隧道も巻き込まれて埋もれたのだろう、と勝手に想像したのだが、

隧道は残っていて現役だったからこそ再建された、とも考えられる

 


<余談>

帰宅後、レポを書くために碑文を読んでいたら「戸長守谷盛一」という人名を見つけた。

「どこかで見たことあるな〜」と気になっていたのだが、締切り間際になってやっと思い出した。

「旧橋紀行・松齢橋」で取り上げた松齢橋碑の副碑に、「信夫郡書記」の肩書きで刻まれていた人だった。

明治16年に郡書記として松齢橋架橋に携わった一年後、

今度は上飯坂村戸長として温泉隧道の開削にも尽力したようだ。

どうも三島県令の人脈に連なる人物のようだが、旧薩摩藩士なのか地元の人なのか、詳細は不明。

 

しかしこんな所で三島の影を見ることになるとは思ってもみなかった。

"土木県令"の意味を改めて考える機会になった。

 

 

 

松齢橋碑の副碑

 

 

 

 

 

 

 

 

 


      再訪編に続く

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