この辺りに出たと思われる。
橋跡の50m程上流である。
河原の船着場も、段丘にあった道形も
現在は見られない。
街道の南側(画面左)だけに家が並び、
川に沿った北側には家がなかったために
この名が付いたという。
右側の建物は旧片門郵便局の廃墟。
南側には旧家が多く見られる。
これは渡し守をしていた塩田家である。
北条時頼(1227〜1263)が与えた文書が保存されている、
というから700年以上代々渡し舟を漕いでいたことになる。
この建物、「千と千尋の神隠し」を思い出してしまった。
片門村肝煎兼問屋の渡辺家である。
増水で川を渡れない時に、停滞した荷を保管する為の
大きな土蔵があったという。
明治初年に舟橋ができた時にはここに橋番小屋があり、橋銭を徴収していたとのこと。
イザベラ・バードもこの船橋を渡っている。「十二艘の平底船からなる橋」で「立派な橋」との評価であった。
やがてY字路に出るが、右はすぐに旧片門橋で、
街道は左へ続く。
正面の民家は旅籠の浦島屋であった。
只見川は米や塩の輸送路としては利用されなかったので、
川の両側にある宿場は重要度は高く、
人や物資で大変賑わった。
右が現県道で片門橋に至る。
街道は西へと直進し、片門小学校の前を通り、
学校西側の民家の先で南(画面左)に折れていた。
道形は失われてしまった。
この辺りを左に折れていたはずだ。
画面右方向に、諏訪神社があるため、
この坂は諏訪の坂と呼ばれた。
画像の斜面がそれである。
斜面の上に県道が通っているのが見える。
その上の段の坂は中の坂と呼ばれた。
両坂ともに道形は見つけられなかった。
低い段丘を横切ってK341が西へ延びている。
街道のルートも一致している。
ここが「束松事件」の現場である。