奥州街道・二本柳宿                    [TOP] [MENU]

やがて十字路に出る。

右折&直進するとK114に合流する。

街道は最も狭い左の道である。

直進した合流点には、二本柳宿の

「由来碑」がある。  <直進する>

 

 

緩い坂を上るとすぐに二本柳宿に入る。

何軒かの家の前には看板が掲げられ、

この家には「問屋」とある。

当時の屋号が表記されているのだ。

白河街道の上小屋宿にも見られた趣向で、

もちろん「街道Web」的には大歓迎である。

        二本柳宿の地図

                     

宿の西端には円東寺がある。

道の真中には昭和51年まで水路があった。

左が「竹屋」で、右奥が「角屋」である。

角屋では参詣客相手の茶屋を開き、

旅籠も兼ねていた。

街道はここを右に折れる。

 

角を曲がった所に古井戸がある。

柳清水と言って、宿名の由来となった。

石碑は「弘法清水」となっている。

この名前じゃつまらんのだ。

奥に見える上り坂を小取揚坂と呼ぶ。

 

 

 

小取揚坂の途中に「鹿の鳴石」がある。

(画像をクリックすると説明板を表示)

 

 

 

 

 

 

小取揚坂を下る。

途中に戊辰戦争の墓標がある。

(画像をクリックすると石碑を拡大表示)

 

 

 

 

 地元の方が東軍、西軍分け隔てなく亡くなった兵士を埋葬したのであろう。当時の兵士は襟にお金を縫いこんで出征したという。 
 見知らぬ土地で死んでも野晒しにならぬよう、埋葬料を前もって準備してしておいたのだ。なんとも切ない話である・・・。

 
さて会津藩降伏後、新政府軍は城下に散乱する会津兵の遺体の移動、埋葬を禁じた。風雨に晒され、野犬に屠られる家族の姿を
 ただ見ているだけ、という耐え難い苦痛を会津の人々は強いられたのだった。
 100年以上前の事だが、奥州会津の人々は21世紀になった現在でも長州萩藩を許していない、とのことである。

小取揚坂を下り小集落を抜けると十字路があり、

角には石碑群がある。

ここからまた上り坂になる。大取揚坂である。

小取揚坂は明治になって切り通されたが、

大取揚坂は旧状のままの急坂である。

 

 

大取揚坂を上り切った所。

右(東)に牛宿があった。

赤い屋根がその佐藤家で、

手前の畑に厩があった。

 

 

 

 

大取揚坂を下る途中に石碑がある。

「石橋碑」とあり、大正4年の銘がある。

地元住民の出費でこの先にある境川に

石橋を架けた記念碑である。

この辺りに一里塚があったと思われる。

 

 

平地に出て集落に入ると十字路がある。

ここから道は急激に狭くなる。

左車線の停止線の幅しか幅員がない・・・。

 

 

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