東北本線・釈迦堂川橋梁2 (須賀川市) 2005.02 [TOP] [寄り道] [廃線Web]
[南側の橋台]
なんとか目的地に辿り着くことができた。
堤防から既に橋台が見えている。
振り返り、見上げると 圧倒的な存在感で
ド〜ンと鎮座してますな。
コンクリートだと、ここまで存在感を醸し出すことは無理だ。
120年の歴史の重みもある。
完成当時の状態のまま見ることができた。
紛れもなく、ひとつひとつ、人が掘り刻んだ痕跡だ。
ゴミ扱いするには惜しいではないか。
現実には次々に消えていっているわけだが。
奥にある橋脚はコンクリート製だ。
これは水量や水深を配慮したものなのだろうか?
藪に覆われた北岸の橋台である。
先ほどまであの脇にいたとは思えないような
凄まじい状況だ。
夏になると見えなくなるだろうな。
六角形断面の橋脚だ。
車道橋だと思われるが、いったいどんな橋が
架かっていたのだろうか。
気になる・・・。
鉄道のものか、車道のものか?
気になるな〜。
全く何の解決にもならないが、なぜか記念撮影。
こんな絵を見せられる読者も気の毒にな・・・。
[南岸の築堤]
築堤下へのアプローチ道になっている。
下流にある「新橋」架け替えのための
工事車両専用道として、再利用した為だ。
よって、ごく最近まではここにも築堤が存在し
しかも藪に覆われていたと思われる。
絡みつく蔓のせいで、思いのほか体力を消耗した。
にも拘らず、特にこれといった収穫もなかったので、
現・釈迦道川橋梁なんぞを撮ってみる。
(こんなことは廃道探索では日常茶飯事)
60年前に連合軍パイロットが見た光景も
こんなだったのだろうか・・・。
昭和20年(1945)8月10日、太平洋上の空母を飛び立った攻撃機が郡山の金屋飛行場を攻撃した。
その内の一機が対空砲に被弾し、須賀川市上空まで逃れたものの、午前8時頃ついに西川に墜落した。
その際二名の乗員はパラシュートで脱出に成功し、着地。住民に追われた二名は釈迦堂川橋梁を渡って対岸に逃げようとしたが、
両側から挟まれ、ついに捕らわれた。そのイギリス人少尉とオーストラリア人少尉は郡山の憲兵隊に引き渡された。 (「須賀川市史」より)
須賀川市史には「グラマン戦闘機」とあるが、グラマンF6Fヘルキャットは単座の艦上戦闘機である。
一機墜落して二名脱出したと言うことは、複座であろう。とするとカーチスSB2Cヘルダイバー艦上爆撃機ではないだろうか。
一方、「逆ガル型の翼だった」との証言もあり、チャンスボートF4Uコルセア艦上戦闘機とも思われるが、これも単座だ。
右に本線、その右にはR4が平行して通っている。
すぐ脇にまで宅地が迫って来ている。
なかなか良いものを見た。
橋梁工事は既に終わっているのだが、
今後、この旧線跡はどのように利用されるのであろうか。
駐車場になっていたり、と生活に溶け込んでいる。
そんな旧線の築堤が、この諏訪架道橋まで続く。
足裏にまだ残存するバラストの感触があった。
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