白河石を運ぶトロッコ線 (白河市・泉崎村) 2011.02 [TOP] [寄り道] [廃線Web]
福島県中通り南部の白河地区は古くから石材の産地として知られ、白河石と呼ばれて広く使われていた。
いまも残る小峰城の石垣も地元産の白河石で築かれている。
小峰城の石垣
2010.07
言うまでもなく石は重い。
切り出された石は馬によって運ばれていたが、明治になって東北本線が開通し、また首都圏での需要が増えると、
より早くより大量に運ぶ必要が生じてきた。
明治32年(1899)には白河石材運搬株式会社が設立され、西郷村米の石切り場と白河駅を結ぶ3.21kmの軌道を敷設。
白河駅には積み替えのための専用線も設置された。(設立は明治33年との記述もある) 「白河石材運搬専用軌道」のレポートはこちら
白河石材運搬専用軌道の跡
2006.06
この他にも石材運搬のための軌道がいくつか敷設されたことが市史などにより判明しているのだが、いずれもルートが分からない。
分からないまま長らく放置していたのだが、情報の拡散と収集を期待して知り得た範囲を公開してみることにした。
小田川石材軌道 (白河市〜泉崎村) 2011.02 [TOP] [寄り道] [廃線Web]
「こたがわ」と読む。
白河城下から奥州街道を北に進んで2番目の宿駅が小田川宿、という位置にある。
明治29年(1896)に泉崎駅が開業したが、これは宿場から3.5kmも東に離れていた。
そして石切り場(推測)は3kmも西方にあったのだ。
大正8年(1919)10月、石切り場と泉崎駅を結ぶ6.5kmの軌道が敷設された。
「白河市史3」によると石山は「小田川村妙見地内」とある。
このどこにでもある「妙見」という名の場所が特定できず、白河市に問い合わせたところ「現在この地名はなく、あった場所も不明」との回答。
これは困った・・・。
ただ、推定位置を教えて頂いたので、これを地図に記して軌道のルートを想像してみる。
「妙見」は分からないが「妙見下」ならば芳賀須内の西側にある、とのこと。
地図を見ると確かに石切り場跡と思しき「がけ」や「荒地」の記号が散見される。
正確な位置は不明だが、このエリアではないかと推定した。
で、問題の軌道のルートだが、ここを流れる泉川を下って行くとちょうど泉崎駅の北側に着く。
宅地や勾配を避けるルートを考えると川沿いが最適のように思えるがどうだろうか。
なお路線名は仮名である。
久田野石材軌道 (白河市) 2011.02 [TOP] [寄り道] [廃線Web]
白河北東部はかつて大沼村と呼ばれており、昭和24年(1949)に白河町と合併したことにより白河市が誕生している。
明治期、大沼で産出された石材は白河駅や泉崎駅まで馬車で運んでいたが、コストが掛かり、橋も脆弱だった。
これでは不便ということで大正4年(1915)に開設されていた久田野信号所を駅に昇格するよう、地元より請願が出された。
その結果、大正8年(1919)に久田野駅が開設される。
大正10年の統計を見ると、白河駅から発送された石材は2万3300d、久田野駅からも9000dに上っている。
久田野駅に接続する石材軌道の存在を知ったのは最近のことで、白河市立図書館にて「大和田の歴史見聞録」という、
おそらくは自費出版であろう小冊子を偶然見つけたことによる。
筆者の深谷久氏はかつて久田野駅付近にて石材業を営んでいた方とのことで、軌道について詳細な記述があった。
以下に抽出すると、
・大正8年頃、月山からは石が採掘されており、石材職人が何十人もいた。
・大沼村泉田に住む吉田廣之助が、大沼村大和田の蟹沢山にある共有山中、萱山から石ノ入山に連なる部分を石山と見込み、
久田野駅までトロッコを敷設する計画を立案。
・採掘権の売り渡し条件は30年契約で1万円であった。当時、米一俵は1円20銭程度で、かなりの大金が大和田に入った。
・その金で大和田地区に電気を引いた。
・契約書とトロッコの図面が筆者宅に現存する。
・久田野駅からは貨物車で3、4両ほどの石材を毎日発送していた。
・関東大震災(大正12年)の影響で不況になり廃業。
・その後大沼村本沼の兼子多利治石材店が事業を引き継いだが、石の品質が悪く長続きしなかった。
軌道の開始・廃止年が不明だが、大正8年〜昭和初期くらいまでであろうか。
存在していたのは10年程度の短期間に過ぎなかったようだ。
なんといっても軌道の図面が存在することに注目されるが、個人蔵物件ゆえ残念ながら私はまだ拝見できてない。
そこで地名から推測してみる。
蟹沢山なる地名はすぐに見つかったが、萱山、石ノ入山はなかった。
東北本線と阿武隈川に挟まれた部分にある山塊にはやたらと「がけ」記号が多いから、
これはまるごと石山なのかも知れない。
しかしルートの推定は難しい。
吉田氏は北側の池ノ入でも採石していたとあるのだが、
ここへも軌道を敷設したかどうかは不明である。