山深い鉱山跡に創設された私立学校  (福島県福島市)  2014.08作成 2015.11公開   [TOP]  [寄り道] 


  先に「万世大路・大滝宿の住宅と生活」を読んでおくことをお勧めします
  <序>
  ある日、二本松市在住のKさんという方よりメールが届いた。 (2014年8月上旬)
  内容は福島市内にある廃線跡についての情報提供であったが、失礼ながら既知・既報の物件だった。
  しかし、Kさんから提供された情報はそれだけに留まらなかった。 以下に順を追ってメール内容を抜粋する。
   
(前略) ソースは、当方の祖父母が保管していた、昭和34年改訂の福島市の地図(出版元失念)です。
  惜しくもその地図は、今から20年以上前に廃棄しております。 (後略)
   
(前略) あと、同地図に記載されていたもので覚えていますのが、大笹生の奥地、大平集落で集落から(旧)万世大路へと通じる道路があり、
  途中に「ナントカ学園」という施設が1軒記載されていたこと、その程度でございましょうか。 (後略)
   
(前略) 大平集落と旧万世大路ルート上の学校ですが、位置が大平集落寄りではなかったかと記憶しております。
  やはり名前が思い出せなくて、漢字2文字+学校か学園でした。
  大平分校とか大平とか地名に由来した名称ではなかったように記憶しております。 (後略)
   
  どうやら、かつて大平のどこかに教育施設が存在し、しかも地図に記載されていたらしい。  
  ここで真っ先に連想するのは、当然ながら庭坂小学校大平分校のことである。 (昭和24年(1949)4月開校〜昭和45年(1970)3月廃校)
  しかし、Kさんによると"地名は付いてなかった"とのこと。 なんだろうか? 謎が深まる・・・。
   
  そこへ、Kさんより追伸が届く。
(前略) さて、夕方インターネット閲覧のおり、大平の学校名を思い出そうと、しばしあーだこーだと考えておりました。
  その結果、"青葉"に辿り着きました。 いま福島市土船にある青葉学園です。
  青葉学園のサイト内に「創設者物語」コーナーがあり、 読んでみますと、土船とは別の土地に創設された旨、記載あります。
  大平の地名こそ出ておりませんが、 創設当時は「熊も出るような山奥に・・・」とあります。
  http://www.kosodate-web.com/aobagakuen/founder.php (後略)
   
  早速、青葉学園の公式サイトを確認してみると、以下の年表を見つけた。 学園の概要 
         

(抜粋)

 

筆者注

  昭和21年 (1946) 6月   戦災孤児の養育と教育のため、旧伊達郡茂庭村蛇体に創設   蛇体銅山の「蛇体」だろうか?
  昭和23年 (1948) 10月   旧信夫郡大笹生村俎山に移転する   十六沼付近だろうか?
  昭和30年 (1955) 5月   現在地、福島市土船に移転する   民家園の北方  
   
  公式サイトにある「熊も出るような山奥」とは、茂庭村 蛇体のことのようだ。
  しかし、蛇体とは中野村 大滝から西川沿いに北上し、さらに峠を越えた奥地であり、しかも大笹生村 大平とは全く逆方向である。
   
  ところで、サイト内には以下のような記述も見られる。
  「(青葉学園の)歌の一番に『川が流れる 音たてて』とあるのは、創立当初の園舎(鉱山の宿舎跡)の下を流れる菱川の情景です」
  確かに大平は菱川の上流にあり、下流には万世大路がある。 これなら件の「記憶の中の地図」と合致する。
  とすると、「蛇体に創設」は誤記ということになる。 西川と菱川を混同したのだろうか? (追記:後日、誤記であることが判明。後述)
  全く別の場所にある、同名の「菱川」なのだろうか?
  本当に蛇体に学園があったとすれば、大滝住民が記憶しているはずである。
   

学園内に掲げられた、「夏でも冷たく飲めるほどに清らかな川の流れで、大人と子どもが食器を洗っている光景です」

との説明がある絵画。

斜面の上に見える建物が蛇体銅山跡に立つ園舎のようだ。

 

