三春馬車鉄道1 (郡山市)   2006.02        [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]

 

磐越東線・阿武隈川橋梁の南に馬車鉄道の橋梁跡がある、

との情報を読者様より頂いた。早速航空写真を見ると

確かに川の中に点々と橋台の跡があるではないか。

橋台跡の延長上には軌道跡と思われる道も現存しているようだ。

この写真が撮影されたのは昭和50年(1975)と

30年以上も前なので現在はどうなっているのか判らないが、

これは行かねばなるまい。

 

  三春馬車鉄道 (1891〜1915)

明治24年(1891) 三春馬車鉄道株式会社 開業。

郡山駅前〜三春町間、12kmを80分から100分で結んだ。

最盛期には5万5千人もの利用があり、貨物も運んだとのこと。

しかし、大正3年(1914)に磐越東線(14分)が開通すると利用者は激減し、

翌年、廃業に至った。

 

三春町のスーパー前にある「三春馬車鉄道会社跡」の石碑

[2003.08]   

 


早速現場に飛ぶ。

阿武隈川・西岸の堤防に上り、

長大な阿武隈川橋梁を望む。

この右側を馬車鉄道が通っていた。

 

 

 

R288を通る度に、この鉄橋は気になっていた。

何本もの石造りの橋脚が整列する様に

魅了されたのであった。

 

広い河原を歩いて、川に接近して行く。

ほんの短い期間であったが、同じ景色を

乗客や馬も見たに違いない。

 

 

 

最近、除草が成されたようで

川を見下ろす所まで容易に接近できた。

残念ながら西岸側の橋脚は撤去されたようだが、

対岸には何やら構造物が見える。

 

 

 

 

う〜ん、何だあれは?

あんな水面スレスレに橋桁が架かっていたとは思えない。

あちらに行ってみるしかあるまい。

 

 

 

 

 

はい、東岸に来ました。

堤防の上から北を望むと安達太良山が見えた。

 

 

 

 

 

 

河原に下りると、先ほどの構造物が目前にある。

なんとか一つだけだが、橋脚の基部が残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

どうやら橋脚基部を利用して鉄骨で橋を架け、

何やらパイプを通しているようだ。

 

 

 

 

 

 

「橋」を渡って末端まで行ってみる。

モーター音が聞こえるので、

水をポンプアップしているらしい。

 

 

 

 

 

橋脚基部を観察すると、

なんと木製の橋脚が一部残っていた。

直径15cmほどの丸太が二本、

右側にも同じく二本見られた。

腐りにくい栗材を使用したのかも知れない

 

 

 

先端から振り返ると、川岸には橋台が見られた。

コンクリート製なので明治期のものとは思えない。

後年の補修、というか、橋は何度か架け替えられたものと

見てよいであろう。

 

 

 

 

 

 

さて、再び阿武隈川・西岸の堤防上に戻る。

木橋の延長上に、真っ直ぐ伸びる車道がある。

これが軌道跡ではないだろうか。

 

[2006.09追記] 軌道跡です。

 

 

 

 

 

しかし、鉄道を彷彿とさせるような物は何もなく、

そこにはただ舗装された道があるだけだ。

 

 

 

 

 

 

車道はやがて磐越東線・陣場架道橋の下をくぐるが、

軌道は直進していたと思われる。

と言うことは、磐越東線開通に伴い、

路線は付け替えられたのであろうか?

 

[2006.09追記] その通りでした。

 

 

車道はすぐにR288に合流している。

ここから先は、併用軌道になり

郡山駅に達していたと思われるが、

ルートは全く不明である。

 

[2006.08追記] 判明しました。2〜4参照

 


 国土交通省東北地方整備局こちらのページで
 「昭和26年(1951)、翌年開催の福島国体に向け、駅前大通りは30m幅のコンクリート道路工事が進められていました。
 そのとき地面から栗の木の角材が掘り起こされ、井げたに積まれていた光景を覚えています。
 調べていくうちに明治20年から大正初期にかけて三春まで走っていた馬車鉄道、通称トテ馬車の線路に使われた枕木であることがわかってね。」
 との記述を見つけた。
 どうやら東北本線と交差して、駅の西口まで来ていたようだ。


