越後街道・天屋宿・本名宿 2004.09 [TOP] [MENU]
折り返して上って行くダンプが右上に見えるが、
街道はこの坂を直登していた。
由来は不明。
標柱などは何も無いので見つけにくいが、
ここから森の中に入って行く。
道形は非常に鮮明である。
前方に青看が見えてきた。
実は最初にここを訪れた際、県道脇の藪の中から
小学生がゾロゾロと出てきたのを見て驚いた。
それがこの越後街道・狐塚の坂発見のきっかけだった。
旧状のまま残る貴重な旧街道も
彼らにとっては普通の通学路だった訳である。
笑ってしまった。ずっと使い続けてくれ。
直進は「通行止」になっているが、
これこそ目指す越後街道なのだ。
そういう意味でも、萌える青看である。
赤城新田村は会津藩士が苦労の末に拓いた
御神料田であるという。
街道を挟んで、右が天屋宿、左が本名宿である。
村境であった杣道が街道として発達し、
両側に移住して街村を形成したためこうなったという。
この状態は、峠の頂上まで続くのだった。
右の土手の上にあるのが天屋村肝煎の満田家である。
右が県道151号山都柳津線、
左が県道341号別舟渡線である。
街道は左に進む。
バスはK341=街道には入らず、K151に行ってしまう。
「一時停止」の標識からも判るように、
現在旧街道はメインでは無くなっているのだ。
バスを撮ったんだからね!バスをね!
本名村肝煎の斎藤家である。
大臀筋が痛い。
この辺りからは、かつては切石が敷かれた石畳の道であった。
しかし「馬車が通る時、ガタガタして邪魔」とか
「炭焼きの窯を造るんで、もらって行くべ」とかで剥がされてしまい、
徐々に減っていった。
舗装化の際、完全に消滅した。
屋号は「鍛冶屋」である。
農具を修理したり、蹄鉄を付けたり、
宿場には無くてはならない存在だ。
旧家は解体され更地になっていた
K341の事実上の終点である。
ここから本格的な束松峠への上りになる。
これだけ6月の撮影。右にまだ鍛冶屋がある