 

「青葉学園」公式サイトより引用

 

 

 


  <追記1>
  元大滝住人の紺野さんにお伺いしたところ、予想通り記憶しておられた。 (紺野さんとは「わが大滝の記録」管理人)
  青葉学園は聞いたことが有ります。
  親父から『むかし蛇体には、障害があったり身寄りのない子供のための学校があった』と聞いた事を思い出しました。
  『元大滝分校教諭の佐藤武雄氏(葭沢)がそこから子供を引き取り、里親となって養育していた・・・云々』
  私と同じ時代にも、大滝分校では佐藤先生の引き取った子供が一緒に勉強していたので、
  青葉学園が大笹生俎山に移転後も、子供を引き取っていたようです。
   
  なんと、蛇体で間違いなかった!
  蛇体銅山は大正初期に閉山されたから、約30年も放置されていた鉱山住宅を再利用して、校舎に改修したのだろうか。
  いや、その間、別の誰かが利用しており、保守管理が成されていた可能性もなくはないか。
  それとも、宿舎跡地に新しい校舎を建設したのだろうか?
  資材を運び込むだけでも大変であろうことが容易に想像できる、無人の山奥である。
  さらに、大滝との深い関わりがあったことも判明した。
   
  蛇体に学園があったのは、昭和21〜23年と極めて短期間でしかなかったが、地図は改訂されることなく記載され続けたのであろうか。
  しかし、Kさんの記憶とは位置が大幅に異なる・・・。
  そこで、再度Kさんに詳細を尋ねてみた。
地図上で大平集落から斜め上でもなく横でもなく、上(北側)に道路が延び、その途中にあったと記憶しております。
  いま思い出しても、学園があった場所から万世大路までかなりの道のりがあったようでした。
   
  やはり菱川林道(あるいは赤岩道か)の大平寄りに学園があった、との回答であった。
  さらに、実際に大平を訪れて学園跡を探したこともあったが見つけられなかった、とのこと。
 
  「蛇体にあった」という公式記録と大滝住人の記憶。
  「菱川沿いにあった」という公式記録とKさんの記憶。 (追記:後日、誤記であることが判明。後述)
  どちらが正しいのだろうか? それとも、どちら「も」正しいのだろうか?
   

紺野さんから、「蛇体とは、文殊山の北側の川沿い、との情報を得た」との連絡を頂いたので、作図してみた。

(追記:後日、大間違いであったことが判明)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  <追記2>
  青葉学園に直接問い合わせてみようと思っていた矢先、紺野さんが先行して学園と連絡を取り、情報や資料の提供を受けていた。
  まず、公式サイトにある、
  「(青葉学園の)歌の一番に『川が流れる 音たてて』とあるのは、創立当初の園舎(鉱山の宿舎跡)の下を流れる菱川の情景です」
  の「菱川」は記載ミスで、正確には「烏川」であった。
  「(青葉学園の)歌の一番に『川が流れる 音たてて』とあるのは、創立当初の園舎(鉱山の宿舎跡)の下を流れる烏川の情景です」
  が正解。 (現在は修正されている)
  では、「蛇体に創設」されたのも誤りかというとそれは正しく、一方、「俎山に移転」の俎山を「十六沼付近」と考えたのは私の誤認であった。
  実は大平付近の菱川沿いにも俎山(または俎板山)という地名があったようなのだ。
  以下、これまでの誤り修正しつつ、新たに判明した歴史と地図を記す。
             

筆者注

 

昭和20年

(1945)

4月

  三尾砂(みおいさご)氏    東京から中野村東横川に転居。分教場の助教となる
  昭和21年 (1946) 6月   旧伊達郡茂庭村蛇体に創設   蛇体銅山の廃宿舎を改修して再利用。大滝青年団も協力した
 

