旧国道118号線・蝉峠3 (天栄村〜下郷町)  2007.04     [TOP]  [寄り道]  [廃道Web]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[C地点]

湯本橋を見下ろす地点から先は、

川を見下ろす崖っぷちを通るルートになる。

が、特に絶景というわけでもない。

 

 

 

 

こういうモノがあると、ますます混乱するんだよね。

 

路肩が崩落して道が欠損。

修復するわけでもなく、外側を迂回するルートを開削。

さすがにそのままじゃ危険だろう、と簡単な柵を設置。

支柱だけになったまま放置。

 

こんな経緯が想像できるが、

これ、登山道じゃなくて県道なんですよねえ?

 

  2013.04追記
  「天栄・湯本 でどやま通信」によると、遊歩道化の計画があったとのこと。
   

徐々に険しくなってきた旧旧県道。

車道でもなく、林鉄跡でもないとしたら

明治期に開削された馬車道の可能性が残ったが、

勾配がきつくて馬車が上れそうもない。

 

2013.04追記

この辺りに会津藩が築いた塹壕・砲台があるらしい。 →石田明夫の「会津の歴史」

 

残雪を踏みしめ、倒木をくぐって進む。

この時はここに残した自分の足跡が、

後に私を救うことになるとは思わなかった。

実はこの探索の帰路に道を見失ってしまい、この左側斜面の上方にある

ガレ場を彷徨ったのだが、残雪に刻まれた自分の足跡を斜面上から見つけ、

緊張から一気に解放されたのだった。

 

雪が完全に消えた時期だったら、どうなっていたことやら。

深く反省・・・。

 

この辺りは幅員もけっこうあり、

じわじわと高度を上げて行く感じは明治っぽい。

しかし石垣などの施工が全く見られないところは江戸っぽい。

 

 

 

 

 

美しい渓谷を鑑賞できるわけでもなく、

ベンチや東屋が設置されていた痕跡もなく、

かといって藪をかき分ける必要もない。

 

繰り返すが、昭和28年の地形図ではこれが県道。

 

 

 

突然、急勾配になる。

よく踏まれており、笹に覆われることもなく鮮明な道形。

いったい誰が、なぜ?

 

 

 

 

 

[D地点]

やがて稜線に切り欠きが見えてくる。

帰宅後の検証によって判ったのだが、

実はここが蝉峠であった。

ちょっと期待外れな光景であるが、これは仕方がない。

 

 

 

峠の頂部で標柱を見つける。

このルートで唯一の「文字」がここにある。

 

 

 

 

 

 

林道や林鉄跡ではお馴染みの「山」

裏側には林班を表すと思われる「九五」

かなり古い。

 

 

 

 

 

蝉峠を越えると天栄村から下郷町に入る。

峠の前後だけは急勾配だが、

それ以外はだいたい緩やかな「山道」が続く。

 

 

 

 

 

路肩が崩落した地点は、足元が不安定だが見晴らしがいい。

小石を落としながらも、踏ん張って撮影する。

手前が川沿いに通された旧県道。奥が国道。

蝉トンネルに通じるスノーシェッドが見える。

 

 

 

 

蝉トンネルを「地上」から見る。

 

 

 

 

 

 

そのサイズや勾配から、林鉄跡のような雰囲気が感じられる。

ここはお気に入りの光景となった。

 

 

 

 

 

 

地形に逆らうことなく、谷と尾根を越えてゆく。

 

 

 

 

 

 

 

こんな光景がしばらく続く。

この先の様子が見たい一心で歩き続ける。

実は歩いていないと寒くて仕方がない。

 

 

 

 

 

[E地点]

前方に、今日何度目かの崩落地点を発見。

今度のは深そうだ。

 

 

 

 

 

上から下まで、一挙に地盤が流れてしまっていた。

足元の地盤が脆く、今も崩れ続けている。

無理すれば突破できない事もないが、

この時、私の心は既に折れていた。

自宅を出る時、車内の温度は30度もあった。

愚かな私は軽装のまま入山したが、ここは5度もない。

下部には用途不明のゴムホースが垂れ下がっていた。

 

対岸の斜面を急勾配で上って行く道が見える。

あの稜線の向こうには、どんな光景が待っているのだろうか。

いや。

引き返すきっかけとなったこの崩落が、

実は嬉しかったりしたのも事実だ。

撤収。

 

 

撤退地点を旧県道から望む。

正面の急峻な溝が、古くからの道を抉り取った谷だ。

 

 

 

 

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