白河石材運搬専用軌道1 (白河市〜西郷村)   2006.05        [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]

 


[2007.09]追記  「白河市史3」より

明治32年(1899)、西郷村の石切場から白河駅まで石材をトロッコで運ぶ運送会社が設立された。

白河駅の貨物線には石材専用線も設置された。       


[2010.07]追記  「西郷村史」より

明治33年(1900)、白河石材運搬株式会社が設立され、米〜白河駅間に3.21kmの軌道が敷設された。

(※注 地図上では4.5kmほどある。 誤記か、後に延伸されたか、あるいは全く別のルートか)


実は昭和34年発行の地形図に載っている、という以外、何も判らない。

路線名は自作だし、設置年、廃止年も不明。動力も不明だ。

何を運んでいたかも実は私の想像なのである。

 

 

 

 

[2009.01]地形図追加
国土地理院発行「白河」より引用

 

この地方で産出される石材は「白河石」と呼ばれ、

小峰城の石垣から民家の壁、水路や石橋の材料などに、古くから広く使われた。

石切り場が点在する白河の北西地区から石材を駅まで運ぶ為に、

軌道が設置されたと思われる。

痕跡は非常に薄いが軌道跡を辿ってみる。

 

 

 


とりあえず白河駅の北側に到着。

このやたらと広い敷地は、操車場跡で、

かつては転車台や扇形車庫などもあった。

大正期の改修で盛り土されて造られた人工の台地である。

 

構内が嵩上げされた後、石材をリフトアップする作業は大変だったであろう。

 

              

長いホームの西端にあるこの建物は危険品庫だろうか。

残念ながら白河石ではなく、大谷石製であるようだ。

 

石材軌道は、この台地上までには至らず、

台地下の西端が終点であったと思われる。

行ってみよう。

 

 

この会津町跨道橋辺りが終点である。

集積場などの痕跡は全くない。

 

 

 

 

 

軌道は東北本線の築堤にピタリ沿って、西へ続いていた。

現在は宅地や耕地になっており、

作業道としてすら残っていない。

昭和39年(1964)の複線化工事の際に埋められ、

築堤の下になってしまったのかも知れない。

 

 

 

進むに従い徐々に築堤との比高がなくなり、

同時に軌道跡の擬定が困難になってくる。

この辺りは宅地になっており、もう人工的な築堤ではあるまい。

坂を上って本線に行ってみる。

 

 

 

 

狭い坂道を登ると、長坂踏切に出た。

軌道はこの前をを通っていたのだろうか。

 

 

 

 

 

東北本線に沿って西に伸びる細道がかつての軌道跡だろうか。

行ってみる。

 

 

 

 

 

 

しかし、すぐに私有地になり進行不能になる。

左の緑地は東北本線の複線化の際の線形改良によって旧線となった部分であるが、

以前は、ここに軌道が通っていた可能性もある。

(「だろう」とか「可能性」とかばっかりだな・・・)

この先は、R4バイパスの開通、新幹線の高架設置などにより

旧状は全く失われている。

 

 

R4バイパスの西側から再スタートする。

これが白河と米村を結ぶ古い米村道で、現在のK37の旧道に当たる。

おそらく併用軌道だったと思われる。

 

 

 

 

当時からある白河変電所の南側を通る。

現県道は北側を通っている。

 

 

 

 

 

 

やがてこの先で谷津田川を渡るが、

ここは併用ではなく別々に橋が架けられていたようだ。

両岸ともに橋の痕跡は消えている。

 

 

 

 

 

川を渡ってからは専用軌道になるが、

東北自動車道までの間は水田になってしまい、痕跡はない。

 

自動車道の高架をくぐってすぐに左の道に入る。

 

 

 

 

これが軌道跡である。(たぶん)

右側に放置された石の端材が思わせぶりだ。

 

 

 

 

 

少し進んだ所で振り返ると高架が見える。

左の石碑は昭和14年建立で「牛王尊」とある。

重い石材を引いて軌道を往復したのは、

歩みは遅いがパワーのある牛だったのだろうか。

 

(馬頭尊は随分見たが、牛王尊は初めてだ)

 

 

水田の中を真っ直ぐ進む軌道跡。

圃場整備の際に直線的に改良された可能性も十分ある。

しかし、この先の車道との交差点でプッツリ切れてしまう。

米村集落の南側を通っていたはずだが、

ここも耕地化されてしまい、痕跡はない。

 

 

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