  10月   旧信夫郡中野村大桁に移転   「冬の蛇体は危険」との大滝住民の助言を受け、わずか4ヶ月で移転
              休止中だった中野銅山・鉱山住宅の隣にあった(廃屋の流用か)
  昭和23年 (1948) 10月   旧信夫郡大笹生村俎山に移転する   赤岩道と菱川林道が合流する辺りに新築(中野銅山再開の影響か)
              土地は、大滝から大平開拓地に移住した斎藤氏から購入した
  昭和30年 (1955) 5月   現在地、福島市土船に移転する   民家園の北方あたり。3度の移転には毎回大滝住民が協力していた
   
想像図

(実は大間違い)

   

蛇体銅山の鉱山住宅を改修した蛇体園舎。前に流れるのが烏川

蛇体園舎前での授業の様子。「青葉学園」との質素な看板が見える

   

大平の傾斜地に新築された俎山園舎。かなり規模が大きい

「青葉学園の五十年の歩みと三尾砂」より転載

 
   
昭和41年(1966)撮影なので時代はかなり異なるが、

大桁園舎は「鉱山住宅跡」付近にあったと思われる。

(追記:後日、間違いであったことが判明)

「国土変遷アーカイブ」より引用・加工

 
   

  <追記3>
  その後、紺野さんの所に元大滝住人の方々から次々に新情報が集まり、それを転送して頂いた。
  最大の収穫は、蛇体の位置の大幅な変更である。 (文殊山の北、というのは勘違いで、実際は西だった)
  今回の情報により、蛇体銅山や蛇体園舎の位置をほぼ特定できた。
  また、「蛇体地区には鉱山が3箇所あった」というのも驚きであった。
  以下に、その新情報の詳細を記す。
   
大滝から西川沿いに蛇体道を上って行くと、字首尾戸山で峠を越える。
ここを首尾戸峠という。
地名は「しゅびとやま」だが、地元では峠を「くびと」と発音する。 由来は不明。
蛇体道の幅員はリヤカーが通れるほど広く、バイクで入る釣り人もいたと言う。
 
峠を越え、横川沿いに下って行くと烏川に合流するが、
蛇体道は途中から反れて、西側の尾根を越える道を上って行く。
その尾根のピークを青葉峠という。 学園名の由来はこれだろうか。
逆に、学園名が峠に付いたのだろうか。
 
坂を下りきると烏川に到達し、少し遡った所に蛇体銅山があった。
その鉱山宿舎の廃屋を利用して青葉学園が創設されたわけだ。
鉱山もこの付近にあったらしい。 便宜上、第二坑と仮名しておく。 
 
そこ以外に、更に南の山奥にも坑口があった。 第一坑と仮名する。
(川瀬氏が経営していたので、川瀬鉱山とも呼ばれていたという)
 
末松銅山は採掘期間が短く、詳細は不明。
 
大桁園舎についても詳細不明。写真もない。
 
前掲写真に写る俎山園舎は、赤岩道からも見えたという。
その姿を、度々大平に通っていた元大滝住人の方が記憶していた。


首尾戸峠の頂部は広く平坦なブナ林で、東や西に向かう道もあるとのこと。
炭焼きの職人が歩く杣道への分岐点でもあったようだ。
第一坑からの鉱石運搬道が接続していた可能性もあるか。
峠から北へ15〜20分ほど下ると横川に出るが、道が鮮明なのはここまでで、
大滝の人は藪化した道を通らずに河原を歩いていたとのこと。
 
地図で見る限り、青葉峠の両側はかなり急な坂である。
「鉱石を載せたソリを牛で運んだ」、とのことなので、
九十九折れの道があったのかも知れない。
学園が転出した後は歩く人がいなくなり、やがて藪で通れなくなったとのこと。
山菜やイワナを採る人に、ショートカットのルートは無用だったのだろう。
 
峠を下りた所で茂庭への道が北へ分岐していた。
ある大滝住人は、山菜やキノコを採りながら蛇体道を歩き、茂庭に出て一泊。
翌朝飯坂温泉に向かい、山菜を旅館に売って現金収入を得ていたとのこと。
その足で万世大路を歩き、大滝に戻ったという。 ・・・健脚である。
 
