国道49号 ・ 誕生までの複雑な変遷  (福島県郡山市〜いわき市)    2013.11    [TOP]  [寄り道]  [廃道Web]

 

  以前、国道49号の旧道を辿ってみようと思いつき、郡山を出発していわき市境までクルマを走らせ、成果をレポート化したことがある。
  現道の右に左にと現れる細い砂利道や緑の藪道を見つけながら寄り道するドライブは、お手軽で中々楽しかったと記憶している。
  しかしそれらは近代的な道であって、江戸期の街道とは全く別物であった。
  「歴史の道調査報告書」に取り上げられた江戸期の「磐城街道」郡山ではなく本宮が起点で、
  しかも三春、小野新町を経由しており、現国道と重なるのはいわき市境以東である。
  明治18年(1885)に仮定県道二等路線・磐城街道に指定された路線は郡山が起点とされているが、
  三春、小野新町、川前を経由しており、現在の国道49号とは全く重ならない。
  まさかいわき市境以西に道がなかったわけではあるまい。
  では昭和28年(1953)に二級国道115号新潟平線に昇格(昭和38(1963)年に一級国道49号に指定)するまでの間、
  郡山〜平間はどこを、どんな道が通っていたのであろうか?
  ずっと謎であった。
 

「YaHoo地図」より転載・加工

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  江戸、明治の磐城街道と、国道49号のルート(一部旧道)
   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  最近になって「指定府県道」というものの存在を知り、調べていた。
  これは大正15年(1926)に内務省から訓示として出されたもので、府県道の中でも特に重要と思われる路線を国が指定し、
  整備費用の3分の1を国費負担とする、といった特別扱いの道路であった。
  「準国道」とも言えるもので、実際、この時指定された路線のほとんどが後に国道になっている。
   
  このとき福島県内で指定されたのは10路線。
  その中に「郡山市ヨリ石城郡平町ニ達スル道路」というのがあった。
  これこそが国道49号の前身ではないか!?
  そう思って起点を見ると「国道四号線(安積郡永盛村ニ於テ分岐)」とある。 現在より何kmも南の地点だ。
  守山からは現道と重なるが、田母神からは小野新町に向かってしまう。
  小野新町から先が不明なのだが、昭和11年(1936)の改正では石城郡川前村経由とあるから、
  改正の際にルート変更されてないとすれば小野新町からは明治の磐城街道と同様に夏井川沿いに下っていたことになり、上三坂は通らない。
  上三坂は江戸期の磐城街道では主要な宿場町であり、国道49号もここを通り抜けていると言うのに・・・。
  小野新町〜上三坂間はアップダウンが多いし、上三坂からは"長坂"と称される延々続く片勾配の坂道があるから、
  これらが敬遠されたのかも知れない。
   
  明治以降、国道になるまでどんな変遷があったのか。 「指定府県道」から漏れた県道も調べる必要がありそうだ。
   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  指定があった大正時代の県道の状況を示す。
  ずばり、「郡山小野新町線」というのがあるのだが、これは宮城村を経由していて国道49号とは全く重ならない。
   
  一方、指定府県道とされた「郡山市ヨリ石城郡平町ニ達スル道路」の詳細も判明した。
  これは「守山笹川停車場線」「小野新町守山線」「小野新町平線」の3路線を合わせた総称であった。
   
  本宮、郡山、須賀川といった中通りの都市からいわき方面に向かうには、必ず小野新町を経由していたことが分かる。
  さぞかし小野新町の旅館は賑わい、小野新町平線は行き交う商人や牛馬で混雑したであろう。
   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  もちろん郡山〜守山間や上三坂にもちゃんと県道が通っていた。
  起点が不明なのだが守山郡山線というのがあり、これがやがて国道49号に昇格したのだと思われる。
  また、上三坂からは小野新町に向かう県道があった。
  前者は後に国道349号になり、後者は国道49号となるのだが、両者とも指定府県道にはなれなかった。
  この2路線は前述した通り、江戸時代の磐城街道でもあった。
  他に須賀川石川からも上三坂まで県道が延びている。
  上三坂は「指定」のルートから外れはしたものの、ハブになる街としてその存在は大きかったと思われる。
   
  田母神〜上三坂間にも当然それなりの道があったと思われるが、当時の県道リストには見当たらない。
  国道49号が県道の寄せ集めであったことが分かったが、この区間だけは「空白」のままである。
  この区間が車道化されたのは国道昇格時なのだろうか?
  だとすると里道か市道から一気に2階級特進したことになる。
  そして今度は小野新町川前が国道のルートから外れることになったわけだ。
  先ほど「指定府県道のほとんどが後に国道となった」と書いたが、これほどの換線があった例は県内で他にない。
   

  その後、昭和20年代後半になって国道が蓬田(平田村)を通ることが決定する。
  県道すらない「空白区間」に国道が通ることになったわけである。
  昭和27年4月に、「平市長など沿線首長12名が県庁に早期路線決定を陳情」とあるから、
  この時期にはまだ具体的なルートは決まってなかったようだ。
  着工は昭和33年で、「平田村史」によると昭和40年竣工とある。
   

 

<古い道標から当時のルートを読み解く>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

A地点 1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この分岐に多数の石碑が集められており、そのうち二つが道標を兼ねていた。

 

 

 

 

 

 

 

最も大きいのはどうやら墓石か慰霊碑のようだが、側面が道標になっている。

建立時期は不明だが、明治か大正だろうか。

右 石川 スカ川

左 岩城

いわきへの道が国道49号を示すわけだが、これでは経由地が分からない。

 

 

 


A地点 2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   
もう一つは大正8年(1919)に立てられたもの。

「北 守山町ヲ経テ三春町及郡山町ニ至ル」

守山郡山線、後の国道49号のルートである。

「南 小塩江村ヲ経テ須賀川及石川町ニ至ル」

これは上の石碑の「右」と一致する。

「東 谷田川村ヲ経テ小野新町ニ至ル」

国道49号のことであるが、磐城の文字はない。

そして途中から逸れて小野新町に進んでいる。

初めて刻印文を読んだ時には小野新町経由を不思議に思ったが、

当時は小野新町守山線が県道だったわけだから当然なのであった。

   

B地点

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いわゆる「空白区間」にも古い道標がある。

建立時期は不明なのだが、この分岐に庚申塔などと兼ねてない純然たる道標が現存する。

 

 

 

 

 

 

「右 仁以町」 小野新町を示す。

「左 須加川」 須賀川を示す。

これには「郡山」どころか「守山」の文字すらない。

かつては郡山より須賀川の方が大都市だったから、指標として須賀川を選んだのかも知れない。

 

「ルートを読み解く」には役立たなかったな・・・。

 

 

 

 

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