大昭炭鉱専用軌道1磐城採炭本線) (いわき市植田町) 2006.03 [2006.09修正] [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]

 

  <概略>
  
常磐地方の石炭運鉱線であるが、昭和34年発行の地形図だけを元に探索したもので、詳細は不明である。
  地元の方のお話によると「100年も前から掘っている」とことであった。
  その間、何度か事業者が変わっているようだが、軌道が設置されたのは大昭鉱業株式会社になってからのようだ。

 

以下、想像を交えながらこの軌道について解説する。

本坑から常磐線・植田駅まで軌道が設置されたのは昭和15年頃

当初は馬で引いていたが、後に機関車が導入された。やがてトラック輸送に切り替えられたが、

水色で示した区間は昭和58年の地図(昭文社)にも軌道が描かれている。

なお赤い太線の部分は、なんと複線の記号で描かれている(S34地形図)

[追記] 実際には水色の区間が先に廃止されており、全線単線だった。(2007.01)

 

支線と思われる法田(はった)線の設置は昭和26年頃

こちらは機械化されず、廃止まで馬が引いていたとのこと。

 

 

<詳細追記> 「常磐地方の鉄道」より引用[2006.09] 「常磐地方の鉱山鉄道」より改訂[2007.01]
     
  明治30年(1897) 磐城採炭が採炭開始
  明治40年(1907) 多喜坑から植田駅までに馬車軌道を敷設。(本線。軌間は610mm)
  明治43年(1910) 喜久多坑まで支線を敷設。仁井田町で本線に接続
  大正8年(1919) 軽便規格(762mm)に改軌し。本、支線に蒸気機関車を導入
  大正11年(1922) 磐城採炭から鳳城炭鉱に改組
  昭和8年(1933) 経営不振により閉山。本線のレールを撤去。支線は短縮されながらも昭和16年(1941)まで稼動
     
  昭和18年(1943) 大昭炭鉱が採炭再開。磐城採炭・本線の道床を利用して軌道を設置(軌間は762mm)
  昭和20年(1945)  加藤の7tガソリン機関車を導入。(レールは磐城海岸軌道の払い下げ品を使用とのこと)
  昭和37年(1962) 昭和20年代にピークを迎えたが、やがて不況になり廃線。翌年、閉山
     
   

出典 小宅幸一著 「常磐地方の鉱山鉄道」


 <本線>

  本線軌道があったルートを現在の地図に記入すると、ほとんどが車道か宅地に転用されており、
  廃な光景は望めそうもなかったので、実は精査していない。
  そこで、ポイントを駅の南西にある隧道のみに絞って探索した。

 

 

 

 

 

 

 

まずは駅側から西を望む。

あの屏風のような丘に隧道が通っていたはずだ。

現場まで行ってみたが、神社、墓地、宅地が並び、

坑口どころか、それらしい痕跡すら無かった。

 

「空振りか・・・」 ガッカリしつつ、反対側にも行ってみる。

 

ちょうど反対側の様子がこれだ。

住宅密集地ということで、更に徹底した法面処理が成されている。

これを見て、隧道が残っている可能性は全く消えた、

と判断し、帰路に付いた。

 

 

 

 

 

 

丘も低くなり、ますます隧道の可能性が低くなる。

とぼとぼ歩きつつ丘を見ると、

民家の奥に怪しい暗がりを見つけた。

ん? なんだ?

 

 

 

 

ドキドキしながら接近する。

落石防止壁の奥にある暗がりの正体はなんだ?

 

 

 

 

 

 

それは正しく、隧道の西坑口であった。

帰る途中で偶然見つけてしまった。

素朴な素掘りの隧道だったようだ。

下2/3ほどは土に埋もれている。

おそらくは危険防止の為、人為的に埋められたのであろう。

 

 

内部を覗き込む。

10mも行かないうちに行き止まりだ。

中に入るつもりであったが、不法投棄ゴミばかりだったので

やめておいた。

 

字から取って仮に「館跡隧道」と命名しておく。[2006.09]

 

 

予想より北にズレた所に西坑口を発見したので、

改めて東坑口を探しなおす事にした。

丘の上に上って西坑口を確認し、

それを参考に東坑口を擬定し、探してみる。

 

 

 

 

[2006.06]

 

歓喜の発見は二度も続かなかった。

住宅の裏の壁が坑口跡と思われる。

あるいは、左側の竹薮の中かも知れない。

路盤跡すら消えていたとは残念。

 

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