蛇体園舎付近には「がけ」の記号があり、
斜面ばかりで宿舎を建てるような平場などないように見える。
正確な位置については再考の余地がありそうだ。
 
横川にも烏川にも橋はなく、あっても丸太を渡しただけの簡単な橋だった。
ただ、「第二坑付近の川の中にレールが落ちていた」との証言があるので、
かつては運鉱軌道の橋が架かっていた可能性がある。
つまり、当初の運鉱道は烏川右岸を通っていたようなのだ。
橋が使用不能となったため、渡河地点をやや下流に付け替えたのだろう。
道を拓いたのは、学園創設に関わった大滝の人たちかも知れない。
   

  <追記4>
  蛇体銅山について詳細が判明した。
  ソースは「福島県鉱産誌」で、昭和40年(1965)に県の企画開発部から発行された本である。
   
  これによると茂庭鉱山が正式名で、栄坑、蛇体坑、作坑のほか、金山沢新坑があったようだ。
  つまり本来なら茂庭鉱山・蛇体坑とピンポイントで呼ぶべきであろうが、
  それでは長くて言い難いし、「茂庭」では広域すぎるので、蛇体銅山と省略されて伝えられたのかも知れない。
   
  また、私が勝手に第一坑と命名した場所を、大滝の人々は「蛇体こう」と呼んでいたとのこと。
  漢字は人によって、蛇体口、蛇体鉱、と異なるが、「蛇体坑」だとすると位置が特定できたことになる。
  第二坑や末松銅山が、栄坑か作坑に該当するのかも知れないが、
  第二坑のことを大滝では「蛇体鉱山」と呼んでいたらしいので、坑口名と位置についてはまだ謎のままである。
   
       

茂庭鉱山

 

筆者注

        上杉領時代に発見される    
  明治37年 (1904)   肥田累之助が開山    
  明治40年 (1907)   渡辺某により売鉱    
  明治42年 (1909)   清水四郎、他2名により売鉱    
        オットライメス(ドイツ人)の手に渡る   輸入商社「オット・ライメールス商会」、とのこと おばらさん調べ)
幹部に八茎鉱山の社長で、磐城セメントの創業者・広瀬金七がいた
  大正5年 (1916)   石部泰蔵(泰三)、他1名により採掘開始    
  大正9年 (1920)   休山    
  昭和14年 (1939)   川瀬留吉が採掘再開したが、交通不便のため休山   そのため「川瀬鉱山」と呼ばれていたことは前述した

 


  <追記5>
  ここに来て、大どんでん返しが発生した。
  学園への道は鉱石運搬道を再利用したわけではなく、新規に開削したとの古老の証言が届いたのである。
  信じ難いことだが、尾根を越える峠の位置も運鉱道と学園道とは異なるらしい。
  以下に新情報を想像を交えて記す。

想像図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  茂庭鉱山・蛇体坑には選鉱場が併設されており、コンクリート製だったため後年まで残っていたとのこと。
  大正初期のコンクリート建造物というのは、かなり珍しいのではなかろうか。
  宿舎などの施設は、崖と崖の間にある僅かな平場に立てられていた。
  坑口はすぐ裏にあったとのことだが、古老が見た時には既に崩れて埋まっていたという。
  構内には、まだレールが敷かれたままになっていたことも記憶しておられた。
  選鉱場前の烏川には木橋が架けられており、鉱石をトロッコで対岸に運んでいた。
  どこかに集積場があり、そこで牛ソリに載せ換えていたのだろう。
  (牛によって運ばれた鉱石は大滝集落西端にある集積場に集められ、そこからは馬車で運び出されていた。)
  木橋は閉山の際に意図的に落とされたが、河原にレールが残っていたと言う。
   