ふくしま教育情報データベース」内にて

当時の画像を見つけたのでキャプした。

意外と高い所を通っていたのね。

橋脚は縦5本で構成されてることが判る。

また、橋を歩いて渡っている人も見える。

 

 

 

おー、お馬さんだー。

なんとかレールのサイズと軌間を知りたいものだ。

 

(762mmとのこと)

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  三春馬車鉄道研究の第一人者でおられる橋本捨五郎様より、当掲示板に大変貴重なご投稿を頂きましたので、
  その内容をここに引用させていただきます。

  はじめまして。
  久しぶりに検索していてこちらに気がつきました。三春馬車鉄道を復元した者として、大変嬉しく思います。
  私の知っている範囲で投稿をさせて頂きたく思いますので、よろしくお願いします。
  
           三春馬車鉄道1
  
  1:橋は洪水の度に流されており、何度か架け替えられております。
    (不鮮明ですが橋の修理中に運行した渡し船のような写真があります)
  2:その下の写真:これは軌道の跡です。
  3:軌道は直進していましたが、磐越東線(当時は平郡線)開通にともない、現在のようにカーブしました。
  4:ここから「三春馬車鉄道2」の地図右上の点に繋がります。
  5:左のお馬さんの写真:右端の白い部分を拡大すると、もう一台の写真が見えます。
  6:距離は8マイル17チェーン、軌道幅は2フィート6インチとあります。
  とりあえず、お知らせまで。
                                
No.2090   20060914 () 午前 0719

 

           三春馬車鉄道1-2

    さっそくですが。

  1:当時の三春街道は、三春から来て貴「三春馬車鉄道3」の最後の写真の地点で南小泉部落に入り、
    「三春馬車鉄道1」の写真13番目のルートで西岸に渡りました。
  2:終点を現在の郡山駅東口に計画したものの、反対者の抵抗もあって軌道用地の買収が遅々として進まず、
    結局、既存の道路上に敷設することで許可を得ました。つまり道路も橋も共用だったということで、
    渡し船はありませんでした。なお永久橋は、道路が南小泉部落を外れ、磐越東線沿いの新道と同時に造られました。
  3:馬車鉄道と通行人との間の交通事故2例を、私の「馬車鉄道」という本に掲載しました。
  4:言われるように、確かに珍しい状況だったでしょうね。
                                 No.2108   20060916 () 午後 0052

 

           三春馬車鉄道及び4について。

  三春馬車鉄道2

  1:窓から上を外し、中に入れてから組み立てなおしました。
  2:馭者は運行に専念、車掌がラッパを吹き鳴らしていました。馬車は駅という固定的な所にではなく、
    客の希望する地点で乗降させました。ラッパは、馬車の接近を知らせるものでもありました。
  3:ご指摘のレールにつきましては資料館に連絡しましたので、そのうち、何らかの対応があると思います。
  4:木村館は、当時、郡山駅前にあった旅館の名です。事務所というか車庫は別の所にあったので、
    時間待ちの馭者や車掌の「お休み所」だったのかも知れません。

  三春馬車鉄道4
  5:D地点の狭い道について:私が高校時代まではもっと広く、バスが運行されておりました。
    新しい現在の切通しができてから、なぜか狭くなったようです。
    記憶ではスーパーの写真くらいの巾があったような気がします。
                                  No.2117   20060918 () 午前 1021

 

  1:レールについて。「馬車鉄道31ページ」に記載しましたが、当時の大店(おおだな)の何軒かはこのレールの
   払い下げを受け、道路から土蔵の間をトロッコで商品を運んでいました。郡山でも扇屋、根本薬局、ボーキ佐藤、
   宝来屋(三英堂)、山桜酒造などで使われていました。
  2:枕木について。レールは外しましたが、枕木はそのままにして埋められたようです。
   最近の駅前の道路工事に際し、資料館を通じて、もし残されていたら掘り起こしてくれるよう依頼しましたが、
   柏屋の前の歩道部分のため深くは掘らなかったことから、見ることができませんでした。

                                  No.2135   2006
0920 () 午後 0426


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