東北本線・釈迦堂川橋梁2 (須賀川市) 2005.02    [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  [南側の橋台]

狭い狭い住宅地内の細道を勘に頼って進むと

なんとか目的地に辿り着くことができた。

堤防から既に橋台が見えている。

 

 

 

 

 

橋台のすぐ脇をすり抜け、河原に下りる。

振り返り、見上げると 圧倒的な存在感で

ド〜ンと鎮座してますな。

コンクリートだと、ここまで存在感を醸し出すことは無理だ。

120年の歴史の重みもある。

 

 

        

 

      

接近してみると、石工たちの仕事の証が

完成当時の状態のまま見ることができた。

紛れもなく、ひとつひとつ、人が掘り刻んだ痕跡だ。

 

ゴミ扱いするには惜しいではないか。

現実には次々に消えていっているわけだが。

 

 

手前に石造りの橋脚跡。

奥にある橋脚はコンクリート製だ。

これは水量や水深を配慮したものなのだろうか?

 

 

 

 

 

コンクリ橋脚の奥に見えるのが、

藪に覆われた北岸の橋台である。

 

 

 

 

 

 

こちら側から見ると、

先ほどまであの脇にいたとは思えないような

凄まじい状況だ。

夏になると見えなくなるだろうな。

 

 

 

 

こちらからだと、謎の橋脚も間近に見られる。

六角形断面の橋脚だ。

車道橋だと思われるが、いったいどんな橋が

架かっていたのだろうか。

気になる・・・。

 

 

 

謎の橋脚のすぐ下流にある残骸は、

鉄道のものか、車道のものか?

気になるな〜。

 

 

 

 

 

気になり過ぎて、川を渡って橋脚跡まで来てしまった。

全く何の解決にもならないが、なぜか記念撮影。

こんな絵を見せられる読者も気の毒にな・・・。

 

 

 

 

 

  [南岸の築堤]

橋台裏側の道床は削られ、

築堤下へのアプローチ道になっている。

下流にある「新橋」架け替えのための

工事車両専用道として、再利用した為だ。

よって、ごく最近まではここにも築堤が存在し

しかも藪に覆われていたと思われる。

 

 

橋台の上に上ってみた。

絡みつく蔓のせいで、思いのほか体力を消耗した。

にも拘らず、特にこれといった収穫もなかったので、

現・釈迦道川橋梁なんぞを撮ってみる。

(こんなことは廃道探索では日常茶飯事)

 

 

 

三本の橋脚の奥に対岸の橋台が見える。

 

60年前に連合軍パイロットが見た光景も

こんなだったのだろうか・・・。

  画像参照

 

 

  昭和20年(1945)8月10日、太平洋上の空母を飛び立った攻撃機が郡山の金屋飛行場を攻撃した。
  その内の一機が対空砲に被弾し、須賀川市上空まで逃れたものの、午前8時頃ついに西川に墜落した。
   その際二名の乗員はパラシュートで脱出に成功し、着地。住民に追われた二名は釈迦堂川橋梁を渡って対岸に逃げようとしたが、
   両側から挟まれ、ついに捕らわれた。そのイギリス人少尉とオーストラリア人少尉は郡山の憲兵隊に引き渡された。 
(「須賀川市史」より)

   須賀川市史には「グラマン戦闘機」とあるが、グラマンF6Fヘルキャットは単座の艦上戦闘機である。
   一機墜落して二名脱出したと言うことは、複座であろう。とするとカーチス
SB2Cヘルダイバー艦上爆撃機ではないだろうか。
   一方、「逆ガル型の翼だった」との証言もあり、
チャンスボートF4Uコルセア艦上戦闘機とも思われるが、これも単座だ。

橋台上から工事用道路と化した旧線跡を望む。

右に本線、その右にはR4が平行して通っている。

 

 

 

 

 

 

旧線の築堤が鮮明に見られる。

すぐ脇にまで宅地が迫って来ている。

 

 

 

 

 

 

振り返ると長いコンテナを引いたEH500が鉄橋を通過中。

なかなか良いものを見た。

 

 

 

 

 

 

ここまでが工事車両専用。

橋梁工事は既に終わっているのだが、

今後、この旧線跡はどのように利用されるのであろうか。

 

 

 

 

 

赤白ゲートから南側は、一般車が走っていたり、

駐車場になっていたり、と生活に溶け込んでいる。

そんな旧線の築堤が、この諏訪架道橋まで続く。

 

 

 

 

架道橋のすぐ南側に新旧分岐点がある。

足裏にまだ残存するバラストの感触があった。

 

 

 

   ←前へもどる      この項終了

      [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]