  閉山から20余年、鉱山宿舎を利用して学園が開設されることになった。
  かつての運鉱道は藪に埋もれてしまって通れるような状態ではなく、木橋も落とされていて使えないので、
  学園への道は全く新規に開削されることになった。
  烏川は深い渓谷のため、架橋地点は両側が崖になってない場所が選ばれた。
  丸太を2本束ねただけのシンプルな橋だったとのこと。 当然ながら現存しない。
   
  また、尾根を越える青葉峠の位置も分からなくなってしまった。
  証言によると、「峠の東側は緩やかな坂だったので楽だったが、西側は九十九折れの急坂だった」とのこと。
  「蛇体から中野銅山(大桁園舎)への引越しの際は、荷物を担いでこの急坂を上ったので、本当に苦しかった」と、リアルな証言も得られた。
  この証言から想像すると、<追記3>にて「青葉峠」とした場所は東西共に似たような傾斜なので、間違いである可能性が出てきた。
  ただし傾斜は西側の方が長い。つまり、烏川の方が谷が深いのだ。 これが「本当に苦しかった」理由かも知れない。
  ・・・・と言うわけで、新事実が判明した一方、謎も増えてしまった。
   
  たった4ヶ月しか使われなかった青葉峠越えのルートだが、移転後は山菜取りの人にもイワナ釣りの人にも使われなくなってしまったため、
  すぐに藪に覆われてしまい、やがてそこに道があったことすら分からない状態になったようで、記憶している人はほとんどいない。
  つまり、運搬道も学園道も、"どちらも分からない"のである。
   

  <追記6>
  2014年に<追記5>を記してから1年。新たな進展があった。
  2015年8月11日(火)、福島放送(KFB)の夕方のニュース番組「ふくしまスーパーJチャンネル」にて、青葉学園が特集されたのである。
  内容は、年老いた卒業生と一緒に学校跡を訪れ、遺構を見つける。現園長へのインタビュー。三尾砂が残した資料の紹介。などであった。
  「戦時中、疎開した学校」みたいな紹介だったので冒頭の数分を見逃してしまい、学校跡の位置は不明。
  「福島市の中心から○km離れた郊外に〜」みたいなナレーションだった記憶がある。
   
  深い藪に埋もれた学校跡には、石垣やコンクリ片(風呂跡とのこと)が残存。 どうやら俎山園舎の跡だった模様。
  「戦後処理で、日本がドイツのように米英ソなどの連合国に分割占領されることを想定し、そのどれからも遠く離れた場所として福島を選んだ」、
  との内容は初耳で、大いに驚かされた。
  わざわざ山深いの鉱山跡に開校した理由が判明した。 政治に干渉されない自由な教育環境を求めた結果だったのだ。
   
  三尾に宛てられた何通かのハガキも画面に映った。
  彼の教育方針はGHQや文部省からも注目され、視察に訪れる役人もいたと言う。
  GHQの教育顧問が送ったハガキには、「福島縣信夫郡中野村大瀧 三尾砂先生」、とあるように見える。
  消印は読み取れないが、表に「昭和21年11月」と追記してある。 これは青葉学園が大桁に移転した直後である。
  しかし、宛て先はなぜ蛇体でも大桁でもなく、移転したわけでも住んでいたわけでもない大滝なのだろうか?
  推測するに、山奥にある蛇体までは郵便物を届けてもらえないので、
  大滝に留め置き、おそらくは太見家が営む商店(切手や印紙を扱っていた)で預かって貰っていたのではなかろうか。
  あるいは、例えば「青葉学園・大滝出張所」などという、形だけの組織を大滝地内に設置しておき、
  届いた郵便物は、米、味噌、野菜などと一緒に、大滝の人か学園の職員がまとめて運ぶようにしていのかも知れない。
  しかし、差出人は移転したことをまだ知らずにハガキを出したため、「中野村大瀧」と書いたのではなかろうか。
 
