松永軌道 田村市(旧滝根町)〜いわき市川前町 2009.01 [TOP] [寄り道] [廃線Web]
「滝根町史・民俗編」を読んでいたら林用馬車軌道のネタが二つ載っていたので、ご紹介してみよう。
規模や現状から考えて、とても鉄道遺構が残っているのは思えないので探索はしていない。
埋もれそうな交通史の発掘と啓蒙活動の一環として公開、、、、とか言うとカッコイイかも知れない(笑)
相馬出身の松永と言う山師が、大滝根山や万太郎山の森林資源を磐越東線・神俣駅まで運ぶために設置した軌道である。
松永軌道という名称は正式名ではなくおそらく俗称であろう。 (神俣駅の位置 )
神俣駅が開業した翌年の大正5年(1916)という早い時期に松永軌道は開設されている。
レールはなんと木製であったが、上面に鉄の板を張って補強してあった。
そのため木線(もくせん)と呼ばれており、動力は馬力であった。軌間は不明。
いわき市川前町の芋島が終点で、周辺の山から牛馬や人力にて集められた薪炭を、
軌道沿いに点在する土場で貨車に積み込みつつ進み、起点・神俣駅の倉庫まで運んでいた。
これらの中間土場のうち最大のものが入新田にあり中継と呼んでいた。
地元の人は今でもこの付近を中継と呼んでいると言う。
川内村方面から産出される木材は、索道で中継まで運んでいた。
帰路は従業員の生活物資や資材を中継まで運んだが、そこから南には急坂(赤い実線)があったため空荷で峠を越えた。
「川内村史」に掲載されていたので転載させて頂く。
薪炭や角材を積んだトロッコを馬が引いている。
例の木線も写っているが詳細は読み取れない。
周囲の状況から見てとても併用軌道とは思えないことから、
現在の車道はこの軌道がベースということになる。
これは新発見であった。 [2009.03]追記
四ツ花軌道 田村市(旧滝根町) 2009.01 [TOP] [寄り道] [廃線Web]
中継〜神俣駅間には、ほぼ並行して他にもう一本軌道が設置されていた。
これが四ツ花軌道で、「滝根町史」によると、大正9年(1920)工学博士武田恭作氏によって設計・開設されたとある。
武田恭作って誰だろう? と思って調べてみたら東京帝大・冶金学科卒で、溶鉱炉の開発をするなど鉱業の専門家であった。
明治38年(1905)武田鉱業本店(後の大日本鉱業)を創設し、福島関連では会津の加納鉱山を経営していた。(1867生〜1945没)
この四ツ花軌道は大日本鉱業ではなく武田氏個人が開設したのだろうか? 鉱山屋がなぜ?
わざわざ競合する場所を選んだ理由も判らない。 それほど木材輸送の需要があったということだろうか。
ちなみに軌道名の由来も不明である。
さて、この軌道は並行する松永軌道と違って鉄製のレールであった。よって金線(かなせん)と呼ばれた。やはり馬力。
後に地元神俣の先崎辰治氏に経営が譲渡され、松永氏以外の山師が使用料を支払って利用していた。
道路が整備され荷馬車の通行が可能になると、いずれの軌道も昭和初期頃には相次いで廃止されてしまう。
現在は県道36号小野富岡線の一部になっているため、鉄道遺構残存の可能性は薄いと思われる。
地図中、左上のピンクのラインは神俣石材軌道で既にレポート済み。 →こちら
緑のラインは新町軌道会社が設置した林用馬車軌道で、これは地形図にも掲載されており、
「トワイライトゾ〜ン MANUAL6」にも新町林用軌道としてレポがある。
それにしてもこれだけ狭い範囲に4本もの軌道が集中している様は、なかなか壮観である。
・大正7年(1918) 大滝根山から神俣駅まで神俣石材軌道が完成。石灰を運搬
・大正9年(1920) 武田鉱業の武田恭作が神俣駅まで四ツ花軌道を開設。薪炭を運搬
これらの位置と時期の一致を合わせて考えると、武田氏は神俣駅付近でカーバイト工場の経営を始めたのかも知れない。
カーバイトは石灰と木炭を電気炉で熱して作られ、水と反応して発するアセチレンガスに火を灯して照明としていた。
[2009.06]追記