  <追記7>
  青葉学園に焦点が当てられたことに驚き、喜び、さらなる詳細や不明点を照会すべくKFBにメールを送ったところ、
  さっそく翌日に返信を頂いた。
  (前略) まず学校跡の詳細な場所ですが、福島市大笹生大平にある集落から3kmほど北に進んだ俎山という場所です。
  詳細な住所は分かりませんが、青葉学園の資料には俎山(紺野繁右衛門 平野村村長所有地)と記述されています。
  卒業生の方に案内をして頂きましたが、正直、道なき道を進むという感じで、どんな場所を通ったのか説明をするのが難しい状況です。
  卒業生の方でも道に迷うような状況で、大平を出発し1時間ほどかかりました。
  蛇体・大桁の校舎跡は、とても半日で行ける距離ではないという事で、今回は訪問を断念しました。
  手紙の住所ですが、「福島県信夫郡野村 大滝教育研究所」と書かれているように思います。 (後略)
  とのことであった。 左上に写っていたハガキのことだろうか。 「平野」は「中野」の誤読だと思われる。
  また、番組には「二十四の瞳」で有名な壺井栄から三尾に宛てたハガキも映っていた。(三尾の住所は東京・神田であった)
   
  映像にあった学校跡は、やはり俎山園舎跡であった。
  正確な位置が判明すると期待したが、深い山中の藪の中ということで困難らしい。
  当初は蛇体園舎跡も訪問する予定だったのだろうか? ぜひ取材して現状を放映して欲しいものである。
   
  また、<追記6>で触れた"ハガキの宛て先が大滝"問題は、「大滝教育研究所」が大滝地区に設置されていたから、
  という可能性が考えられそうで、それなら納得である。
   
  紺野繁右衛門なる人物は初見なのだが、調べると平野村の資産家だったようで、
  隣接する中野村の円部製炭改良組合へ設立資金を貸すなどしていたことが分かった。
  <追記2>にて「大滝から大平開拓地に移住した斎藤氏から購入した」との古老情報を書いたが、
  学園側の資料では「紺野氏の所有地」となっているらしい。
  元は斎藤氏の土地だったが、売却したか、あるいは借金のカタとして紺野氏の所有地になったのかも知れない。
  しかし、当時の大滝住民間では「斎藤氏の土地」という認識のまま定着していた、という可能性もあろうか。
   

  <追記8>  2017.09
  2017年7月、大滝から蛇体道を遡り、青葉学園・蛇体園舎跡を探し出そう、との探索が行われた。
  結果的には、途中から藪に阻まれて蛇体道を辿ることができなくなり、園舎跡に近づくことは出来なかったのだが、
  探索の前後に作成された資料を頂くことができたので、ここで紹介する。
   
 
これは「青葉学園五十年の歩みと三尾砂」に掲載された地図である。
これによると、蛇体道のルートをはじめ、首尾戸峠青葉峠の位置、
さらには、青葉学園の位置までも、これまでの見解(カラーで加筆)と大きく異なる。
 
またしても、大どんでん返し・・・と思ったが、ここで<追記5>を思い出した。
「学園への道は鉱石運搬道を再利用したわけではなく、新規に開削した」との証言である。
つまり、「五十年」に描かれたルートは、蛇体園舎開校の際に開削された新道の可能性がある。
だからルートはもちろんのこと、各峠の位置も異なるのだ。
しかし、首尾戸峠の位置まで変わってしまった点については疑問が残る。
「新首尾戸峠」ということだろうか?
それにしても、既存の蛇体道を使わずに、
わざわざ多大な手間を掛けて新道を開削したのはなぜだろうか?
再生不可能なほど崩落や土砂崩れで荒れてしまっていたのだろうか?
 
今後は蛇体道と学園道を混同せず、区別して論じる必要がある。
ちなみに、大滝の人が茂庭に出る際に利用した道には石碑があったとのことなので、
これはおそらく蛇体道のことであろう。 (ソース不明)
   
 
今回の探索に参加予定だったおばらさんが、
上記「五十年」の地図を、地理院図にトレースしてくれた。 (引用許諾済)
戦後間もない昭和21年に新規開削されたと思われるルートが、くっきりと浮かび上がる。
 
ところで、「五十年」の筆者は何を参考にルートを確定したのだろうか。
当時の図面か地図が残っているのだろうか。
   

  <追記9>  2017.09
  さて、<追記2>にて中野鉱山の位置から蛇体園舎を推定したわけだが、
  その根拠とした鉱山の位置を、そもそも誤認していたことが判明した。
  新情報ソースは元大滝住人や、当時鉱山住宅に住んでいた方なので、ほぼ間違いないと思われる。
 
これが<追記2>で示した写真である。
ここで私が「中野鉱山」とした施設だが、
「この辺りで養魚場を始めた人がいた」との証言を新たに得られた。
写っていたのは鉱山施設ではなく、水槽だったのだ。
これはこれで、今まで知られてなかった情報である。
「橋?堰?」とした所は、養魚場に渡る橋のようだ。
   
 
また、証言に加えて蛇体園舎のイラストも入手できた。
これも「青葉学園五十年の歩みと三尾砂」に掲載された地図で、
園舎や銅山の位置だけでなく、園舎の平面図まで載った詳細なものである。
これは決定的な決め手であろう。
   
 
各証言や上記資料を元にして、航空写真に加筆してみた。
これは昭和23年(1948)6月に撮影されたものなので、
写っているのは、この10月に移転して大桁園舎となる直前の
鉱山事務所の姿ということになる。  
これは貴重だ。
「国土地理院」より引用・加工
   
  施設が古くなったのか、あるいは採掘場所が変わったからか、鉱山事務所・鉱山住宅は北東に移った。
  そこで青葉学園は空いた事務所を借り、蛇体から移転することになったわけである。
  当時、現地や大滝の人々は、中野鉱山のことを「あかがね銅山」と呼んでいたとのこと。
  鉱山住宅に住んでいた子供たちは大滝分校に通っていたので、大滝の人々とは交流があった。
  しかし、国道13号バイパスが開通したことで交通の便が良くなり、分校の児童は本校である中野小学校にバスで通うようになったので、
  大滝分校は廃止となった。
   
  さて、この大桁園舎も長くは続かなかった。
  ここでの生活の惨状を見かねた福島大学教授の川村安太郎氏が市当局と協議した結果、俎山に校舎を新築・移転することになったという。
   
 
 昭和41年(1966)2月 昭和41年(1966)3月 
  青葉学園が去って20年余り経過した同地である。
  イラストに描かれた「杉の木」の影や、「池」らしきものも写っているように見える。
  3月撮影の写真には、鉱山宿舎の土台も鮮明に写っている。 
  「小川に架かる橋にはトロッコのレールが敷かれていた」、との証言も得られたのだが、
  これは鉱石ではなく、支保工の木材や採掘の機材などを運ぶためのものだったと思われる。
  また、「校舎付近には後に選鉱場が建設された」との証言もあったのだが、東隣に写る大きな正方形と小さな長方形の列がそれなのかも知れない。
   
  中野鉱山が閉山したのもこの頃で、昭和37年頃に採掘が終わり、その後2年ほど残務整理が細々と行われた後、
  昭和39年頃には無人となったようだ。
  しかし、残念ながら「あかがね銅山」付近は撮影されてないので詳細は不明である。
  その後、採掘が再開されることはなく、現在は深い藪に埋もれている。
   

  <追記10>  2018.01
  2017年11月、蛇体銅山第二坑、および青葉学園・蛇体園舎跡への探索行が、7月に引き続いて再度決行された。
  今回は大滝側からではなく、反対の茂庭側からのアプローチを選択し、
  苦労の末、なんとか園舎跡への到達に成功。その対岸に鉱山跡を目視することができた、とのこと。
  その顛末が「わが大滝の記録」内の「速報 青葉学園蛇体園舎跡に到達」にて、PDFにまとめられているので、
  詳細はそちらを参考にして頂こう。
   
  また、園舎および鉱山の所在地が、これまでの説よりもずっと下流であったことが判明したので、
  <追記3>の図を訂正して再掲する。
 
   

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              [明治期の万世大路・大平宿]  
  <<無断転載不可>>